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石原慎太郎「太陽の季節」成熟不良の少年たちを生み出した戦後社会の責任

石原慎太郎「太陽の季節」あらすじ・感想・考察・解説

石原慎太郎「太陽の季節」読了。

本作「太陽の季節」は、1955年(昭和30年)7月号の『文学界』で新人賞受賞作として発表された短編小説である。

この年、著者は23歳だった。

なお、本作「太陽の季節」は、1955年(昭和30年)、芥川賞を受賞している。

反抗ではなく甘えであり、抵抗ではなく自己弁護

「太陽の季節」は、不良高校生が女の子を妊娠させ、中絶手術を受けさせるが、手術の失敗により女の子は死んでしまうという、救いようのない物語である。

主人公<津川竜哉>の無軌道な生活ぶりは、当時、新しい世代を代表するものとして絶賛されたらしいが、令和の現代に読み返してみると、津川竜哉の生き方に共感できるほどの普遍性は感じられない。

つまり、この小説は、時代の一瞬の先端(あるいは末端)を切り取った風俗小説だったというところなのだろう。

と言うよりも、汚れた沼の表面に浮いているゴミだけを救いとって描かれた物語が、「太陽の季節」だったのではないか、という気もする。

一貫して感じられるのは、生活に困ることなく育てられた、わがままな少年の、自己中心的な考え方である。

当時は、それを「反抗」とか「抵抗」という言葉で理論化したが、我々の目からは、反抗ではなく甘えであり、抵抗ではなく自己弁護にしか見えない。

死んだ恋人<英子>の葬式で暴れまわる言動も含めて、竜哉の生き様は(安定した生活に裏打ちされた)甘えと自己弁護で構築されている。

そして、そのことに主人公が気が付いていないという部分では、「太陽の季節」はユーモア小説の一種とさえ思られるのだ。

毎夜十時にもなると、西村の別荘に集まっている連中は、その夜の相手の定まった者を送り出すと、一斉に「処女撲滅運動万歳!」と凄まじい歓声を上げ、涼み客の出た森戸や逗子の海岸に押し出して行くのだ。乾き上った季節に、獲物は案外多かった。それでもあぶれた連中は十二時になると、海岸入口に置いた友人の車に集まり、隣りの町へ女を買いに行った。(石原慎太郎「太陽の季節」)

石原慎太郎の「反抗」の最大のポイントは、経済的余裕がなければできないものだったということだろう。

「それが俺たちの世代だ」と、竜哉は言うのかもしれない。

もしそうだとしたら、この小説は極めて小市民的である。

自己認識に欠けた小市民による、小市民的な物語だということである。

成熟不良の少年たちを生み出した戦後社会の責任

発表当時、この小説は「感情を物質化する新世代」を描いた作品として絶賛されたという。

それは、著者と同世代の若者ばかりでなく、彼らが否定する大人世代からも肯定的に受け入れられた(だからこそ芥川賞を受賞したのだが)。

もしかして、本来、この作品が持っている本質的な意義は、成熟不良の少年たちを生み出した戦後社会の責任を問うことだったのではないだろうか。

竜哉は考えていたがやがて言った。「よし、あの五千円であ奴(あいつ)を売ってやらあ」道久はその言葉にいたく満足して答えた。「よし、買った」こうして竜哉は英子を女奴隷のように売り飛ばしたのだ。(石原慎太郎「太陽の季節」)

彼らの甘えと自己弁護は、世代的な価値観の転換というものとは違う。

むしろ、彼らを生み出した戦後社会というものを(あるいは戦後社会を形成する世代の生き方を)振り返ってみることで、僕はこの作品を正しく理解できるような気がした。

利己的な甘えと自己弁護を文学的情緒で埋め合わせたものが「太陽の季節」という作品である。

少なくとも、次の作品を読みたいと思えるような、つながりを生み出す文学ではない。

時代の表面を拭い取って見せつけられているような気がした。

作品名:太陽の季節
著者:石原慎太郎
書名:太陽の季節
発行:2000/4/25 改版
出版社:新潮文庫

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。