コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』読了。
本作『シャーロック・ホームズの冒険』は、1892年(明治25年)にジョージ・ニューンズ社(イギリス)から刊行された短篇小説集である。
この年、著者は33歳だった。
初出は、1891年(明治24年)7月~1892年(明治25年)6月『ストランド・マガジン』。
映画とドラマで復活したシャーロック・ホームズ
初めて、シャーロック・ホームズ・シリーズを読んだのは、中学生のときだった(おそらく1980年頃)。
当時、延原謙・訳のホームズ物語が、青い背表紙の新潮文庫から刊行されていて、多くの少年少女は、この新しい文庫で、シャーロック・ホームズに触れたはずだ(新潮文庫のシャーロック・ホームズは、1978年から1980年にかけて刊行された)。
高校生になっても、ホームズ熱が収まることはなく、いっぱしの「シャーロッキアン」を気取っていた自分を思い出す(シャーロック・ホームズの熱烈なファンを「シャーロッキアン」と呼んだ)。
講談社から『シャーロック・ホームズ大全』が刊行されたのが、1986年(昭和61年)9月で、自分にとって、この頃が、最大の「シャーロック・ホームズ期」だったかもしれない。
この年の4月、大学の文学サークルに入部したことで、読まなければならない小説の幅が大きく広がり、自分の読書は、純文学中心へと移行していったからだ。
その後、本格的に「ホームズ」を読み返すことはなかったが、近年になって久しぶりにホームズ熱が復活した。
映画とテレビドラマが、自分の中のシャーロック・ホームズを復活させたのだ。
ガイ・リッチー監督の『シャーロック・ホームズ』(2009)は、これまでのシャーロック・ホームズ像を覆すような、スピード感あふれるアクション映画だった(出演は、ロバート・ダウニー・ジュニアとジュード・ロウ)。
続編『シャーロック・ホームズ シャドゥ ゲーム』(2011)と合わせ、このホームズ映画は、とても面白いもので、自分としては、現在も、第三作目の登場を心待ちにしている(もう無理か)。
なにより、19世紀のイギリスを舞台にしたミステリーを、アクション映画で再構築するという解釈が新鮮だった。
さらに、イギリスBBC製作のテレビドラマ『シャーロック』(2010~2017)も、自分の中のシャーロック・ホームズ観を、大きく変えてくれた作品だ(出演はベネディクト・カンバーバッチとマーティン・フリーマン)。
21世紀のイギリスを舞台とする『シャーロック』では、インターネットやスマートフォンを駆使して事件を解決するシャーロック・ホームズを観ることができる(発想としてあり得ないところがいい)。
荒唐無稽とも思われるが、それでいて「シャーロック・ホームズ」の世界観は、一定程度維持されているところがすごい(あくまで一定程度だが)。
パロディと言えばそれまでだろうが、『シャーロック』もまた、コナン・ドイルの作品を再構築した、新しい解釈によるホームズ物語だったのだろう。
映画でもドラマでも、アイリーン・アドラー(美しいヒロイン)やモリアーティ教授(最大のライバル)が、必要以上にアピールしているところは、ちょっと気になるが、これもまた、エンターテインメント作品のスパイスである。
熱心に「ホームズもの」を観ていたからか、娘は、シャーロック・ホームズのマグカップをプレゼントしてくれた。
これは、「ハヤカワ・ポケット・ミステリ」を出している早川書房から発売されているもので、デザインを水戸部功が担当している(「ハヤカワ・ポケット・ミステリ」の装丁と同じ)。
ここまで大きなサイズが必要かと思われるくらい大容量で、ネイビーとゴールドの組み合わせがカッコいい(娘は、自分用にグレーとゴールドのやつを買った)。
どうやら、現代のシャーロック・ホームズは、新潮文庫だけのシャーロック・ホームズではないらしい(あたりまえだけれど)。
映画やドラマの影響で新訳も多く、今は、多様なシャーロック・ホームズを楽しむことができる時代だ。
永遠の名作である「シャーロック・ホームズ」は、常にブラッシュ・アップされていかなければならないのだろう。
ホームズ哲学としての名言
