街と文学

【文芸散歩】石川啄木、最期の街・東京|上野から銀座まで8つの歌碑・ゆかりの地巡り

【文芸散歩】石川啄木、最期の街・東京|上野から銀座まで8つの歌碑・ゆかりの地巡り

石川啄木に愛された街がある。

それは、かつて(明治時代の末期)、啄木が暮らし、その作品の中に歌われた街だ。

多くの歌碑が建立され、啄木の名は永遠という時間の中に刻まれた。

生まれ故郷の渋民村をはじめ、盛岡、函館、札幌、小樽、釧路と、啄木の放浪人生を物語るかのように、全国各地に「啄木の街」がある。

そして、そんな放浪人生のたどり着いた行き止まりが東京だった。

石川啄木にとって東京は「最後の街」である。

今回は、東京都内にある「石川啄木の歌碑」を歩いてみた。

石川啄木の東京生活

石川啄木の東京生活は生涯に三度あった。

一度目は1902年11月、17歳のときで、文学をもって身を立てるという希望に燃えた啄木は、盛岡駅より上京、先輩の暮らす小石川町で暮らし始める。

新詩社の与謝野鉄幹・晶子夫妻と交流を持ち歌作に励むものの、窮乏生活は極まり、健康を害したこともあって、1903年2月、失意のうちに帰郷した。

わずか3か月の東京生活だった。

二度目の上京は1904年10月で、処女詩集刊行『あこがれ』の刊行が主な目的だった。

翌1905年5月、『あこがれ』を刊行した啄木は、堀合節子と盛岡で新婚生活を送るため、東京を後にする。

その後、1907年5月から函館・札幌・小樽・釧路と、放浪の北海道生活を過ごし、1908年4月、啄木は三度目の上京を果たす。

この年、啄木は23歳で、これが最後の東京生活となった。

石川啄木の歌碑巡り(東京都内篇)

東京都内には、上野・本郷・小石川・銀座に、石川啄木の歌碑がある。

今回は上野駅を起点として、湯島、本郷、小石川と歩いた後、最後に銀座を訪れた。

① JR上野駅の15番線ホーム

石川啄木の歌碑(JR上野駅の15番線ホーム)石川啄木の歌碑(JR上野駅の15番線ホーム)

石川啄木の歌碑巡りは、東京の玄関口・上野駅から始まる。

ふるさとの訛なつかし/停車場の人ごみの中に/そを聴きにゆく

新幹線「宇都宮線・高崎線」が発着する15番線地平ホームに、大きくて丸い歌碑があった。

ちょうど新幹線が到着して、多くの旅人が通りすぎていくが、啄木の歌碑に足を止める人は、もちろん誰もいない。

インバウンドの現代、聴こえてくるのは「ふるさとの訛」ではなく「聴いたことのない未知なる外国の言葉」だっただろうか。

② 上野駅前通り商店街

石川啄木の歌碑(上野駅前通り商店街)石川啄木の歌碑(上野駅前通り商店街)

JR上野駅「不忍口」から出たところに、上野駅前通り商店街がある。

既に午前8時を過ぎていたが、まだ営業している店があり、昨夜から飲み続けている人たちがいた。

一見荒涼とした光景は、人間が生活しているリアルを示しているのだろうか。

ふるさとの訛なつかし/停車場の人ごみの中に/そを聴きにゆく

ここにも「ふるさとの訛なつかしい停車場」の歌碑があった。

ある意味で、最も人々に近いところにある啄木の歌碑である。

③ 湯島切通坂|湯島春日通り

石川啄木の歌碑(湯島切通坂)石川啄木の歌碑(湯島切通坂)

上野駅前通り商店街を抜けて、湯島天満宮へ向かう。

天満宮からすぐ近くの「湯島切通坂」に啄木の歌碑があるはずだが、その「切通坂」が見つからない。

巡回の警察官に尋ねてみたが、「切通坂」がそもそも通じなかった。

湯島天満宮よりも「笹塚稲荷神社」「戸隠神社」を目印にした方がよかったかもしれない。

二晩おきに/夜の一時頃に切通の坂を上りしも/勤めなればかな。

出典は啄木の死後に刊行された第二歌集『悲しき玩具』(1912)。

1909年3月以降、啄木は朝日新聞社の構成係として勤務しており、旧弓町の「喜之床」二階の間借り先から通勤していたという。

今夜は夜勤だった。社を出たのが十二時十五分、ようやく赤電車に間に合って乗ったが、乗換はもうない。雨の中を上野広小路でおりた。(宮崎大四郎宛て書簡/『石川啄木全集(第七巻)』)

夜勤を終えた後は、上野の広小路まで終電車を利用したが、本郷三丁目行きの電車はもう終わっていたため、広小路からこの切通坂を通って「喜之床」まで帰ったらしい。

おまけ|かねやす

かねやす(本郷もかねやすまでは江戸のうち)かねやす(本郷もかねやすまでは江戸のうち)

