読書体験

F・スコット・フィッツジェラルド「崩壊」カタルシスとしての告白エッセイ三部作

F・スコット・フィッツジェラルド「崩壊」あらすじと感想と考察

F・スコット・フィッツジェラルド「崩壊」読了。

本作「崩壊」は、1936年(昭和11年)2月『エスクァイア』誌に発表されたエッセイである。

原題は「The Crack-up」で、他に「壊れる」(村上春樹)などの訳がある。

この年、著者は40歳だった。

作品集としては、1945年(昭和20年)にニュー・ディレクションズ社から刊行された『崩壊』に収録されている。

なお、フィッツジェラルドは、1940年(昭和15年)12月21日に44歳で他界。

カタルシスとしての告白

金のために小説を書く男がいた。

男は人気作家となり、出版社は原稿料を前渡ししてまで、男の小説を求めた。

金は、酒に変わった

小説が売れるほど、男は酒を飲み、酒は男の健康を蝕んだ。

やがて、才能が枯渇した男のもとに残ったものは、多額の借金とアルコール依存症だったという。

男は、自分の人生を振り返り、救いを求めるような告白のエッセイを書く。

それが、F・スコット・フィッツジェラルドの「崩壊」という作品だ。

この作品で、フィッツジェラルドは、自分の人生の何が間違っていたのかということを、懸命に解き明かそうとする。

彼の言葉によると、人生は、ひとつの崩壊の過程にすぎない。

人生の崩壊には二つの種類があって、一つは外的な要因によるもので、もう一つは内的な要因によるもの。

フィッツジェラルドの場合、もちろん、内的な要因による崩壊だったが、最悪だったのは、彼がどうにか健康を取り戻しつつあったとき、既に彼は壊れてしまっていたということだ。

つまり「古い皿のように壊れていた」のである。

彼は、自分の人生を取り戻そうとして、過去の生活を改めた。

なにかにしがみつこうとして、僕は医者や十三歳くらいまでの女の子、八つから上くらいの育ちのいい男の子が好きになった。こういうわずかな範囲の人たちが相手であれば平和と幸福とを味わうことができた。(F・スコット・フィッツジェラルド「崩壊」宮本陽吉・訳)

変わり果てたフィッツジェラルドを見た、ある女性は「グランド・キャニオンにひびが入ったと思いなさい」と忠告してくれた。

──壊れたのはあなただと思わない方がいいわ。壊れたのは、グランド・キャニオンなのよ。

しかし、どんなにバイタリティーを持っている人間も、他人に自分の活力を分け与えることはできない。

それは、かつて元気だった時代の彼自身が、既に経験していることでもあった。

ぼくにできることといえば、壊れた瀬戸物のように注意ぶかく自分自身を支え、彼女の戸口を離れ、苦汁にみちた世界へ立去るしかない。その世界で見つけた材料を使って家を建てる──そして、彼女の部屋を出たあと、僕は心の中で呟いた。「汝ハ地ノ塩ナリ、塩モシ効力ヲ失ワバ、何ヲモテカ之ニ塩スベキ」(マタイ伝第五章十三節)(F・スコット・フィッツジェラルド「崩壊」宮本陽吉・訳)

聖書の言葉を引用して「塩モシ効力ヲ失ワバ、何ヲモテカ之ニ塩スベキ」と呟くフィッツジェラルドは、もうボロボロで痛々しいこと、この上ない。

これ以上、俺に何ができるって言うんだ?という開き直りにも似た、あきらめがある。

しかし、とことんまで落ちて、とことんまで自分をさらけ出してこそ、カタルシスとしての告白が意味を持ったに違いない。

これは他人事じゃないんだよという警告

このエッセイを読み終わったとき、僕は太宰治の『人間失格』を思い出した。

「人間、失格。もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました」と呟いた、あの太宰の『人間失格』も、やはりカタルシスだったのだろうか。

もちろん、フィッツジェラルドの「崩壊」は、太宰の「人間失格」のようにロマンチックではないし、感情的でもない。

彼は、ただ、自分の壊れてしまった過程と向き合い、自分の何がいけなかったのかということを考えているだけだ。

つまり、絶望の向こう側には、復活への希望と意欲がある。

「崩壊」が、崩壊の過程を描いていながら、完全なる絶望の文章となっていないのは、きっと、そのためだろう。

多くの読者が、この作品に共感できる理由は、その希望の中にあるのではないだろうか。

当時ぼくの目の前で、意外なこと、信じがたいこと、《不可能》なことがしばしば実現した。自分の人生なんて、多少ましな人間なら思いどおりにできる。人生なんて、知性と努力、もしくはその両者をまぜわせたものにやすやすと従属するものなのだ。(F・スコット・フィッツジェラルド「崩壊」宮本陽吉・訳)

若い頃の彼は素晴らしかった。

彼の言う「第一級の知性」──対立する二つの概念を同時に抱きながら、しかも機能を果たすことのできる知性──は、若い頃の彼にこそふさわしいものだった。

例えば、事態が絶望的なのを知り尽くしていて、それでも打開の決意を持ち続けることができる、といったような。

絶望の中にあって、フィッツジェラルドは、既に自分が、絶望と打開という二つの概念を同時に持つことができない人間となってしまっていたことに気がついた。

「四十九歳までは大丈夫さ」と、ぼくは言った。「そこまでは自信がある。ぼくみたいな生活をした人間は、それ以上を望まない」──そのうち、四十九歳まであと十年というところで、ぼくは早くも崩壊してしまったのに不意に気がついた。(F・スコット・フィッツジェラルド「崩壊」宮本陽吉・訳)

