村上春樹「我らの時代のフォークロア―高度資本主義前史」読了。
本作「我らの時代のフォークロア」は、1989年(平成元年)10月『Switch』に発表された短篇小説である。
この年、著者は40歳だった。
作品集としては、1990年(平成2年)1月に文藝春秋から刊行された『TVピープル』に収録されている。
処女を失うことは、社会に放り出されてしまうこと
本作「我らの時代のフォークロア」は、高校時代の友人の回想を通して、1960年代という時代を語ろうとする物語である。
物語の語り手である<僕>(作家。村上春樹自身だろう)は、ルッカという中部イタリアの街で<彼>と再会する。
高校時代の彼は、成績が良くて、運動ができて、親切で、リーダーシップが取れて、歌が上手で、クラスのまとめ役で、だから女の子に人気があってという、つまりは完璧な男の子だった。
まるで『ダンス・ダンス・ダンス』(1988)に登場する「五反田君」みたいに。
彼には、美人で、成績が良くて、運動ができて、リーダーシップが取れてという、やはり完璧なガールフレンドがいた。
二人は心を許しあい、やがて恋人同士になった。いつも一緒に昼食を食べ、一緒に下校した。暇があれば二人は肩を並べて話をした。語り合うべきことは山ほどあった。日曜日には一緒に勉強した。二人は二人きりでいるときにいちばん安らかな気持ちになれた。(村上春樹「我らの時代のフォークロア」)
ミスター・クリーンとミス・クリーンのクリーンなカップル。
やがて、二人は、週に一度ペッティングするようになり、次に彼は「彼女とセックスをしたい」と望むようになった。
しかし、それ以上進むことを、明確に彼女は拒んだ。
彼女は、結婚するまで自分は処女でいなければならないと、強く確信していたのだ。
「私は怖いのよ」と彼女は言った。そして両手に顔を埋めて泣いた。「本当に怖いのよ。怖くって仕方ないのよ。人生が怖いの。生きていくことが怖いの。あと何年かで現実の中に出ていかなくてはならないことが怖いの。どうしてあなたにはそれがわからないの?」(村上春樹「我らの時代のフォークロア」)
彼女にとって処女を失うことは、社会に放り出されてしまうことの象徴だったのかもしれない。
そして、それぞれの大学へ進んだ二人の関係は、いつの間にか自然消滅してしまう。
若いときの恋愛の多くが、そうであるのと同じように。
感傷的で村上春樹的な青春小説
やがて、人妻になった彼女から、突然連絡がくる。
彼は28歳で、まだ独身だった。
電話の向こう側で、彼女は「私は昔あなたと交わした約束のことをまだちゃんと覚えているのよ」と言った。
「あなたは私が初めて好きになった人だし、あなたと一緒にいるだけですごく楽しかったの。それはわかってね。ただそれとこれとは別なのよ。もし何かそれについて約束がほしいのなら、約束する。私はあなたと寝る。でも今は駄目。私が誰かと結婚したあとであなたと寝る。嘘じゃないわ。約束する」(村上春樹「我らの時代のフォークロア」)
彼が「セックスをしたい」と言ったとき、彼女は「私が誰かと結婚したあとであなたと寝る」と言った。
そして、彼の知らない誰かと結婚した彼女は、今、久しぶりに彼へと電話をかけてきたのだ。
誘われるままに、彼は彼女のマンションを訪れるが、結局、彼女と寝たりはしなかった。
昔のようにペッティングしただけだ、服を着たままで。
「僕らは何も言わずに長いあいだペッティングしていた。僕らが理解するべきことは、そうすることでしか理解しあえない種類のものだったんだ。もちろん昔だったらそうじゃなかったと思う。僕らはごく自然にセックスすることで、もっとお互いを知り合えたと思う。あるいは僕らはそれによって、もっと幸せになれたかもしれない。でもそれはもう終わってしまったことなんだ」(村上春樹「我らの時代のフォークロア」)
結局のところ、彼女が守りたかったものは「処女」であり、彼が求めたものは「処女」ではなかった、ということなのだろう。
「処女であること」が、何らかの象徴的な意味合いを持っていた最後の時代。
それが、1960年代という時代だったのかもしれない。
どこまでも感傷的で、どこまでも村上春樹的な青春小説。
こういう作品があるからこそ、僕たちは村上春樹という作家が好きだったのだろう。
村上春樹が、まだ村上春樹らしかった頃の、それこそフォークロアみたいな作品である。
ところで、どうでもいいんだけど(っていうか、どうでもよくないんだけど)、『Switch』に掲載されている山本容子さんのイラストは素晴らしい。
こういうイラストが小説とセットで楽しめないなんて、作品集って罪だなあと思った。
作品名:我らの時代のフォークロア―高度資本主義前史
著者:村上春樹
書名:Switch
発行:1989/10
出版社:扶桑社