福田宏年「ウイーンの錠開け屋」読了。
本作「ウイーンの錠開け屋」は、1995年(平成7年)10月に沖積舎から刊行されたエッセイ集である。
この年、著者は68歳だった(1997年6月に69歳で死亡)。
中国旅行で親しくなった福田宏年と庄野潤三
庄野潤三『庭のつるばら』に、ドイツ文学者・福田宏年の急死に触れた話がある。
福田宏年と庄野潤三は、1975年(昭和50年)の作家代表団(井上靖が団長)による中国訪問旅行を機会に、親しく酒を飲む仲となったらしい。
夕食後、ピアノの上に宏年さんが送ってくれた随筆集『ウィーンの錠開け屋』と黒豆納豆の箱を置いて、妻と二人で手を合せる。それより前に弔電を打つ。「ザンネンデス オモカゲヲシノビゴメイフクヲイノリマス」明日、奥さま宛に葉書を書くことにする。小沼丹といい、福田宏年といい、一緒に気持よく酒を飲んだ友がいなくなり、さびしい。(庄野潤三「庭のつるばら」)
『ウイーンの錠開け屋』の横に庭のばら(ブルームーン)を飾りながら、庄野さんは、「……てなもんですワ」という宏年さんの上機嫌な声が聞えて来そうだと、亡き友を偲んでいる。
さて、その福田宏年の『ウイーンの錠開け屋』の一番最初に「巻ずしと中国──庄野潤三」というエッセイが収録されている。
「庄野さんの小説に、巻ずしを作るところを細かく描写したものがある」という一文から始まるこの作品は、中国訪問団に参加したときの庄野さんの印象を綴ったものである。
隣り合わせた行きの飛行機の中で、庄野さんに「巻ずし」のことを話し、庄野さんが「それは『秋風と二人の男』という小説です」と答えたことから、二人の親しい交流は始まった。
もっとも、中国に到着するなり体調を崩した庄野さんにとって、この中国旅行は、かなり辛い旅になってしまったらしい。
「庄野さんは、やどかりが殻を出たようなもんやな」と言った司馬遼太郎は、帰国後、遠藤周作から「庄野は中国でどうでした?」と訊かれて、「庄野さんは泣いとったよ」と語ったそうだ。
北京の人民大会堂で党の領袖の姚文元氏と会見した時、庄野さんは、「私は狭い自分の生活だけを書いてきた作家で、昔から子供に関心をもってきました。中国へも子供を見るためにやってきました」と挨拶していたが、その言葉通り、庄野さんは旅行中ずっと子供たちに愛情の籠った深い眼差を注いでいた。(福田宏年「巻ずしと中国──庄野潤三」)
作家の一群がカメラを携える中、庄野さんだけはスケッチブックを抱えて、子どもや家族連れの姿を写生していたという。
本を読んだだけで、旅をしてきたような充足感がある
庄野さんの思い出に始まる、このエッセイ集は、「出会いの三十有余年」という副題が示すとおり、様々な時代に発表された断片を、一冊の本にまとめたものである。
「アカシアの小樽──佐藤春夫」は、佐藤春夫や井上靖とともに、北海道旅行をしたときの回想記で、小樽・海陽亭のアカシアが素晴らしかったことが綴られている(旅行をした6月は、アカシアの白い花の最盛期だった)。
親しかった深田久彌の思い出話もいい。
「どうして山の小説を書かないのですか」と訊ねたとき、深田久弥は「山にはドラマがないからな」と答えたそうである。
作家の追想のほかにも、いろいろな話が入っている。
「観音寺うどん自慢」は、故郷・香川県のうどんの美味を綴ったグルメエッセイである。
観音寺ではうどん屋に入って、天ぷらうどんとか鍋焼きとか、小うるさい物を食べる人はほとんどいない。ただ「うどん」と言っただけで素うどんに蒲鉾の薄切りを二、三片載せたのが出てくる。それが一番旨いのである。(福田宏年「観音寺うどん自慢」)
食べ物に関する随筆は、「一銭洋食─思い出の味」というひとつの章として構成されているから、食べ物に関する関心も高かったのだろう。
函館で美味しいイカソーメンを食べることができなかった「イカソーメン」がおかしい。
表題作「ウイーンの錠開け屋」は、ウィーン滞在中に部屋の鍵を失くして困ったときの様子を回想したものだが、一連のウィーンものとしては、下宿屋の老いた未亡人の恋を描いた「ウィーン暮色蒼然」が良かった。
ウィーンの秋の訪れは早い。菩提樹やポプラの葉が黄色になる頃のウィーンは一番美しい。特に黄色い葉の色は曇天によく映える。それはどこか暗さを秘めた明るさである。(福田宏年「ウィーン暮色蒼然」)
こういう紀行エッセイを読んでいると、たちまち旅行へ出かけたくなってしまうから不思議だ。
同時に、本を読んだだけで、旅をしてきたような充足感を得ることもできる。
長い年月を経て書かれた文章を集めたエッセイ集だけに、どの断章にも、人生の滋味というものが感じられる。
非常に密度の濃い、読み応えのあるエッセイ集だ。
書名:ウイーンの錠開け屋─出会いの三十有余年
著者:福田宏年
発行:1995/10/30
出版社:沖積舎