「人生の贈物は、何と小さかったことだろう──かつては目的に誇りを持ち、守りぬいた独立に確信を持っていたというのに」という、フィッツジェラルドの嘆きは切ない。

このエッセイが与えてくれるもの、それは、壊れてしまった人間に対する憐みとか同情ではなく、人は誰しもいつかは崩壊するかもしれない、という不安だ。

つまり、これは他人事じゃないんだよ、というフィッツジェラルドからの警告である。

「しくじり先生」という言葉があるけれど、挫折の中には、いつも、何かしらの教訓があるはずだと、僕は思う。

大切なことは、そこから何を導き出すかということなのだ。

挫折体験を回想する「取扱い注意」

自己崩壊を告白するこのエッセイは、エスクァイア誌の編集者から好評を得て、フィッツジェラルドは、さらに続けて「取扱い注意」と「貼り合せ」という、2本のエッセイを発表する。

「崩壊」「取扱い注意」「貼り合せ」の3つのエッセイは、やがて「崩壊三部作」と呼ばれて、フィッツジェラルドの晩年を代表する作品となった。

「取扱い注意」でフィッツジェラルドは、若かった頃の挫折を回想している。

ひとつは、マラリヤの診断を受けて、プリンストン大学を挫折したときで、もうひとつは、金がなかったがために好きだった女性からフラれてしまったとき(ゼルダとの婚約破棄のこと)。

この過去の挫折は、短い文章ではあるけれど、遠い日の思い出であるためか、かなり核心に迫っている。

特に、金持ちの女性に失恋したことは(そして女性が金持ちの男と結婚したことは)、フィッツジェラルドの人生観を変えるほどの大きな転換点となったらしい。

そんなことがあってから数年間というもの、ぼくは友人に会うたびに金をどこで手に入れるのだろうと考えずはいられなかった。《領主》の特権を行使して、ぼくの女にでも手を出す男ではないかと思わずにいられない。(F・スコット・フィッツジェラルド「取扱い注意」宮本陽吉・訳)

結局、フィッツジェラルドは、有閑階級の仲間入りをして人生を謳歌することになるのだが、それは永遠ではなかった。

「銀行で預金額のない金を引き出すように、ありもしない体力を引き出したのだ」と、フィッツジェラルドは、過去の自分を振り返っている。

このエッセイで、最も有名な部分が、例の「午前三時」だろう。

意気消沈した人間のための特効薬は、本物の貧乏や病気に苦しむ人たちを考えることだ。これは憂鬱全般にとって時期を問わず至福を与え、昼間なら立派に効果を発揮する。だが午前三時ともなると、忘れてきた荷物だって死刑の宣告に劣らぬくらい悲劇的な意味を持つものであって、薬はさっぱり効目がない──そして、魂の真暗闇の中ではいつも、来る日も来る日も午前三時なのだ。(F・スコット・フィッツジェラルド「取扱い注意」宮本陽吉・訳)

この「取扱い注意」は、前作「崩壊」以上に具体的で踏み込んだ内容となっている一方、かなりロマンチックな表現も多くなっているような気がする。

「崩壊」の最後に呟いた「苦汁にみちた世界で見つけた材料を使って家を建てる」というのは、果たして、このような文章を示すものだったろだろうか。

挫折のない人生なんて、人生と呼べるような代物じゃない

三部作最後の「貼り合せ」で、フィッツジェラルドは、作品の登場人物に感情移入する過去の自分を批判した。

レーニンはプロレタリアの苦しみを苦しもうとはしなかった。ワシントンは兵卒の苦しみを、ディケンズはロンドンの貧乏人の苦しみを経験しようとはしなかった。そしてトルストイは、同情の対象にとけこもうとしたが、その努力は本物ではなく失敗に終った。(F・スコット・フィッツジェラルド「貼り合せ」宮本陽吉・訳)

「ものを書きつづけるしかないが、人間でありたいという──親切とか誠実とか、寛大であろうとする努力はやめることにしよう」と誓ったフィッツジェラルドは、自分を他人に与えること──浪費──から身を引いたのだ。

もっとも、新しい自分を宣言するような、このエッセイも、最初の「崩壊」に比べると、かなり饒舌で、芝居がかっている感じがしないでもない。

「猛犬注意」だと言いながら「もしきみがたっぷり肉のついた骨を投げれば、ぼくはきみの手までなめるかもしれない」と、相手におもねるような言葉で本文を締めくくっている。

徹底的に猛犬になりきれないところまで含めて、フィッツジェラルドという作家だったのだろうか。

生きる姿勢としては中途半端な分、文章には磨きがかかっている。

これでぼくはやっとただの作家になった。ぼくが以前になろうとしていた人物は、ひどく重荷になってしまったので、その人物を《撒いて》しまったのだ。土曜日の晩にもう一人の恋人を撒いてくる黒人女のように、少しも後ろめたさは感じなかった。(F・スコット・フィッツジェラルド「貼り合せ」宮本陽吉・訳)

「崩壊」で壊れていく過程を告白したフィッツジェラルドは、「貼り合せ」で復活へののろしを上げる。

挫折は、そんな人生にもつきものだ。

むしろ、挫折のない人生なんて、人生と呼べるような代物じゃないだろう。

フィッツジェラルドの「崩壊三部作」は、自信のない僕たちにさえ、そんな勇気を与えてくれる。

落ちるときは、徹底的に落ちろ。

それが、このエッセイから得た、僕の教訓だ。

自分に同情していたって、問題は何も解決しないのだから。

作品名:崩壊、取扱い注意、貼り合せ
著者:F・スコット・フィッツジェラルド
訳者:宮本陽吉
書名:フィッツジェラルド作品集3「崩壊」
発行:1981/10/25
出版社:荒地出版社

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。