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関東大震災に消えた逆境の俳人・富田木歩|木の足で俳句の世界を歩き続けた26年の生涯

関東大震災に消えた逆境の俳人・富田木歩|木の足で俳句の世界を歩き続けた26年の生涯

大正12年9月1日。関東大震災の猛火が東京を包み込む中、隅田川のほとりで一人の若き俳人がその生涯を閉じた。

彼の名は、富田木歩(とみた もっぽ)。

幼い頃の病で両足の自由を失い、学校に通うことすら叶わなかった彼は、極貧の生活の中で独学により言葉を磨き続けたという。

今回は、孤独と逆境を文学へと昇華させた俳人・富田木歩の生涯とともに、遺された作品を考察していきたい。

夭折の俳人・富田木歩の生涯

富田木歩(もっぽ)こと、本名・富田一(はじめ)は、明治30年4月14日、東京・向島小梅町に生まれた、夭折の俳人である。

家族や幼なじみは、彼を「いっちゃん」と呼んだ。

熱病による足萎え

もともと健常児だった木歩だが、一歳を目前にした頃、激しい熱病に侵されて、両脚の自由を失った。

以後、木歩の生活は「躄(いざり)」と呼ばれるものとなる。

犬猫と同じ姿や冬座敷 富田木歩

現代の研究者は、小児麻痺(ポリオ)によるものではなかったと推測している。

自然災害と貧困と

小梅町で「大和田」という鰻屋を営む富田家は、次男の木歩こと一を含め、三男四女の子どもを持つ大所帯だった。

二度に渡る隅田川の反乱という自然災害もあり、「大和田」の経営は苦しく、富田家は貧しい暮らしを余儀なくされていた。

鰻のたたり

さらに、富田家では、一の弟の利助がろうあ者として生まれている。

近所の人々は、二人の障害児を持つ富田家を「鰻のたたり」だと言って揶揄した。

代表句「鰻」の句は、そうした世間に対する反発から生まれた作品だった。

(我等兄弟の不具を鰻売るたたりと世の人の言ひければ)

鰻ともならである身や五月雨 富田木歩

木歩の置かれた境遇を理解する上で「鰻とも」の句は、木歩の代表句の一つとして知られている。

身売りする姉妹たち

長男・金太郎が、父の鰻屋を継いだものの、木歩と利助は満足に稼ぐことは難しい。

生き延びるために富田家では、年頃になった娘たちを次々と身売りさせていった。

(我が妹の一家のため身を売りければ)