今回、自分が読んだのは、石田文子・訳による角川文庫版『シャーロック・ホームズの冒険』である。
コナン・ドイルは、シャーロック・ホームズの短篇集を、全部で5冊出版しているが、その最初の作品が『シャーロック・ホームズの冒険』だった。
実は、それ以前に『緋色の研究』(1887)と『四つの署名』(1890)という長編小説が発表されているのだが、長編小説のホームズは、当時、さほど話題にはならなかったらしい。
だから、「シャーロック・ホームズ」に対する高い評価の要因となった作品は、本作『シャーロック・ホームズの冒険』だった、ということになる。
実際、『シャーロック・ホームズの冒険』は、コナン・ドイルの代表作であり、初めてホームズものに挑戦する人は、この作品集から入ると裏切られることがない(長篇からは入らない方がいい。シャーロック・ホームズは短篇の物語なのだ)。
今回、久しぶりに読み返してみて、この第一作品集には、シャーロック・ホームズに必要なものが、ほとんど入っているのではないかと思った。
例えば、映画やドラマではヒロインとして活躍するアイリーン・アドラーが登場するのは、最初の作品「ボヘミア王のスキャンダル」である。
シャーロック・ホームズにとって、彼女はいつも「あの女」だ。ぼくの知るかぎり、ほかの名で呼ぶことはめったにない。ホームズから見て、彼女はほかの女性のすべてにまさり、その影を薄くさせる存在なのだ。(コナン・ドイル「ボヘミア王のスキャンダル」石田文子・訳)
我々世代には「ボヘミアの醜聞」として懐かしい「ボヘミア王のスキャンダル」には、シャーロック・ホームズの有名な言葉が登場する。
「君は見てはいるが観察はしていないのだよ。その差は大きい。たとえばきみは、玄関からこの部屋へあがる階段をひんぱんに見ているだろう」「もちろん」「何度くらい見た?」「それは何百回も」「では、階段は何段ある?」(コナン・ドイル「ボヘミア王のスキャンダル」石田文子・訳)
下宿屋の階段の段数を、もちろん、ワトスンは知らない。
「君は見てはいるが観察はしていないのだよ」は、あらゆるシャーロック・ホームズの活動の基礎となっている言葉だ。
ホームズと言えば、名推理という言葉を思い出すが、その「推理」を培うための「観察」こそ、ホームズにとって何より重要なものだった(テレビドラマ『シャーロック』では、ホームズの観察をきっちりと可視化していて楽しい)。
「そんなことはないだろう、ワトスン。きみにはいろんなことが見えているはずだ。だが、きみは見たものから推理することをしていない。自分で結論を出すことに及び腰になってる」(コナン・ドイル「青いガーネット」石田文子・訳)
最初の長編『緋色の研究』で、ホームズと同居することになったワトソンは、既に結婚しており、下宿を出て開業医を営んでいる。
初期の名作には、ホームズ哲学と思われる名言が多い。
「この前、ぼくがいったことを覚えているかな? メアリー・サザランドさんが持ち込んできた単純な事件の調査に入る少し前のことだよ。ぼくはこういった。不思議な現象や異常な出来事を求めるなら、実際にそこらにある人生を見なければならない。人生というのは、いかなる想像力も及ばないほど衝撃的なものだ、と」(コナン・ドイル「赤毛連盟」石田文子・訳)
実際、ホームズものには、一般市民の人生の奥深いところまで入っていく物語が多い。
ホームズの予感はまもなく的中した。あれから二週間が過ぎ、その間ぼくは気がつくとハンター嬢のことを思い、あの孤独な女性は、なんと不思議な人生の横道に迷いこんでしまったのだろう、などと考えていた。(コナン・ドイル「ぶな屋敷」石田文子・訳)
こういう作品を読んでいると、改めて、シャーロック・ホームズ・シリーズが、イギリス文学の古典として読まれている理由を理解することができる。
「ああ、もう新たな退屈が襲ってきた! ぼくの人生は、平凡な生活から逃れるための努力で明け暮れていく。こういった小さな謎があるので、助かっているがね」(コナン・ドイル「赤毛連盟」石田文子・訳)
ホームズの私立探偵業は、「生活のため」というよりも、「生きるための活動」と言った方が正しい。
「断っておくがね、ワトスン、僕にとっては依頼人の社会的地位なんかより、事件のおもしろさが重要なんだよ」(コナン・ドイル「独身の貴族」石田文子・訳)
