ロバート・ルイス・スティーヴンソン「宝島」読了。
本作「宝島」は、1881年(明治14年)から1882年(明治15年)まで『Young Folks』誌に連載された長篇小説である。
連載開始の年、著者は31歳だった。
原題は「Treasure Island」(当初は「The Sea Cook, or Treasure Island」)。
単行本は、1883年(明治15年)12月にYoung Folksから刊行されている。
ハラハラ・ドキドキのスリル感
小沼丹『椋鳥日記』に、海賊の歌が出てくる。
狭い昇降口の急な梯子段を降ると広い部屋があって、その壁に古い船首飾が沢山並べてある。それを眺めていると、……ラム酒が一本、という唄の文句がひょっこり甦った。その前に文句があるが、それが想い出せない。(小沼丹「椋鳥日記」)
グリニッジパークにある帆船カティ・サークの船内を見学していたら、不意にスティーヴンソンの『宝島』を思い出したらしい。
「ラム酒が一本、という唄の文句がひょっこり甦った」とあるのは、『宝島』に出てくる海賊の歌だ。
十と五人が 死人の箱に──
よお、ほの、ほ でラム一本!
残りは酒と 悪魔にやられ──
よお、ほの、ほ でラム一本!
(ロバート・L・スティーヴンソン「宝島」鈴木恵・訳)
ただ、小沼丹の小説に『宝島』が登場してきたときは、若干の違和感を感じた。
いかにイギリス文学とは言え、子ども向けの冒険小説である。
少年時代の懐かしい思い出かもしれないが、この小説(『椋鳥日記』)の、この場面には、あまり似つかわしくないような気がしたのだ。
そこで、久し振りに『宝島』を読むべく、新潮文庫「Star Classics 名作新訳コレクション」から出ているやつを買ってきた(手元には岩波少年文庫の『宝島』もあるが)。
読み始めて、間もなく分かった。
この小説は、ただの少年向けの冒険小説ではないということが。
それにしても、全編に漂う、このハラハラ・ドキドキのスリル感は、一体何なんだろう?
終盤でようやく思い当たったのが、このハラハラ・ドキドキ感は、ハードボイルドのミステリー小説が持つハラハラ・ドキドキ感と同じものだった、ということだ。
私はみすぼらしい小舟の底に身を伏せて、自分の魂をひたすら主にゆだねていた。水路の出口でうち寄せる荒波の列に突っこむのはまちがいなく、私の苦労もすべてそこで速やかに終わるはずだった。自分が死ぬことには耐えられるだろうが、運命が迫ってくるのを眺めていることには耐えられなかった。(ロバート・L・スティーヴンソン「宝島」鈴木恵・訳)
この物語は、大人になった主人公が、少年時代の思い出を述懐する、という構成になっているから、随所に出てくる大人っぽい表現にも、全然違和感がない。
むしろ、この大人っぽい表現こそが、本作『宝島』の魅力だったのではないだろうか。
「肉体を殺すことはできても、魂は殺せないよ。そんなことはあんただって、もう知ってるだろう」と私は答えた。「そこにいるオブライエンはもうあの世にいて、ぼくらを見張ってるかもしれない」(ロバート・L・スティーヴンソン「宝島」鈴木恵・訳)
海賊との戦闘シーンでは、タフな名探偵さながらの、クールな決め言葉まで登場している。
これは、確かに大人が読んでおもしろい小説なのだ。
岩波少年文庫『宝島』巻末にある訳者あとがき(阿部知二)によると、この物語は、1881年(明治14年)の夏休みに、妻の連れ子だった少年ロイド・オズボーンに語って聞かせたものが、元になっているらしい(このときは『船の料理番』という題名だった)。
最初に空想で描いた「島の地図」から海賊との戦いが生まれた後には、灯台建設技師の経験を持つ父(スティーヴンソンの実父)までが参加して、帆船や船乗りについて様々なアドバイスを与えてくれた。
