大正12年9月1日。関東大震災の猛火が東京を包み込む中、隅田川のほとりで一人の若き俳人がその生涯を閉じた。
彼の名は、富田木歩(とみた もっぽ)。
幼い頃の病で両足の自由を失い、学校に通うことすら叶わなかった彼は、極貧の生活の中で独学により言葉を磨き続けたという。
今回は、孤独と逆境を文学へと昇華させた俳人・富田木歩の生涯とともに、遺された作品を考察していきたい。
夭折の俳人・富田木歩の生涯
富田木歩(もっぽ)こと、本名・富田一(はじめ)は、明治30年4月14日、東京・向島小梅町に生まれた、夭折の俳人である。
家族や幼なじみは、彼を「いっちゃん」と呼んだ。
熱病による足萎え
もともと健常児だった木歩だが、一歳を目前にした頃、激しい熱病に侵されて、両脚の自由を失った。
以後、木歩の生活は「躄(いざり)」と呼ばれるものとなる。
犬猫と同じ姿や冬座敷 富田木歩
現代の研究者は、小児麻痺(ポリオ)によるものではなかったと推測している。
自然災害と貧困と
小梅町で「大和田」という鰻屋を営む富田家は、次男の木歩こと一を含め、三男四女の子どもを持つ大所帯だった。
二度に渡る隅田川の反乱という自然災害もあり、「大和田」の経営は苦しく、富田家は貧しい暮らしを余儀なくされていた。
鰻のたたり
さらに、富田家では、一の弟の利助がろうあ者として生まれている。
近所の人々は、二人の障害児を持つ富田家を「鰻のたたり」だと言って揶揄した。
代表句「鰻」の句は、そうした世間に対する反発から生まれた作品だった。
(我等兄弟の不具を鰻売るたたりと世の人の言ひければ)
鰻ともならである身や五月雨 富田木歩
木歩の置かれた境遇を理解する上で「鰻とも」の句は、木歩の代表句の一つとして知られている。
身売りする姉妹たち
長男・金太郎が、父の鰻屋を継いだものの、木歩と利助は満足に稼ぐことは難しい。
生き延びるために富田家では、年頃になった娘たちを次々と身売りさせていった。
(我が妹の一家のため身を売りければ)
桔梗なればまだうき露もありぬべし 富田木歩
もちろん、富田家だけが不運にも貧しかったわけではなかった。
大正時代の日本では、全国各地で娘の身売りが横行していたのだ。
忍び寄る病魔の恐怖
さらに、富田家の子どもたちは、次々と肺結核に侵されていった。
始めに倒れたのが、聾啞者の利助で、芸者から出戻った妹(まき子)が次に倒れた。
弟と妹を看取り、次に病魔に憑りつかれたのが木歩だった。
喀血にみじろぎもせず夜蝉鳴く 富田木歩
しかし、もっと大きな悲劇が迫っていることに、誰も気付くことはできなかっただろう。
関東大震災に死す
両脚の障害と貧困と肺結核による病魔と、木歩の人生は苦難の連続だった。
そんな彼の生涯は、歴史に残る自然災害によって幕を閉じる。
大正12年9月1日の関東大震災が東京を直撃、両脚の不自由な木歩は、近所の人たちに助けられて、隅田川の墨堤まで避難した。
しかし、下町を燃やし尽くした大火災は、既に隅田川にまで迫っていた。
享年26歳。
俳句に生きた、短い人生だった。
俳人・富田木歩の活動
両脚に障害を持った青年・富田木歩は、俳句に生きる希望を見出していた。
友禅型紙彫刻での徒弟奉公
木歩と俳句との出会いは、友禅型紙彫刻で徒弟奉公していた頃に始まる。
背負はれて名月拝す垣の月 富田木歩
木歩を背負っていたのは、徒弟奉公の仲間で、広島県から出てきていた少年(土手米造)だった。
後に米造は「波王」の俳号で、木歩ともに俳句活動に打ちこんでいくことになる。
俳号「木歩」の意味
俳句を始めた頃、木歩の俳号は「吟波」だった。
しかし、同名の俳人(荒川吟波)が既にいることを知った木歩は、新しい俳号を考え始める。
彼の頭の中にあったのは、完成できなかった「義足」のことだった。
枸杞茂る中よ木歩の残り居る 富田木歩
失敗作に終わった自家製の義足は、長い間、裏庭に放置されていた。