つまり、ホームズもまた、庶民よりも上流階級に近い存在であり、そうした上流階級としての視点から、この物語は描かれているということだ(庶民は「平凡な生活から逃れるための努力」なんてする余裕がない)。
「人生というのは人間が頭でつくりだすどんなものよりも、はるかに不思議なものだよ。ぼくたちの思いもよらないような人生でも、どこにでもあるありふれたものとしてそこらに存在するんだ」(コナン・ドイル「花婿の正体」石田文子・訳)
この頃の作品には、犯罪捜査というよりも、人生のドラマチックな謎を解き明かす物語の方が多い。
「人生に比べると、どんな小説も、月並みなプロットや見え透いた結末しか持たない陳腐で無意味なものとしか思えなくなってしまう」というホームズの感慨に、当時のコナン・ドイルの書きたかったものを知ることができるようだ。
「シャーロック・ホームズ」が古典として定着した理由のひとつには、こうしたホームズ哲学の与える影響が大きかったのではないだろうか。
「ボスコム谷の惨劇」でも、ワトソンが同じようなことを言っている。
ぼくは二人について駅まで歩いていき、そのあと小さな町の通りをぶらぶらして、ホテルにもどり、長椅子に寝そべって黄表紙の通俗小説を読もうとした。しかしぼくたちがいま手探りで解き明かそうとしている謎の深さに比べると、その小説の筋(プロット)はいかにも薄っぺらで、つまらなかった。(コナン・ドイル「ボスコム谷の惨劇」石田文子・訳)
クリスマスもの「青いガーネット」で、ホームズは、つかまえた犯罪者を解放してしまう。
「ぼくは犯人を逃がすという大罪を犯したかもしれないが、ひとつの魂を救ったともいえる。あの男は二度と悪いことはしないだろう。ひどくおびえているからね。いま刑務所に入ったりしたら、一生常習犯になってしまう。それに、いまは許しのシーズンだろ。奇遇にも珍しい謎に出くわしたが、解決したのだからそれでよしとしようじゃないか」(コナン・ドイル「ボスコム谷の惨劇」石田文子・訳)
「許しのシーズン」は、もちろん、クリスマスのことだが、ちょっとしたところで、人生の深淵な謎を問いかけるような場面が、ホームズ物語には多い。
「たしかなのは、メアリーさんはサー・ジョージ・バーンウェルといっしょにいるということです。それと、彼女の罪状がどうあれ、いずれ十分な報いを受ける。それもまた同じくらいたしかにいえるでしょうね」(コナン・ドイル「エメラルドの王冠」石田文子・訳)
「あの男は二度と悪いことはしないだろう」「彼女の罪状がどうあれ、いずれ十分な報いを受ける」など、ホームズは、彼自身の基準によって、人生を計っている。
そこに、シャーロック・ホームズ・シリーズという物語の、大きな魅力があるのではないだろうか。
「実際、暴力は振るった人間にはね返ってくる。他人をおとしいれようと穴を掘る者は、自分が堀った穴に落ちるんだ」(コナン・ドイル「まだらのひも」石田文子・訳)
随所に登場する人生訓は、シャーロック・ホームズが古典として生き残る上で、おそらく、重要な要素だったに違いない。
「すぐに金には結びつかなくても、経験は価値あるものです。あなたはこれから一生、今回の経験を話すだけで、おもしろい話し相手だという評判を得ることができますよ」(コナン・ドイル「まだらのひも」石田文子・訳)
本作『シャーロック・ホームズの冒険』では、こうしたホームズ哲学とも言える名言を、いくつも読むことができる。
シャーロック・ホームズの文学的背景
一方で、シャーロック・ホームズは、芸術を愛する紳士でもある。
「今日の午後、セント・ジェイムズ・ホールで、サラサーテが演奏するよ。どうだい、ワトスン、診察の合間に二、三時間都合がつくかい?」(コナン・ドイル「赤毛連盟」石田文子・訳)
サラサーテは、日本でも人気のあったヴァイオリニストだが、シャーロック・ホームズが活躍していた時代、サラサーテもまた、リアルタイムで活躍中だったのだ(「赤毛連盟」の舞台は1890年/明治23年)。
サラサーテの『ツィゴイネルワイゼン』は電気以前のレコードさえ、今に生命のあることは前に書いた。大震災後のビクター片面時代に、このレコードの珍重されたことは、今日のファンたちの想像も及ばぬものがあるだろう。(野村あらえびす「名曲決定盤」)