切通坂を上って本郷三丁目へ入ったところに「かねやす」があった。

江戸川柳に詠われた、あの「かねやす」である。

本郷もかねやすまでは江戸のうち

一階の和菓子屋「やながわ」は、焼きたてどら焼き「どら福」が名物。

④ 石川啄木喜之床跡│本郷

石川啄木喜之床跡(理容アライ)石川啄木喜之床跡(理容アライ)

1909年6月から、啄木は「喜之床」という床屋の二階で家族と暮らし始める。

宮崎君から送ってきた十五円で本郷弓町二丁目十八番地の新井という床屋の二階二間を借り、下宿の方は、金田一君の保証で百十九円余を十円ずつの月賦にしてもらい、十五日に発ってくるように家族に言い送った。(石川啄木「二十日間(床屋の二階に移るの記)」)

家族揃っての生活は、決して円満なものではなかった。

お菓子貰ふ時も忘れて、/二階より、/町の往来ゆききを眺むる子かな。

殊に、健康不良の妻と年老いた母との確執は、啄木の平穏な生活をも苦しめたという。

数々の望郷の歌は、そんな暮らしの中から生まれたものだった。

かにかくに渋民村は恋しかり/おもいでの山/おもいでの川

理容アライの外壁には、文京区教育委員会により「啄木ゆかりの喜之床跡」の説明版が設置されている。

おまけ|菊坂界隈文人マップ

菊坂界隈文人マップ菊坂界隈文人マップ

「文士の町」と呼ばれた本郷には、多くの文学者たちの足跡が残されている。

さすがに「文士の町」らしく、街角には「菊坂界隈文人マップ」が設置されていて、界隈で暮らした文人たちの様子を知ることができる。

「夏目漱石常客の柏木理容店」「樋口一葉ゆかりの伊勢屋質店」「石川啄木ゆかりの松坂屋質店跡」など、説明がマニアックで楽しい。

「菊富士ホテル跡」には竹久夢二や直木三十五、宇野浩二、宮本百合子、尾崎士郎の名前があり、「常磐会跡」には正岡子規、高浜虚子、長谷川如是閑の名前がある。

「啄木ゆかりの喜之床跡」も、もちろんこの界隈だ。

本郷四丁目から斜めに菊坂町へ下りて行くと、右側の小ぽけな煙草屋の横に、狭くろしい路次がある。(石川啄木「眠れる女」)

その他、宮沢賢治、久米正雄、田宮虎彦、二葉亭四迷、徳田秋声、尾崎紅葉、島崎藤村なども、この界隈で暮らした文人だった。

おまけ|近代文学発祥の地 本郷

近代文学発祥の地 本郷近代文学発祥の地 本郷

1885年に『小説神髄』を発表したとき、坪内逍遥の自宅は本郷真砂町(現本郷4丁目)にあった。

以来、本郷には多くの文人が暮らし、「近代文学発祥の地」と呼ばれるようになる。

菊坂通りのマンション「プラウド本郷」には、「近代文学発祥の地 本郷」のプレートが飾られていた。

東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる

啄木の作品を書いたプレートもあり、本郷はマンションまで文学チックである。

⑤ 蓋平館別荘跡│本郷

石川啄木の歌碑(蓋平館別荘跡)石川啄木の歌碑(蓋平館別荘跡)

1908年6月、どん底の窮乏生活の中にあった啄木は、次のように日記に記している。

噫、死なうか、田舎にかくれようか、はたまたモット苦闘をつづけようか、?(六月二十七日)

「赤心館」で下宿代の支払いにも窮した啄木は、親友・金田一京助の助けを得て、本郷区森川町の「蓋平館別荘」へ移転した。

僕の今度の室は三階にあり。東京の下宿屋中最も建物が立派だと言われるこの下宿の三階にあり。そしてこの下宿中の最も小さき低価なる室なるなり。(藤田武治・高田治作宛て書簡/『石川啄木全集(第七巻)』)

暗黒時代の「ローマ字日記」は、ここ蓋平館で書かれている。

四月七日 水曜日/本郷区森川町一番地新坂/三五九号蓋平館別荘にて

釧路時代の愛人(小奴)が訪れたのも、この蓋平館だった。

六時半頃のことだ。(略)「釧路から来たものだと言ってくれ」という女声が聞えた。ツイと出ると、驚いた、驚いた、実に驚いた。黒綾のコートを着た小奴が立っているではないか!(石川啄木「明治四十一年日誌」)

歌碑には、この時代に詠んだ代表句が刻まれている。

東海乃小島の磯の/白砂に我泣きぬれて/蟹とたわむる

句碑の横には、文京区教育委員会の説明版があり、ここにも啄木の歌が記されていた。

父のこと 秋はいかめし/母のこと 秋はなつかし/家持たぬ児に

(明治41年9月14日作・蓋平館)