大正6年秋、木歩は、かつて憧れだった「義足」を火にくべた。
ひとに秘めて木の足焚きね暮るる秋 富田木歩
木歩は、義足への未練を捨てて、俳句を「木の足」として生きていくことを決意する。
そのとき、生まれた俳号が「木歩(もっぽ)」だった。
『茜(あかね)』と『石楠花』
木歩の投句は、臼田亜浪が主宰する『石楠』と、新井声風が創刊した俳句雑誌『茜』が中心だった。
特に声風の『茜』は積極的に「木歩特集」を組み、世に木歩の俳句を送り出している。
渡辺水巴の『曲水』
富田木歩の俳句は、親友・新井声風の尽力により、人気俳人・渡辺水巴が主宰する俳句雑誌『曲水』にも掲載された。
世の多くの人々は、『曲水』によって富田木歩の名前を知ることになる。
渡辺水巴の『曲水』は、当時まだ25歳にならない若手俳人の作品を、四か月に渡って連載したが、これは極めて異例のことだった。
貸本屋「平和堂」主人
勤めることの難しい木歩は、自室を貸本屋として、少しでも生活費を稼ごうとしていた。
屋号は「平和堂」。
第一次世界大戦の後の時代、世の中には穏やかな「平和」を求める空気が強かったのかもしれない。
(貸本屋をいとなみ一年に及ぶ)
なりはひの紙魚(しみ)と契りてはかなさよ 富田木歩
木歩の文芸活動は俳句ばかりでなく、随筆や研究・評論にまで広がっていった。
富田木歩と仲間たち
両脚の不自由な木歩の俳句活動は、熱心な仲間たちに支えられたものだった。
小梅吟社の仲間たち
俳句雑誌『ホトトギス』にも作品が掲載される木歩の周りに、俳句を志す若者たちが集まり始めていた。
波王こと土手米造も、その一人だ。
大正4年5月、彼らは長屋に「小梅吟社」の看板を掛けて、仲間たちとの俳句を楽しんだ。
『ホトトギス』で初学欄を担当していた俳人・原石鼎(はら せきてい)が木歩を訪ねたのも、この頃のことだった。
新井声風との出会い
現在、世に遺されている富田木歩の作品は、親友・新井声風(本名・新井義武)の尽力によるものである。
父親は「浅草電気館」という映画館のオーナーにして市会議員であり、声風自身は慶応大学へ通うインテリゲンチャの学生だった。
俳句によって結ばれた二人は、貧富の差を超えて生涯の親友となる。
関東大震災の日、既に焼け落ちていた枕橋のたもとで、木歩と最後に別れたのも声風だった。
両脚の不自由な木歩を背負って逃げ続けた彼は、火焔に追いこまれた隅田川で、とうとう木歩に別れを告げざるを得なかったという。
木歩の作品を高く評価していた声風は、後に木歩の句集を編み、世に送り出した。
現在まで伝えられている木歩の作品は、声風の編んだ句集によるものなのだ。
女弟子「伽羅女」
「小梅吟社」に出入りしていた女工がいる。
姓を「石川」というほか、詳しいことは伝えられていない。
ゆく年やわれにもひとり女弟子 富田木歩
大正8年の暮れ、木歩は女弟子「伽羅女」に捧げる句を詠んだ。
俳号「伽羅女(きゃらじょ)」は、木歩が彼女に与えたものだった。
彼女もまた貧困と病気の中で、姿を消していったという。
「俳句界の石川啄木」と呼ばれた男
俳人・富田木歩は、その作風から「俳句界の石川啄木」と呼ばれた。
俳句における生活派
『茜』に掲載された「木歩句集」を読んだ人たちは、富田木歩を夭折の歌人・石川啄木になぞらえて語った。
明治45年に26歳で死んだ啄木もやはり、不遇の歌人だった。
病み臥して啄木忌知る暮の春 富田木歩
木歩は、石川啄木こと本名・石川一(はじめ)に、名前だけではない共感を覚えていたのかもしれない。
障害・貧困・病魔との闘い
両脚の不自由な木歩は、極貧の生活の中で肺結核の恐怖と戦いながら、俳句を詠み続けた。
彼が俳句に詠むことのできるもの、それは「自分」以外にあり得なかった。
たまさかは夜の街見たし夏はじめ 富田木歩