こうして読むと、シャーロック・ホームズが、決して大昔の人物ではないような気がしてくる。
当時(1890年前後)、日本では、森鴎外『舞姫』や尾崎紅葉『金色夜叉』などが人気だった。
島崎藤村『春』で活躍する若者たち(つまり、島崎藤村・北村透谷・馬場孤蝶・平田禿木・戸川秋骨など)が20代だった時代、それが、ホームズの活躍した19世紀末という時代だったのだ。
「ボヘミア王のスキャンダル」に「イナー・テンプル法曹学院」が出てくる。
「インナー・テンプル法学院」は、『エリア随筆』の著者(チャールズ・ラム)所縁の学校で、福原麟太郎『チャールズ・ラム伝』や、庄野潤三『陽気なクラウン・オフィス・ロウ』の読者には懐かしい場所だ。
もっとも、『エリア随筆』の舞台は、1820年代~1830年のロンドンなので、シャーロック・ホームズが活躍した時代とは、ちょっと異なる(チャールズ・ラムは、1834年に他界)。
あるいは、ホームズやワトスンも、ラムの『エリア随筆』を読んでいただろうか。
音楽好きのホームズは、文学にも造詣が深い。
「まあ、もしかしたら少しは役に立っているかもしれないね。ギュスターヴ・フローベルもジョルジュ・サンドにこう書き送っているからね。『人物はどうでもいい。作品がすべてだ』」(コナン・ドイル「赤毛連盟」石田文子・訳)
フローベールの『ボヴァリー夫人』は1857年、『感情教育』は1869年(明治2年)の作品である。
未完となった遺作『ブヴァールとペキュシェ』を遺して、フローベールは1880年(明治13年)に他界しているから、ホームズとは近い時代を生きた作家だったと言っていい。
こういう文学的引用は、ホームズ物語の「奥の深さ」を生み出している。
「なんということだ!」長い沈黙のあと、ホームズがいった。「なぜ運命は無力で哀れな人間に、このようないたずらをするのだろう? こんどの事件のような話をきくと、ぼくはバクスターの言葉が浮かんで思わずこう言いたくなるよ。『神の恩寵がなければ、シャーロック・ホームズ、おまえもああなるのだ』」(コナン・ドイル「ボスコム谷の惨劇」石田文子・訳)
有名なピューリタン(リチャード・バクスター)の言葉が、さりげなく引用されている。
作家の引用は他にもある。
「状況証拠というのは、ときに非常に説得力があるものなんだ。とくに、ソローの日記を引用していうなら、ミルクのなかからマスが見つかったような場合にはね」(コナン・ドイル「独身の貴族」石田文子・訳)
「ソロー」とは、日本では『ウォールデン 森の生活』(1854)で人気のある作家(ヘンリー・デイヴィッド・ソロー)のことで、当時のイギリスでは、このアメリカ作家の日記まで読まれていたらしい。
ソローの「A Trout in the milk」という言葉は、日本映画『ミルクの中のイワナ』(2024)の由来にもなった。
文学好きの読者にとって、シャーロック・ホームズは、名推理だけに留まらず、こうした文学的背景まで含めて楽しむことのできる作品と言っていい。
つまり、シャーロック・ホームズを読むという楽しみは、その背景に広がる文学世界へと進む喜びにもつながり得るものなのだ。
ちょうど、クリスマスの季節、今年も「青いガーネット」を読むことができた。
『シャーロック・ホームズの冒険』は、世界にとっても、自分自身にとっても、忘れがたい古典となっている。
映画やドラマを観て、これからシャーロック・ホームズの原作小説を読んでみたいという方には、本作『シャーロック・ホームズの冒険』がおすすめである。
村上春樹『羊をめぐる冒険』のタイトルは、もちろん、『シャーロック・ホームズの冒険』のパロディだった。
飛行機に乗っているあいだ、彼女は窓際に座ってずっと眼下の風景を眺めていた。僕はその隣りでずっと「シャーロック・ホームズの事件簿」を読んでいた。(村上春樹「羊をめぐる冒険」)
文学というのはつながっているものだ。
文学の連鎖の中で、僕たちは、文学の世界を楽しんでいると言えるのかもしれない。
書名:シャーロック・ホームズの冒険
著者:コナン・ドイル
訳者:石田文子
発行:2010/02/25
出版社:角川文庫