小沼丹に「お墓の字」というエッセイがある(随筆集『小さな手袋』所収)。
井伏鱒二に自分の墓石の字を書くように頼んでくれと、大学の先輩教授・谷崎精二から頼まれたときのエピソードである。
今度墓を造りたいが、その墓の字は井伏鱒二氏に書いて貰いたい、君から宜しく頼んで欲しい。或る日、谷崎先生が僕を摑えてそう云われた。(小沼丹「お墓の字」)
その話を聞いた井伏鱒二は「俺は厭だよ」「そんなの厭だよ」と、けんもほろろだったが、谷崎精二があまり真剣に頼み込むので、最後にはとうとう書かざるを得なくなった。
このとき、井伏鱒二が書いた墓石の文字は、谷崎精二の没後、約束どおりに使用されたが、その墓石は今、東京巣鴨にある慈眼寺の墓地に建立されている。
井伏鱒二が書いた「谷崎精二之墓」
慈眼寺(じげんじ)は、染井霊園の隣にあるお寺で、巣鴨駅から向かうと、染井霊園を過ぎた突き当たりにある。
このお寺は、芥川龍之介の墓があることで有名らしく、随所に案内標識が立っていた。
目的の谷崎精二の墓は、「谷崎家之墓」と並んで建っている。
やっと井伏さんが承知されて、拙宅に谷崎、井伏両先生をお迎えして「お墓の字を書く会」をやることになった。古い手帖を見ると、昭和四十四年一月二十六日の所に、「井伏さん、三浦哲郎君同伴にて来駕。続いて谷崎さん、西川正一君同伴にて来駕。西川君には付添を頼んだのなり」とある。他に二、三の友人も来て愉快に酒を飲んで、その席で井伏さんは「谷崎精二之墓・井伏鱒二書」と揮毫された。(小沼丹「お墓の字」)
なるほど、目の前の墓石には、「谷崎精二之墓」という文字の横に、ちゃんと「井伏鱒二書」という署名がある。
谷崎精二ファンのみならず、井伏鱒二ファンにとっても見学する価値のある墓石だが、あいにく谷崎精二の名前が、あまり知られていないのが惜しい。
1971年(昭和46年)12月14日、80歳で没した谷崎精二は、若い頃に小説家を志していたものの成功することはなかった。
一方で、早稲田大学の英文学者としては名を上げ、翻訳家としても『ポオ小説全集』などの業績を残した。
1967年(昭和42年)に刊行された随筆集『明治の日本橋・潤一郎の手紙』では、谷崎精二の生い立ちを詳しく知ることができる。
井伏鱒二がお墓の字を書いた1969年(昭和44年)、谷崎さんは79歳で、自伝的随筆集を刊行したり、墓石を用意したりと、周到に終活準備を進めていたものらしい。
友人が集まって、愉快に酒を飲みながら、墓石の字を揮毫したというのは、とても楽しいエピソードだと思う。
当時の文士仲間たちの温かい友情が伝わってくるようだ。
墓所には、兄・谷崎潤一郎の墓もある
ところで、墓所には、兄・谷崎潤一郎の墓もあった。
谷崎潤一郎の墓は、京都にもあるから、東京と合わせて二つのお墓があるということになる。
文豪としては、圧倒的に谷崎潤一郎が著名だが、自分は人間味溢れる谷崎精二の作品を愛読している。
小沼丹の短編「竹の会」(『藁屋根』所収)で描かれている谷崎精二も人間らしくていい。
ちなみに、お墓の字の話は「竹の会」にも登場していて、井伏さんは「お墓? 冗談じゃないよ、厭だよ」と、あっさり断ったと綴られている。
井伏さんが承諾されたので、或るとき、谷崎さんと井伏さんをお招びして拙宅で「お墓の字を書く会」をやった。これを正確には「井伏鱒二先生は谷崎精二先生のお墓の文字を書き、残余の者は謹んでこれを拝見し、且つ愉快に酒を飲む会」と云うのである。(小沼丹「竹の会」)
「残余の者」には、横田瑞穂や吉岡達夫、岩淵鉄太郎など、竹の会の会員が入っていた。
このとき、谷崎さんは、お墓の字の他に「さよならだけが人生だ」の詩も書いてもらったらしい。
今、谷崎精二の作品を気軽に読むことができないのは、本当に残念なことだと思う。
井伏鱒二揮毫の墓石に両手を合わせながら、いつか、谷崎精二の作品が再評価される日が来ることを願った。
そんな日は、きっと来るような気がするんだけど。
なお、谷崎潤一郎と谷崎精二の関係については、二人の実弟である谷崎終平の『懐かしき人々─兄潤一郎とその周辺』で詳しく知ることができる。