高浜虚子によって「花鳥諷詠」が唱えられていた時代、木歩は自然の美しさよりも、あえて自らの生活を詠んだ。
それは「俳句は私小説」であると主張した石田波郷へと、やがては繋がっていく流れの源流だったのかもしれない。
境涯俳句
その頃、村上鬼城という聾俳人が人気を得ていた。
不遇な境遇を詠んだ村上鬼城の作風は「境涯俳句」と呼ばれる。
しかし、木歩は必ずしも「不遇な境遇」に固執していたわけではない。
彼が考える俳句は、他の誰にも作ることのできない、彼らしい俳句だった。
遺された写真
現在、遺されている富田木歩の写真は、大正8年7月ごろ、母(み禰)と一緒に撮影されたものだ。
伝説の俳人の姿を知ることのできる、貴重な記録写真である。
名句鑑賞|富田木歩の俳句の魅力
富田木歩の俳句活動は、高浜虚子の主宰する『ホトトギス』へと投句から始まる。
木歩が作った俳句の全貌を把握することはできないが、新井声風・編『木歩句集』には、大正2年から12年までの628句が遺されている。
小さな世界を詠む
障害のため、自由に外出できない木歩は、自室という小さな空間を中心に俳句を詠んだ。
窓の日や洋書の上の福寿草 富田木歩
恋猫に障子の穴の二タ所 富田木歩
俳句に詠まれたつつましい暮らし、それが木歩の生活だった。
不遇の家族たちを詠む
富田家において、不遇なのは木歩だけではなかった。
弟・利助は生まれながらの聴覚障害で、健常者の妹たちは、花街へと身売りさせられている。
さらに、唖の利助と芸者の妹(まき子)は、肺結核に苦しみながら死んでいった。
(病妹)
かそけくも咽喉鳴る妹よ鳳仙花 富田木歩
たまさかの蚊に咳く妹を憂ひけり 富田木歩
木歩は死んでいくまき子の様子を「臨終まで」という小文に書き残している。
呼吸は愈々切迫して来た。遂に瞳孔も開いて了ったと見えて眼を幾度か開閉した。母を探る手と胸をはだけようとする手の運動は「母ちゃん──暑いよ」と云う声と共に尚続いた。(富田木歩「臨終まで」/江宮隆之『凍てる指』より)
妹を喪った悲しさを、木歩は俳句に詠まなければならなかった。
(納棺式)
死装束縫ひ寄る灯下秋めきぬ 富田木歩
(通夜)
棺守る夜を涼み子のうかがひぬ 富田木歩
愛する家族の死さえ、木歩にとっては「生活」の一部だったのだ。
人生を詠む
木歩の俳句の魅力は、やはり、その人生と向き合う姿勢にあったのではないだろうか。
障害と貧困故に、結婚することのできなかった最愛の女性(幼なじみの「小鈴」)も、やはり花街へと身売りしていった。
奉公時代からの親友(波王)は、川で溺れ死んでしまった。
生き残ることの悲しさが、木歩の俳句にはある。
(亡き人々を夢に見て)
夢に見れば死もなつかしや冬木風 富田木歩
夢に見れば死さえ懐かしいものになる──。
それが、富田木歩という俳人の生き方だったのかもしれない。
読書案内|富田木歩の俳句を読む
富田木歩の死後、遺された作品は、親友・新井声風により、句集として編纂された。
新井声風・編の作品集
現在までに出版されている富田木歩の作品集は、次のとおり。
①『木歩句集(現代俳句叢書)』素人社書屋(1934)
②『木歩文集』素人社(1934)
③『富田木歩全集』素人社書屋(1935)
④『定本木歩句集』交蘭社(1938)
⑤『決定版 富田木歩全集』世界文庫(1964)
いずれも古いものだが、古書店で入手することは可能。
『鬼気の人 俳人富田木歩の生涯』花田春兆
肢体不自由の俳人・花田春兆による木歩の評伝。
序句を中村草田男が、序文を山本健吉や山田俊秀らが寄せている。
『小説 木歩』上田都史
俳句評論家・上田都史による評伝風の小説。
史実を題材として小説化している。
『凍てる指』江宮隆之
歴史文学者・江宮隆之による評伝。
鈴木しづ子の評伝「凍てる指」と、富田木歩の評伝「冬木立 木歩の青春」が併録されている。
「謎の俳人」に興味がある人におすすめ。
