太宰治「ヴィヨンの妻」読了。
本作「ヴィヨンの妻」は、1947年(昭和25年)3月『展望』に発表された中篇小説である。
この年、著者は38歳だった(翌1948年6月に自殺)。
単行本は、1947年(昭和25年)8月に筑摩書房から刊行されている。
クズみたいな男たちの苦悩や孤独
いつ読んでも、太宰治は小説のうまい男だと思わせられる。
特に、まるでダメな男を書かせたら、おそらく太宰治以上の作家はいない。
「僕はね、キザのようですけど、死にたくて、仕様がないんです。生まれた時から、死ぬことばかり考えていたんだ。皆のためにも、死んだほうがいいんです。それはもう、たしかなんだ。それでいて、なかなか死ねない。へんな、こわい神様みたいなものが、僕の死ぬのを引きとめるのです」(太宰治「ヴィヨンの妻」)
物語の語り手は、詩人<大谷>の内縁の妻で、26歳の女性。
大谷との間にできた子どもの成長はおもわしくないが、大谷が家庭を心配するような様子は全然ない。
酒が好きで、外に女を作って遊び歩いている。
女性は、大谷の借金を返済するため、大谷が常連だった飲み屋で働き始める。
愛情の欠片も見せない大谷に、どうしてそんなに尽すのかと、読者の苛立ちは募るばかりだが、そこに太宰治という作家の仕掛けた罠がある。
「女には、幸福も不幸もないものです」「そうなの? そう言われると、そんな気もして来るけど、それじゃ、男のひとは、どうんなの?」「男には、不幸だけがあるんです。いつも恐怖と戦ってばかりいるのです」(太宰治「ヴィヨンの妻」)
クズみたいな男だけれど、言葉は巧みだから、女はすぐに騙される。
そして、そんなクズみたいな男の巧みな言葉というものを書かせたら、太宰治以上の作家はいない。
太宰治自身、クズみたいな男たちの気持ちを誰よりも理解していたから、太宰治は素のままで、クズみたいな男たちの台詞を書くことができたのだろう。
同時に、そうした男たちの苦悩や孤独を誰よりも知り尽くしていたのも、やはり太宰治だった。
この物語は、酒に溺れ、女に溺れた男の孤独と弱さを描いた、破滅の物語なのである。
多くの人間が罪を背負いながら生きている
文春文庫の解説によると「ヴィヨン」とは15世紀フランスの詩人で、「百年戦争直後の混乱の中で、本邦無頼の生活を送り、恋愛から誤って人を殺し、死刑を宣告されたが逃亡した」とある。
電車の天井にぶらさがっているポスターに、女性は夫の名前を見つける。
それは雑誌の広告で、夫はその雑誌に「フランソワ・ヴィヨン」という題の長い論文を発表している様子でした。私はそのフランソワ・ヴィヨンという題と夫の名前を見つめているうちに、なぜだかわかりませぬけれども、とてもつらい涙がわいて出て、ポスターが霞んで見えなくなりました。(太宰治「ヴィヨンの妻」)
ヴィヨンは罪を犯して死刑を宣告された詩人である。
女性は、何も知らないで、そのヴィヨンと我が夫とを結びつけて考えていたのだろうか。
とにかく、大谷という詩人が、いかにクズみたいな男であるかということを、太宰治は執拗に描き続ける。
それは、まるで<大谷>という見えない詩人を罰してでもいるかのように。
大谷は、最後まで人間のクズとしての主張を押し通す。
「やあ、また僕の悪口を書いている。エピキュリアンのにせ貴族だってさ。こいつは当たっていない。神におびえるエピキュリアン、とでも言ったらよいのに。さっちゃん、ごらん、ここに僕のことを人非人なんて書いていますよ。違うよねえ。僕は今だから言うけれども、去年の暮にね、ここから五千円持って出たのは、さっちゃんと坊やに、あのお金で久しぶりのいいお正月をさせたかったからです。人非人でないから、あんなことも仕出かすのです」(太宰治「ヴィヨンの妻」)
自分が五千円を盗んだのは、妻と子どもに楽しいお正月をさせてあげたかったからだと、大谷は妻に告白しているのである。
このくらい身勝手な論理もないが、結局、盗んだ金は、よその女たちとの派手なクリスマスパーティーで浪費してしまい、妻も子どもも、少しの恩恵を受けたりしない。
むしろ、女性は、大谷の借金を返済するために飲み屋で働きはじめなくてはならず、しかも、美人だという女性は酒に酔った客にレイプまでされてしまうのである(ストーリー的には予定調和だが)。
このひどい物語を締めくくる女性の言葉は「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」だった。
実は、作中に、戦後日本の道徳が、ひどい状態になっていることが書かれているが、罪を背負った人間は、あるいは、大谷だけではなかったのかもしれない。
荒廃した世の中で、多くの人間が罪を背負いながら生きている。
だからこそ「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」という女性の言葉は、多くの読者の共感を得たのではないだろうか。
弱さの肯定は、絶望からの救済でもあったのだ。
クズ男・大谷への反感と怒りは、女性への軽蔑と同情となり、彼らの生き様は、いつしか読者の共感を得ていく。
「生まれた時から、死ぬことばかり考えていたんだ」のような名言も満載。
ありふれた事象を描いているようだけど、太宰治の小説は、やっぱりすごい。
作品名:ヴィヨンの妻
著者:太宰治
書名:斜陽 人間失格 桜桃 走れメロス 他七編
発行:2000/10/10
出版社:文春文庫