桔梗なればまだうき露もありぬべし 富田木歩

もちろん、富田家だけが不運にも貧しかったわけではなかった。

大正時代の日本では、全国各地で娘の身売りが横行していたのだ。

忍び寄る病魔の恐怖

さらに、富田家の子どもたちは、次々と肺結核に侵されていった。

始めに倒れたのが、聾啞者の利助で、芸者から出戻った妹(まき子)が次に倒れた。

弟と妹を看取り、次に病魔に憑りつかれたのが木歩だった。

喀血にみじろぎもせず夜蝉鳴く 富田木歩

しかし、もっと大きな悲劇が迫っていることに、誰も気付くことはできなかっただろう。

関東大震災に死す

両脚の障害と貧困と肺結核による病魔と、木歩の人生は苦難の連続だった。

そんな彼の生涯は、歴史に残る自然災害によって幕を閉じる。

大正12年9月1日の関東大震災が東京を直撃、両脚の不自由な木歩は、近所の人たちに助けられて、隅田川の墨堤まで避難した。

しかし、下町を燃やし尽くした大火災は、既に隅田川にまで迫っていた。

享年26歳。

俳句に生きた、短い人生だった。

俳人・富田木歩の活動

両脚に障害を持った青年・富田木歩は、俳句に生きる希望を見出していた。

友禅型紙彫刻での徒弟奉公

木歩と俳句との出会いは、友禅型紙彫刻で徒弟奉公していた頃に始まる。

背負はれて名月拝す垣の月 富田木歩

木歩を背負っていたのは、徒弟奉公の仲間で、広島県から出てきていた少年(土手米造)だった。

後に米造は「波王」の俳号で、木歩ともに俳句活動に打ちこんでいくことになる。

俳号「木歩」の意味

俳句を始めた頃、木歩の俳号は「吟波」だった。

しかし、同名の俳人(荒川吟波)が既にいることを知った木歩は、新しい俳号を考え始める。

彼の頭の中にあったのは、完成できなかった「義足」のことだった。

枸杞茂る中よ木歩の残り居る 富田木歩

失敗作に終わった自家製の義足は、長い間、裏庭に放置されていた。

大正6年秋、木歩は、かつて憧れだった「義足」を火にくべた。

ひとに秘めて木の足焚きね暮るる秋 富田木歩

木歩は、義足への未練を捨てて、俳句を「木の足」として生きていくことを決意する。

そのとき、生まれた俳号が「木歩(もっぽ)」だった。

『茜(あかね)』と『石楠花』

木歩の投句は、臼田亜浪が主宰する『石楠』と、新井声風が創刊した俳句雑誌『茜』が中心だった。

特に声風の『茜』は積極的に「木歩特集」を組み、世に木歩の俳句を送り出している。

渡辺水巴の『曲水』

富田木歩の俳句は、親友・新井声風の尽力により、人気俳人・渡辺水巴が主宰する俳句雑誌『曲水』にも掲載された。

世の多くの人々は、『曲水』によって富田木歩の名前を知ることになる。

渡辺水巴の『曲水』は、当時まだ25歳にならない若手俳人の作品を、四か月に渡って連載したが、これは極めて異例のことだった。

貸本屋「平和堂」主人

勤めることの難しい木歩は、自室を貸本屋として、少しでも生活費を稼ごうとしていた。

屋号は「平和堂」。

第一次世界大戦の後の時代、世の中には穏やかな「平和」を求める空気が強かったのかもしれない。

(貸本屋をいとなみ一年に及ぶ)