もっとも、子ども向け雑誌に連載された当時、この作品は、まったく不評だったという。
船旅に出るまでが長すぎるし、悪役のジョン・シルヴァーの言動がひどすぎるということもあったのかもしれない。
「友情・努力・勝利」の海洋バトル小説
本作『宝島』は、大きなストーリーとしては、死んだ海賊の遺した伝説の財宝を探す船旅の物語だが、本質的なところでは、少年ジム・ホーキンズと、片脚の悪役ジョン・シルヴァーとの海洋バトル小説だと言っていい。
『週刊少年ジャンプ』を読むような「友情・努力・勝利」の趣きがある。
もちろん、この物語に登場する少年はホーキンズ一人だから、彼は大人たちとの「友情」を支えに「努力」を重ね、結果、海賊たちとの戦いに「勝利」してみせるのだ。
少々、無鉄砲なところも、少年漫画の主人公という感じがしていい。
「なんで?」と私は声をあげた。「あんた、さっきぼくに死者のことを尋ねたばかりじゃないか。あんたは信頼を裏切ってきたんだよ。罪と嘘と血にまみれて生きてきたんだ。いまだって、あんたが殺した男があんたの足元に横たわってる。それなのに、なんでだなんて! 主のお慈悲だよ、それを乞うためさ」(ロバート・L・スティーヴンソン「宝島」鈴木恵・訳)
単独行動で脇役の海賊たちを倒して、仲間たちが待っているはずの陣地に乗り込み、ジョン・シルヴァーに捕まってしまう場面は、まさしくラスボスとの対決だ。
このとき、主人公は絶体絶命のピンチに陥っているわけで、「捕虜の姿はなかった。それが私の恐怖を十倍にした。みな死んだのだと判断するほかなかった。自分もその場にいて一緒に死ななかったことが、悔やまれてならなかった」とあるのが、主人公の境地を見事に表している。
もちろん、スーパーヒーローの少年は、最後に必ず勝つわけで、このあたりのストーリー上のメリハリが、子どもたちだけではなく、大人をも夢中にさせてしまう要因となっているのだろう。
もっとも、単独行動をリヴジー先生に咎められたホーキンズが泣き出すあたりは、やっぱり子どもらしくてかわいい。
少年だからこその純粋な魅力が、主人公にはあるのだ。
一方の敗れたジョン・シルヴァーは、裁判で死刑判決を喰らう前に、まんまと逃げおおせてしまう。
シルヴァーの消息は、あれ以降なにも聞かない。あの恐ろしい一本脚の船乗りは、ついに私の暮らしから完全に消えたのである。だがおそらく黒人の妻と巡りあい、いまでもその女とフリント船長とともに安楽に暮らしていることだろう。そうであってほしいと思う。あの世で彼が安楽に暮らせる見込みはあまりないのだから。(ロバート・L・スティーヴンソン「宝島」鈴木恵・訳)
人気漫画だったら、第二シリーズが始まって、いつか、どこかで、ホーキンズとシルヴァーの再会がありそうだけれど、『宝島』に続きはない。
それにしても、自分の命を狙った宿敵に「いまでもその女とフリント船長とともに安楽に暮らしていることだろう。そうであってほしいと思う」と願うあたり、さすがにイギリス紳士だなあと思う。
あるいは、大人になったホーキンズの余裕が、そう言わせているのかもしれないが。
海賊との戦いとは言え、この物語では、ずいぶんたくさんの男たちが死んだ。
この点、海賊たちに歌いつがれている「船出をしたのは 七十五人 生きているのは ただひとり」という歌は、暗示的である。
「命知らず」という日常生活にない観念は、安楽に暮らす現代人にも、ある種のロマンを与えてくれるのかもしれない。
書名:宝島
著者:ロバート・L・スティーヴンソン
訳者:鈴木恵
発行:2016/08/01
出版社:新潮文庫