おまけ|善光寺坂のムクノキ

善光寺坂のムクノキ善光寺坂のムクノキ

善光寺坂を伝通院へ向かって歩いていくと、大きなムクノキがある。

上部が損傷しているのは、1945年5月25日の東京大空襲で焼夷弾を受けたためだ。

ムクノキの角を曲がったところに、幸田露伴の暮らす蝸牛庵もあったが、同じく空襲で焼失した。

⑥ 石川啄木終焉の地 歌碑・顕彰室|小石川

石川啄木終焉の地 歌碑・顕彰室石川啄木終焉の地 歌碑・顕彰室

石川啄木が亡くなったのは、1912年4月13日のこと。

早朝危篤に陥り午前九時三十分、父一禎、妻節子、友人の若山牧水にみとられながら永眠。享年二十七歳。病名は肺結核である。(『石川啄木全集(第八巻)』)

終焉の地・小石川には、今、歌碑が建立されている。

呼吸すれば、/胸の中にて鳴る音あり。凩よりもさびしきその音!

眼閉づれど/心にうかぶ何もなし。/さびしくもまた眼をあけるかな

この地へ移転したとき、啄木は慢性腹膜炎及び肋膜炎のため、自宅療養中だった。

本日病床を左記に移し候/七日/小石川区久堅町七十四番地四十六号 石川一/大塚線清水谷の電車停留所附近より右へ入り二三度折れ曲って約二丁許り(土岐善麿宛て書簡/『石川啄木全集(第七巻)』)

母(カツ)、妻(節子)も、それぞれ健康を害しており、晩年の啄木は病苦と貧困の中で文学と向き合う日々だったらしい。

歌碑の隣には小さいながらも、啄木の功績を記念する顕彰室が開設されている。

石川啄木終焉の地 顕彰室石川啄木終焉の地 顕彰室

小石川は、夢と希望に燃えた若者の「絶望の地」でもあった。

⑦ 小石川図書館の石川啄木コーナー

小石川図書館の石川啄木コーナー小石川図書館の石川啄木コーナー

啄木終焉の地である小石川の図書館には、石川啄木のコーナーがある。

地元の子どもたちの郷土学習にも活用されるのだろうが、なかなかの充実ぶりで、「顕彰室」とはまた違った味わいがある。

文京区の学校では、探究活動に文学を採り入れることができるのかもしれない。

おまけ|かんだやぶそば

かんだやぶそばかんだやぶそば

上野駅から本郷、小石川と歩いて、さすがに少し疲れたので、「かんだやぶそば」で昼食をとる。

11時30分頃から並び始めて、ちょうど12時過ぎにテーブル席へと案内された。

「鴨せいろう」に「せいろう」を追加。

⑧ 朝日新聞社の跡地│銀座

石川啄木の歌碑(朝日新聞社跡地)石川啄木の歌碑(朝日新聞社跡地)

東京都内・石川啄木巡りの締めくくりは、銀座「朝日新聞社跡地」である。

京橋の滝山町の/新聞社/灯ともる頃のいそがしさかな

啄木が、滝山町の朝日新聞社へ勤めるようになったのは、1909年3月1日のこと。

三月一日 月曜 昼飯をくって電車で数寄屋橋まで、初めて滝山町の朝日新聞社に出社した。(石川啄木「明治四十二年当用日記」)

ちなみに、夏目漱石が東京朝日新聞社へ入社するのが1907年なので、二人の在籍は重なっていたことになる(啄木は一介の校正係にすぎなかったが)。

1910年7月、啄木は入院中の漱石を訪問するなど、仕事の上でも漱石と交流があったらしい。

現在、啄木の歌碑は「ロレックス」ブティックの前にあり、店頭には入店待ちの客が並んでいる。

啄木の肖像歌碑の背後に、赤いスポーツカーと「オメガ」のブティックが見えるのは、いかにも銀座的だ。

場違いも甚だしいが、困窮極まる啄木も、銀座で窮屈な思いをしていただろうか。

まとめ│東京の「迷える子羊」

啄木にとって東京は、いったいどのような存在だったのだろうか。

文学という夢を抱いて上京した街は、しかし、病気と貧困の町だった。

絶望の中で夢を見続けた街。

それが、啄木にとっての東京だったのではないだろうか。

あれから110年以上が経過したけれど、石川啄木という歌人の生きた痕跡は、今も東京のあちこちに残されている。

途中にて乗換の電車なくなりしに、/泣かうかと思ひき。/雨も降りてゐき。

夢と現実の狭間に逸れた暮らしこそ、啄木にとっての東京だった。

夏目漱石『三四郎』(1908)の主人公が迷ったように、石川啄木もまた「迷える子羊(ストレイシープ)」の一人だったのかもしれない。

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ジェン
文芸コラム担当。感想以上、批評未満。深読み癖あり。感想はX(@jiku_hyohon)にてお待ちしています。