なりはひの紙魚(しみ)と契りてはかなさよ 富田木歩

木歩の文芸活動は俳句ばかりでなく、随筆や研究・評論にまで広がっていった。

富田木歩と仲間たち

両脚の不自由な木歩の俳句活動は、熱心な仲間たちに支えられたものだった。

小梅吟社の仲間たち

俳句雑誌『ホトトギス』にも作品が掲載される木歩の周りに、俳句を志す若者たちが集まり始めていた。

波王こと土手米造も、その一人だ。

大正4年5月、彼らは長屋に「小梅吟社」の看板を掛けて、仲間たちとの俳句を楽しんだ。

『ホトトギス』で初学欄を担当していた俳人・原石鼎(はら せきてい)が木歩を訪ねたのも、この頃のことだった。

新井声風との出会い

現在、世に遺されている富田木歩の作品は、親友・新井声風(本名・新井義武)の尽力によるものである。

父親は「浅草電気館」という映画館のオーナーにして市会議員であり、声風自身は慶応大学へ通うインテリゲンチャの学生だった。

俳句によって結ばれた二人は、貧富の差を超えて生涯の親友となる。

関東大震災の日、既に焼け落ちていた枕橋のたもとで、木歩と最後に別れたのも声風だった。

両脚の不自由な木歩を背負って逃げ続けた彼は、火焔に追いこまれた隅田川で、とうとう木歩に別れを告げざるを得なかったという。

木歩の作品を高く評価していた声風は、後に木歩の句集を編み、世に送り出した。

現在まで伝えられている木歩の作品は、声風の編んだ句集によるものなのだ。

女弟子「伽羅女」

「小梅吟社」に出入りしていた女工がいる。

姓を「石川」というほか、詳しいことは伝えられていない。

ゆく年やわれにもひとり女弟子 富田木歩

大正8年の暮れ、木歩は女弟子「伽羅女」に捧げる句を詠んだ。

俳号「伽羅女(きゃらじょ)」は、木歩が彼女に与えたものだった。

彼女もまた貧困と病気の中で、姿を消していったという。

「俳句界の石川啄木」と呼ばれた男

俳人・富田木歩は、その作風から「俳句界の石川啄木」と呼ばれた。

俳句における生活派

『茜』に掲載された「木歩句集」を読んだ人たちは、富田木歩を夭折の歌人・石川啄木になぞらえて語った。

明治45年に26歳で死んだ啄木もやはり、不遇の歌人だった。

病み臥して啄木忌知る暮の春 富田木歩

木歩は、石川啄木こと本名・石川一(はじめ)に、名前だけではない共感を覚えていたのかもしれない。

障害・貧困・病魔との闘い

両脚の不自由な木歩は、極貧の生活の中で肺結核の恐怖と戦いながら、俳句を詠み続けた。

彼が俳句に詠むことのできるもの、それは「自分」以外にあり得なかった。

たまさかは夜の街見たし夏はじめ 富田木歩

高浜虚子によって「花鳥諷詠」が唱えられていた時代、木歩は自然の美しさよりも、あえて自らの生活を詠んだ。

それは「俳句は私小説」であると主張した石田波郷へと、やがては繋がっていく流れの源流だったのかもしれない。

境涯俳句

その頃、村上鬼城という聾俳人が人気を得ていた。

不遇な境遇を詠んだ村上鬼城の作風は「境涯俳句」と呼ばれる。

しかし、木歩は必ずしも「不遇な境遇」に固執していたわけではない。

彼が考える俳句は、他の誰にも作ることのできない、彼らしい俳句だった。

遺された写真

現在、遺されている富田木歩の写真は、大正8年7月ごろ、母(み禰)と一緒に撮影されたものだ。

花田春兆『鬼気の人』より花田春兆『鬼気の人』より

伝説の俳人の姿を知ることのできる、貴重な記録写真である。

名句鑑賞|富田木歩の俳句の魅力

富田木歩の俳句活動は、高浜虚子の主宰する『ホトトギス』へと投句から始まる。

木歩が作った俳句の全貌を把握することはできないが、新井声風・編『木歩句集』には、大正2年から12年までの628句が遺されている。

小さな世界を詠む

障害のため、自由に外出できない木歩は、自室という小さな空間を中心に俳句を詠んだ。

窓の日や洋書の上の福寿草 富田木歩

恋猫に障子の穴の二タ所 富田木歩

俳句に詠まれたつつましい暮らし、それが木歩の生活だった。

不遇の家族たちを詠む

富田家において、不遇なのは木歩だけではなかった。

弟・利助は生まれながらの聴覚障害で、健常者の妹たちは、花街へと身売りさせられている。

さらに、唖の利助と芸者の妹(まき子)は、肺結核に苦しみながら死んでいった。

(病妹)
かそけくも咽喉鳴る妹よ鳳仙花 富田木歩

たまさかの蚊に咳く妹を憂ひけり 富田木歩

木歩は死んでいくまき子の様子を「臨終まで」という小文に書き残している。

呼吸は愈々切迫して来た。遂に瞳孔も開いて了ったと見えて眼を幾度か開閉した。母を探る手と胸をはだけようとする手の運動は「母ちゃん──暑いよ」と云う声と共に尚続いた。(富田木歩「臨終まで」/江宮隆之『凍てる指』より)

妹を喪った悲しさを、木歩は俳句に詠まなければならなかった。

(納棺式)
死装束縫ひ寄る灯下秋めきぬ 富田木歩

(通夜)
棺守る夜を涼み子のうかがひぬ 富田木歩

愛する家族の死さえ、木歩にとっては「生活」の一部だったのだ。

人生を詠む

木歩の俳句の魅力は、やはり、その人生と向き合う姿勢にあったのではないだろうか。

障害と貧困故に、結婚することのできなかった最愛の女性(幼なじみの「小鈴」)も、やはり花街へと身売りしていった。

奉公時代からの親友(波王)は、川で溺れ死んでしまった。

生き残ることの悲しさが、木歩の俳句にはある。

(亡き人々を夢に見て)
夢に見れば死もなつかしや冬木風 富田木歩

夢に見れば死さえ懐かしいものになる──。

それが、富田木歩という俳人の生き方だったのかもしれない。

読書案内|富田木歩の俳句を読む

富田木歩の死後、遺された作品は、親友・新井声風により、句集として編纂された。

新井声風・編の作品集

現在までに出版されている富田木歩の作品集は、次のとおり。

①『木歩句集(現代俳句叢書)』素人社書屋(1934)
②『木歩文集』素人社(1934)
③『富田木歩全集』素人社書屋(1935)
④『定本木歩句集』交蘭社(1938)
⑤『決定版 富田木歩全集』世界文庫(1964)

