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フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」アラサー男子の重すぎる愛の代償

フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」アラサー男子の重すぎた愛の代償

F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」読了。

本作「グレート・ギャツビー」は、1925年(大正14年)4月にチャールズ・スクリブナーズ・サンズから刊行された長篇小説である。

原題は「The Great Gatsby」。

この年、著者は29歳だった。

20代最後のひと夏を描いた大人の青春物語

村上春樹『ノルウェイの森』に、『グレート・ギャツビー』が登場している。

僕は気が向くと書棚から「グレート・ギャッツビイ」をとりだし、出鱈目にページを開き、その部分をひとしきり読むことを習慣にしていたが、ただの一度も失望させられることはなかった。一ページとしてつまらないページはなかった。なんて素晴らしいんだろうと僕は思った。そして人々にその素晴らしさを伝えたいと思った。(村上春樹「ノルウェイの森」)

『ノルウェイの森』の主人公は、フィッツジェラルドを崇拝しており、『グレート・ギャツビー』は、その象徴的な作品だったのだろう。

初めて『グレート・ギャツビー』を読んだとき、村上春樹の小説も、フィッツジェラルドから大きな影響を受けていたということを知った。

多用な読み方がある『グレート・ギャツビー』だが、僕にとって、この長篇小説は、語り手であるニック・キャラウェイの物語である。

ニックの青春において、主役はあくまでもニック・キャラウェイであり、ジェイ・ギャツビーやトム&ディズィのビュキャナン夫妻、ジョーダン・ベイカーなどの登場人物は、しょせんバイプレイヤーにすぎない。

ニックの恋人役を務めるミス・ベイカーが、せいぜいヒロインといったところだが、ニューヨークで就職するニックが、ベイカーとの恋に破れて、地方都市へ帰っていくまでの経過を描いたものが、『グレート・ギャツビー』という作品の大きな構図だろう。

このとき、ニックの都会生活に大きな影響を与えたのが、隣人ギャツビー、またいとこディズィ、学友トムが引き起こすドタバタ不倫劇である。

三人の、あまりにもくだらない珍騒動の渦中に巻き込まれながら、ニックは都市生活というの幻想の本質を理解し、その延長線上に存在するミス・ベイカーとの恋愛にケリを付けた。

実際、この物語で、僕が一番好きなエピソードは、ニックとベイカーとの恋愛話である。

ベイカーの乱暴な運転をなじったとき、ベイカーは「他の人たちのほうで慎重にするから」と、こともなげに応える。

「先方が道をよけるじゃない。一方だけじゃ事故は起らないのよ」「もしあなたと同じくらい不注意なやつに逢ったら?」「そんなのには逢いたくないね。不注意な人って大嫌い。だから、あんたが好きさ」(F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」野崎孝・訳)

このとき、ニックは、ベイカーが恋人になったような気がして、一瞬うれしい気持ちになるが、自己中心的な都会の考え方は、しょせんニックには受け入れられないものであった。

ギャツビーが殺されたあとで、ベイカーは、ニックに「あんた覚えてる?」と言って、車の運転の話を持ち出す。

「あんた、へたな運転手は、もう一人へたな運転手と出会うまでしか安全でないって、言ったでしょ。あたしはもう一人のへたな運転手に出会ったのよね。つまり、あんな見当はずれの推測をしたのはあたしが不注意でしたってこと。あたしはね、あんたのことを正直で率直な人だと思ったんだ。それがあんたのひそかな誇りなんだと思ったの」「ぼくは三十ですよ」と、ぼくは言った。「自分に嘘をついて、それを名誉と称するには、五つほど年をとりすぎました」(F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」野崎孝・訳)

ギャツビーとビュキャナン夫妻が、ひどい騒動を起こした挙句、ディズィがトムの不倫相手マートル・ウィルスンを轢き逃げしてしまう事件のあった日、それは、ニックの30歳の誕生日だった。

「ぼくは三十だった。前途には、新しい十年の無気味な歳月がおびやかすようにのびていた」という、ニックの文章がある。

三十歳の感慨を、ニックは「今後に予想される孤独の十年間」と表現した。

青年期だった二十代からの卒業を、ニックは激しく意識していたらしい。

そこに、この物語の、ひとつのテーマが見える。

つまり、この物語は、30歳を目前にしたニック・キャラウェイ20代最後のひと夏を描いた、いわば大人の青春物語だったということだ。

そして、20代最後のニックに大きな影響を与えた人間が、『グレート・ギャツビー』という作品名ともなった、ジェイ・ギャツビーその人だったのである。

大都会ニューヨークを去って故郷へ帰る

それでは、ギャツビーは、なぜ偉大(グレート)だったのか?

事件があった夜、ニックは「一日で彼らみんなに食傷した気持」となり、都会の暮らしに愛想を尽かし始める。

ギャツビーにかけた最後の言葉、それが「グレート」の意味となった。

「あいつらはくだらんやつらですよ」芝生ごしにぼくは叫んだ。「あんたには、あいつらをみんないっしょにしただけの値打ちがある」これを言ったことを、ぼくはいつもうれしく思いだす。これが後にも先にもぼくが彼を誉めた唯一の言葉だった。(F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」野崎孝・訳)

冒頭、ニックは「ギャツビー、ぼくが心からの軽蔑を抱いているすべてのものを体現しているような男」と呼んでいるが、それでも、なお、ギャツビーは、ニックにとって「グレード・ギャツビー」にふさわしい男だった。

ニックが認めるギャツビーの素晴らしさとは、愛した一人の女性のためにすべてを賭ける、その真摯な生き様だったのだろう。

そのひたむきな愛は、レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』に登場する大鹿マロイを思わせるが、大鹿マロイと違って、ギャツビーは、愛した女性を手に入れるために、尋常ではない努力を積み上げた。