文学散歩│富田木歩の足跡を訪ねて
東京都内には、わずかだが、富田木歩の足跡が遺されている。
向島|三囲神社の句碑
富田木歩の句碑が、向島・三囲(みめぐり)神社にある。
大正13年9月、木歩の没後一周年を記念して、新井声風らが中心となって建立したものだ。
夢に見れば死もなつかしや冬木立
碑に刻まれた句は、『石楠』の師・臼田亜浪の筆によるものだった。
隅田公園|富田木歩終焉の地
三囲神社からほど近い隅田公園の片隅、隅田川近くに「富田木歩終焉の地」を示す標柱が建てられている。
標柱には木歩の句が刻まれていて、句碑ということらしい。
かそけくも咽喉鳴る妹よ鳳仙花
肺結核で死につつある妹(まき子)を詠んだ、哀しい作品である。
江戸川区平井|最勝寺の墓
富田木歩の墓は、東京都江戸川区平井1丁目25–32 最勝寺(天台宗)にある。
墓もまた、親友・新井声風の手になるものだった。
まとめ|困難な時代を生きていくために
最後に、現代の我々はなぜ、大正時代に生きた古い俳人に惹かれるのか、整理しておきたい。
生きている自分を確かめる
富田木歩は不遇の俳人だった。
不自由な両脚、極貧生活による四人姉妹の身売り、肺結核による死への恐怖。
そんな不遇の人生の最期が、関東大震災だったというところに、木歩という俳人のドラマがある。
人々が惹かれるのは、木歩のそんな不幸せな境遇である。
しかし、木歩は、自らの不遇を嘆くために俳句を詠んだのではない。
むしろ、彼は、生きている自分を確かめるために俳句を詠んだのではなかったか。
(我等兄弟の不具を鰻売るたたりと世の人の言ひければ)
鰻ともならである身や五月雨 富田木歩
「うなぎの祟り」とのそしりを受けながら、木歩は強く生き続けた。
自ら手にした「木の足」で、俳句という世界を歩き続けたのだ。
メタ認知としての俳句
現代を生きる我々は、木歩の生きた時代より、ずっと幸福な時代を生きている。
そして、それだけに我々は、自分と向き合うことを忘れているのではないだろうか。
木歩の俳句は、今でいう「メタ認知」だった。
現実の自分を見つめることで、自分の人生を生きていく。
それが、富田木歩という俳人の俳句だったのだ。
今、我々は、大正時代を生きた木歩の、遺された俳句を読むことができる。
「自分と向き合う」ということの意味を教えてくれる木歩の俳句は、時代を超えたメッセージだったのかもしれない。
次に読みたい本を探すなら
吉屋信子『底のぬけた柄杓─憂愁の俳人たち』
富田木歩に興味を持った方には、吉屋信子による評伝集『底のぬけた柄杓─憂愁の俳人たち』がおすすめ。
富田木歩はもちろん、不遇の俳人たちにスポットライトを当てた、俳人評伝集の名作である。
▶ 吉屋信子『底のぬけた柄杓─憂愁の俳人たち』人生の影の中に生まれた俳句の魅力
石田波郷『江東歳時記・清瀬村』
「俳句は私小説である」と言った、俳人・石田波郷。
「人間探求派」と呼ばれた俳人は、焼け跡の東京で生きる人々を詠み続けた。
▶【文芸考察】石田波郷『江東歳時記・清瀬村』俳句散歩に学ぶ戦後の下町風景
江東区砂町には、今も石田波郷の句碑が多く建立されている。
▶【文芸散歩】石田波郷が愛した砂町を歩く|『江東歳時記』の舞台と石田波郷記念館を訪ねて
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石川啄木『一握の砂』
富田木歩の俳句を読んだ人々は「明治末期の歌人・石川啄木の再来のようだ」と驚いたという。
貧困生活の中で短歌を詠み続けた青年の叫びが、歌集『一握の砂』だった。
▶ 石川啄木、最期の街・東京|上野から銀座まで8つの歌碑・ゆかりの地巡り
▶ 小樽で石川啄木の歌碑をめぐる文学散歩~小樽公園・水天宮・三角市場前
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