いずれも古いものだが、古書店で入手することは可能。

『鬼気の人 俳人富田木歩の生涯』花田春兆

肢体不自由の俳人・花田春兆による木歩の評伝。

序句を中村草田男が、序文を山本健吉や山田俊秀らが寄せている。

『小説 木歩』上田都史

俳句評論家・上田都史による評伝風の小説。

史実を題材として小説化している。

『凍てる指』江宮隆之

歴史文学者・江宮隆之による評伝。

鈴木しづ子の評伝「凍てる指」と、富田木歩の評伝「冬木立 木歩の青春」が併録されている。

「謎の俳人」に興味がある人におすすめ。

文学散歩│富田木歩の足跡を訪ねて

東京都内には、わずかだが、富田木歩の足跡が遺されている。

向島|三囲神社の句碑

三囲神社にある富田木歩の句碑三囲神社にある富田木歩の句碑

富田木歩の句碑が、向島・三囲(みめぐり)神社にある。

大正13年9月、木歩の没後一周年を記念して、新井声風らが中心となって建立したものだ。

夢に見れば死もなつかしや冬木立

碑に刻まれた句は、『石楠』の師・臼田亜浪の筆によるものだった。

隅田公園|富田木歩終焉の地

隅田公園にある「富田木歩終焉の地」の句碑隅田公園にある「富田木歩終焉の地」の句碑

三囲神社からほど近い隅田公園の片隅、隅田川近くに「富田木歩終焉の地」を示す標柱が建てられている。

標柱には木歩の句が刻まれていて、句碑ということらしい。

かそけくも咽喉鳴る妹よ鳳仙花

肺結核で死につつある妹(まき子)を詠んだ、哀しい作品である。

江戸川区平井|最勝寺の墓

富田木歩の墓は、東京都江戸川区平井1丁目25–32 最勝寺(天台宗)にある。

墓もまた、親友・新井声風の手になるものだった。

まとめ|困難な時代を生きていくために

最後に、現代の我々はなぜ、大正時代に生きた古い俳人に惹かれるのか、整理しておきたい。

生きている自分を確かめる

富田木歩は不遇の俳人だった。

不自由な両脚、極貧生活による四人姉妹の身売り、肺結核による死への恐怖。

そんな不遇の人生の最期が、関東大震災だったというところに、木歩という俳人のドラマがある。

人々が惹かれるのは、木歩のそんな不幸せな境遇である。

しかし、木歩は、自らの不遇を嘆くために俳句を詠んだのではない。

むしろ、彼は、生きている自分を確かめるために俳句を詠んだのではなかったか。

(我等兄弟の不具を鰻売るたたりと世の人の言ひければ)

鰻ともならである身や五月雨 富田木歩

「うなぎの祟り」とのそしりを受けながら、木歩は強く生き続けた。

自ら手にした「木の足」で、俳句という世界を歩き続けたのだ。

メタ認知としての俳句

現代を生きる我々は、木歩の生きた時代より、ずっと幸福な時代を生きている。

そして、それだけに我々は、自分と向き合うことを忘れているのではないだろうか。

木歩の俳句は、今でいう「メタ認知」だった。

現実の自分を見つめることで、自分の人生を生きていく。

それが、富田木歩という俳人の俳句だったのだ。

今、我々は、大正時代を生きた木歩の、遺された俳句を読むことができる。

「自分と向き合う」ということの意味を教えてくれる木歩の俳句は、時代を超えたメッセージだったのかもしれない。

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文芸コラム担当。感想以上、批評未満。深読み癖あり。感想はX(@jiku_hyohon)にてお待ちしています。