それが、幼少期からの生き方であったにせよ、最愛の女性に捧げるギャツビーの愛は重い。

その重さに耐えきれなくて、土壇場になってディズィは、夫トムの元へと逃げ帰っていくのだが(「ああ、あなたの要求は大きすぎる!」)、ニックが惹かれたギャツビーの魅力は、やはり、その純真なまでのひたむきさにあったのではないか。

ギャツビーを取り巻くトムやディズィの生き方も、ニックとは相容れないものだった。

トムの浮気現場に付き合わされたり、ディズィとギャツビーの逢引きをセッティングしたりと、ニックの役割は、まるでピエロだ。

傍観者のようなベイカーと違って、ニックは深入りしすぎたとも言える。

そのことで、彼の眼には、都会で生きる人間たちのくだらなさが鼻につき、「あいつらはくだらんやつらですよ」と叫ばせたのだろう。

ギャツビーの邸宅を訪れたとき、ディズィはギャツビーの美しいシャツを見て泣き始める。

「なんてきれいなワイシャツなんだろう」しゃくりあげる彼女の声が、ワイシャツの山の中からこもって聞えた。「なんだか悲しくなっちまう、こんなに──こんなにきれいなワイシャツって、見たことないんだもの」(F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」野崎孝・訳)

ディズィが見ていたワイシャツは、成功者ギャツビーの象徴だろう。

シャツを見たディズィが泣き出す場面は、『グレート・ギャツビー』屈指の名場面として人気が高い。

伊藤智永は「ギャツビーのシャツで泣け」というタイトルのコラムを書いた(2021/12/4『毎日新聞』)。

女は美しくも惰弱な俗物として描かれる。男の圧倒的な財力に感激したのだろうか。それなら何が悲しいのか。実らぬ純潔のため、汚濁したカネの海を泳ぎ渡る男の徒労と破滅を予感したからに違いない。いつ着るとも知れぬシャツの山は、女が愛してやまないぜいたくと過剰消費の象徴である。とてつもない富と豊かさの背後には、未来の悲しみが人知れず伴走しているものなのだ。(伊藤智永「時の在りか」)

岸田首相の唱えた「新しい資本主義」を評して、伊藤智永は、「ギャツビーから一世紀、デジタル表示のシャツでは、顔をうずめて泣けもしない」と指摘した。

『紳士の小道具』(1993)を書いた板坂元は、豪邸やロールスロイスを所有するギャツビーが、ワイシャツなんかを自慢したのか、そして、どうしてディズィは、シャツを見て泣き出したのかということに着目している(最近の学生は、この場面に共感を抱かないらしい)。

ギャツビーがロンドンから取り寄せていたのは、ターンブル&アッサー社のものだった。小説『華麗なるギャツビー』にはブランド名が出ていないが、映画に使われたのはここのものだった。この映画のコスチュームのデザインはラルフ・ローレンが担当したけれども、ワイシャツの場面だけは、彼の出る幕ではない。(板坂元「紳士の小道具」)

当時、シルクやリネンのシャツは高価であり、色物のシャツは、ギャツビーの時代(1920年代)に生産が始まったばかりだった。

王室御用達で、長い歴史を誇るブランドが、新しい伝統を切り開きつつあった時代、鮮やかなカラーのシャツは、アメリカで生きる若者たちにとって、まさに富の象徴だったのだ。

しかし、ディズィが愛していたものは、成功者としてのギャツビーであり、財産に裏打ちされた楽しい生活である。

ギャツビーがディズィを愛したようには、ディズィはギャツビーを愛してはいなかった。

もちろん、ギャツビーは、ディズィの本質を見抜いているのだが(「あの声はお金にあふれているんです」)、そんなディズィのすべてを受け容れようと思いつめるまで、ギャツビーはディズィを愛していた。

そんなギャツビーの真意を、きちんと理解していたのは、おそらくニック・キャラウェイただ一人だったに違いない。

トムの不倫相手だったマートルの夫ウィルスンに殺されたギャツビーの死後の孤独が、ニックにとどめをさした。

この夏、ギャツビー邸の豪勢なパーティーに集まった都会の連中は、誰一人ギャツビーの葬式に姿を現わさない(ふくろうのような眼鏡の男を除いて)。

「なんですと!」驚いて彼は言った。「いやはや、なんてこった! 以前はいつも何百と行きおったにな」彼は眼鏡をはずすと、またその玉を拭いた、外側も、それから内側も。「かわいそうなやつめ」彼はそう言った。(F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」野崎孝・訳)

ニックは、ギャツビーとディズィとの不幸で滑稽な恋愛ドラマを通して、ニューヨークという都会の本質に触れていたのかもしれない。

ギャツビーの不器用な生き様は、ニックに大きな影響を与えた。

大都会ニューヨークの本質を理解して、故郷へ帰るという筋書きさえ、ニックにとっては一つの成長ストーリーと言える。

同じように、ビュキャナン夫妻も、また、ニューヨークを追われ、ギャツビーはニューヨークの地に埋葬された。

ニューヨークという都会に翻弄され、身を持ち崩した若者たちの姿が、そこにはある。

もしも、この物語の影の主人公を挙げるとすれば、それは、ニューヨークという大都会だったのかもしれない。

結局、この物語は、ニューヨークという街を舞台に、ニック・キャラウェイという若者の成長を通して描いた、ジェイ・ギャツビーの物語ということなんだろうな。

書名:グレート・ギャツビー
著者:F・スコット・フィッツジェラルド
訳者:野崎孝
発行:1974/06/30
出版社:新潮文庫

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。