レイモンド・カーヴァー「ダイエット騒動」読了。
本作「ダイエット騒動」は、1972年(昭和56年)『シカゴレビュー』に発表された短編小説である。
この年、著者は34歳だった。
原題は「They’re Not Your Husband」。
作品集としては、1976年(昭和59年)3月にマグロー・ヒル社から刊行された『頼むから静かにしてくれ』に収録されている。
なお、日本では、1989年(平成元年)4月に中央公論社から刊行された『ささやかだけれど役にたつこと』(翻訳は村上春樹)に収録されている。
この年、村上春樹は40歳だった。
「そいつらはお前の亭主じゃない」
本作「ダイエット騒動」は、愚かな夫の姿をコミカルに描いた短篇小説である。
目下、失業中のアールは、妻ドリーンが働いている二十四時間営業のコーヒーショップで、二人のサラリーマンが、ドリーンの噂をしているのを聞いてしまった。
「おい、あのケツ見てみなよ。凄え代物だと思わない?」もう一人の男は笑った。「おい、よしてくれよ」と彼は言った。「いや、もちろんそうさ」と最初の男が言った。「でも物好きな男はああいうぽっちゃりとしたオマンコが好きなんだよな」(レイモンド・カーヴァー「ダイエット騒動」村上春樹・訳)
ショックを受けたアールは、ドリーンにダイエットをするよう求める。
夫に従順なドリーンは、素直にダイエットを始める。
ドリーンの体重は、順調に落ちていくが、お店の人たちは心配しているらしい。
「痩せてどこが悪いんだよ?」と彼は言った。「何言われたって気にすることはないさ。人のことにいちいち口出すなって言っておけよ。そいつらはお前の亭主じゃないんだ。お前はそいつらと一緒に暮らしてるわけじゃないんだ」(レイモンド・カーヴァー「ダイエット騒動」村上春樹・訳)
「そいつらはお前の亭主じゃない」と繰り返すアールの台詞が、この小説の原題だが、「ダイエット騒動」という翻訳よりも、元のタイトルの方がいい。
すっかりと痩せたドリーンを自慢するため、アールは再び、ドリーンの働いているコーヒーショップを訪れる。
そして、アールは見知らぬ男をつかまえて、「ねえ、どう思う?」と意味深な言葉を投げかけるのだ。
男は自分のことを直視したがらない
主人公アールの根底にあるものは、妻ドリーンへの深い愛情である。
妻を愛しているからこそ、他の男に妻の悪口を言われることが我慢できなかったのだ。
その愛情が、ドリーンのダイエットへと向かわせるのが、もちろん、アールには、妻を自慢したいという虚栄心があっただろう。
一方で、アールの虚栄心は、自分自身には向かない。
彼は求人広告を読んだ。彼は公共職業安定所に行った。三日か四日ごとに車に乗って面接を受けにいった。そして夜になると女房のチップを勘定をした。彼はテーブルの上でドル紙幣の皺をのばし、各種硬貨を一ドルごとに積んで並べた。朝が来ると彼女を体重計に乗せた。(レイモンド・カーヴァー「ダイエット騒動」村上春樹・訳)
着々とダイエットを成功させていくドリーンと対照的に、アールはいつまでの就職の面接に失敗し続けている。
それでも、アールの最大の関心ごとは、妻ドリーンの容姿だった。
あまりにバカバカしくて笑ってしまうが、このダイエット騒動は、失業中の男性アールの現実逃避であり、問題のすり替えだったのかもしれない。
自分自身がダメな男だということを、アール自身認めたくなかったのだ。
そう考えると、これは笑いごとではなくて、我々の身近にある話だということにもなる。
男は(特に劣勢に立っている男は)自分のことを直視したがらないものなのだろう。
感動的だったのは、コーヒーショップのウェイトレスから笑いものにされている男=アールを、ドリーンが受け入れるシーンである。
ドリーンはやれやれというように頭を振った。男は釣り銭をカップの横に置いて席を立った。でも彼もまたその答えを待っていた。みんなアールのことを見ていた。「この人はセールスマンなの。そしてうちの亭主」ドリーンはやっとそう言うと肩をすくめた。(レイモンド・カーヴァー「ダイエット騒動」村上春樹・訳)
「あのウェイトレス(実は自分の女房)、どう?」と見知らぬ男にささやき、スカートのまくれたヒップを凝視しているアールは、明らかに変態だ。
当然、店の女の子たちも、突然に話しかけられた見知らぬ男も、こいつ一体何者なんだ?と不審に思っていたことだろう。
「あの馬鹿、いったい誰なの?」と訊ねられて、ドリーンは「うちの亭主」と肩をすくめる。
少なくとも、アールよりはドリーンの方が男前だろう。
こういう物語を読んで、多くの男性は、少なからずドキッとするのではないだろうか。
作品名:ダイエット騒動
著者:レイモンド・カーヴァー
訳者:村上春樹
書名:ささやかだけれど、役にたつこと
発行:1989/04/20
出版社:中央公論社