太宰治『ヴィヨンの妻』読了。
本作『ヴィヨンの妻』は、1950年(昭和25年)に新潮文庫から刊行された短篇小説集である。
太宰治は、1948年(昭和23年)6月、38歳で自殺していた。
収録作品及び初出は、次のとおり。
「親友交歓」
・1946年(昭和21年)12月『新潮』
「トカトントン」
・1947年(昭和22年)1月『群像』
「父」
・1947年(昭和22年)4月『人間』
「母」
・1947年(昭和22年)3月『新潮』
「ヴィヨンの妻」
・1947年(昭和22年)3月『展望』
「おさん」
・1947年(昭和22年)10月『改造』
「家庭の幸福」
・1948年(昭和23年)8月『中央公論』
「桜桃」
・1948年(昭和23年)5月『世界』
生きる意味に悩み、生きることに苦しむ
新潮文庫『ヴィヨンの妻』が刊行されたのは、太宰治の自殺から2年後の1950年(昭和25年)のこと。
戦後のベストセラー作家ながら、様々な闇を抱えて死んでいった太宰治の、自殺直前の短篇小説が、この作品集には収録されている。
そこから見えるのは、徹底的に低い自己肯定感の中で戦後を生きる男の姿だ。
表題作「ヴィヨンの妻」は、太宰治の代表的短篇として評価の高い作品だが、この物語でも、生きることに自信を喪失した詩人が描かれている。
あの人は家を出ると三晩も四晩も、いいえ、ひとつきも帰らぬ事もございまして、どこで何をしている事やら、帰る時は、いつも泥酔していて、真蒼な顔ではあっはあっと、くるしそうな呼吸をして、私の顔を黙って見て、ぽろぽろ涙を流す事もあり、またいきなり、私の寝ている蒲団にもぐり込んで来て、私のからだを固く抱きしめて、「ああ、いかん。こわいんだ。こわいんだよ、僕は。こわい! たすけてくれ!」などと言いまして、がたがた震えている事もあり、眠ってからも、うわごとを言うやら、呻くやら(略)(太宰治「ヴィヨンの妻」)
主人公の葛藤は、既に、生きることそのものにあったと言ってもいい。
「僕はね、キザのようですけど、死にたくて、仕様が無いんです。生れた時から、死ぬ事ばかり考えていたんだ。皆のためにも、死んだほうがいいんです。それはもう、たしかなんだ。それでいて、なかなか死ねない。へんな、こわい神様みたいなものが、僕の死ぬのを引きとめるのです」(太宰治「ヴィヨンの妻」)
一方で、主人公(詩人の妻)は強く生きている。
神がいるなら、出て来て下さい! 私は、お正月の末に、お店のお客にけがされました。(太宰治「ヴィヨンの妻」)
夫は妻子のいる家庭には寄りつかず、女の家を泊まり歩いては、ふらっと妻の働いている飲み屋へ顔を出し、妻のツケで酒を飲んでいる。
夫の借金を返済するために、飲み屋で働き始めた主人公は、店の客にレイプされた後も、生きることをあきらめたりしない。
私は格別うれしくもなく、「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」と言いました。(太宰治「ヴィヨンの妻」)
それは、誰もが生きることに苦しむ時代だった。
焼け跡と激しい飢えの中で、生きることに疑問を持つ人も少なくなかっただろう。
不幸な境遇にあって、「私たちは、生きていさえすればいいのよ」とつぶやく主人公の言葉には、厳しい時代を生き抜く女性の強さが象徴されている。
「ヴィヨンの妻」の「ヴィヨン」とは、中世フランスで犯罪を繰り返した詩人(フランソワ・ヴィヨン)のこと。
本作「ヴィヨンの妻」は、生きることの本質的な意味を問いかける作品として、発表当時から高い評価を得た。
「トカトントン」にも、敗戦によって自信を喪失した男の姿が描かれている。
死のうと思いました。死ぬのが本当だ、と思いました。(略)ああ、その時です。背後の兵舎のほうから、誰やら金槌で釘を打つ音が、幽かに、トカトントンと聞こえました。(太宰治「トカトントン」)
生きることの意味を見失った主人公は、何にも前向きになることができず、無気力のままに日々を過ごしていく。
「トカトントン」のトリガーとなった敗戦は、あるいは、ひとつの言い訳に過ぎなかったかもしれない。
主人公が求めていたのは、生きることを否定する理由だ。
「人生というのは、一口に言ったら、なんですか」と私は昨夜、伯父の晩酌の相手をしながら、ふざけた口調で尋ねてみました。「人生、それはわからん。しかし、世の中は、色と慾さ」案外の名答だと思いました。(太宰治「トカトントン」)
悩む前に生きること。
伯父の言った「人生、それはわからん。しかし、世の中は、色と慾さ」という言葉には、人生を前向きに生きる男の強さがある。
この強さは、秋元治『こち亀』の主人公(両さん)の強さと同じものだ。
「日本人は余裕がない。何か悩むとすぐ生きるべきか死ぬべきかだからな。目の前がすぐ真っ暗になり二者択一だ。悩んだら、まず「生きる」モードに切り替えてからスタートだ。それから、どう生きるかを探せばいい」(秋元治『こちら葛飾区亀有公園前派出所』第98巻)
太宰の小説の主人公は、生きる意味に悩み、苦しみ、そのために、生きることそのものに苦しんでしまう。
そして、それは、多くの人間が抱く心の闇でもあった。
誰もが、両さんのように、強く生きていくことができるわけではない。
そこに、太宰治という作家の支持される理由があるのではないだろうか。
自分の中の「弱さ」と徹底的に向き合う
津軽での疎開生活に題材を採った「親友交歓」はいい。
とにかくそれは、見事な男であった。あっぱれな奴であった。好いところが一つもみじんも無かった。(太宰治「親友交歓」)
旧友を名乗る男に振り回される主人公の意気地なさ。
「そう言わずに」と彼は、私の言う事などてんで問題にせず、「ここへ呼んで来て、お酌をさせろよ。お前のかかのお酌で一ぱい飲んでみたくてやって来たのだ」(太宰治「親友交歓」)
旧友の理不尽な振舞いに抗議することさえできず、井伏鱒二に御馳走するはずだった、なけなしのウイスキーまで提供してしまう主人公の弱さは、戦争に負けた日本の弱さとも読める。
自分の中の「弱さ」と徹底的に向き合った作家が、太宰治という作家だった。
太宰を好きになるのも嫌いになるのも、あるいは、ここがポイントかもしれない。
太宰治は、見たくもない自分の弱さまで、これ見よがしに見せつけてくるから、「弱さ」に馴れていない人には、読むことさえ辛いという気持ちになる。
逆に言うと、「弱さ」の発見こそが、太宰治という作家の魅力でもあった。
「父」は、自己肯定感を持てない作家が主人公。
死にゃいいんだ。つまらんものを書いて、佳作だの何だのと、軽薄におだてられたいばかりに、身内の者の寿命をちぢめるとは、憎みても余りある極悪人ではないか。死ね!(太宰治「父」)
主人公の自己批判は、自分自身に対する愛情の裏返しとも読める。
「先生には、わからないでしょうね。とにかく旅行は、屈辱の多いものでしょう? 軍服はそんな屈辱には、もって来いのものなんだから、だから、それだから、わからねえかなあ、作家訪問なんてのも一種の屈辱ですからねえ」(太宰治「母」)
屈辱の中に、あえて身を投じることで、男は自分の中の劣等感と戦っていたのだ。
「電気をつけちゃ、いや!」するどい語調であった。隣室の先生は、ひとりうなずく。電気を、つけてはいけない。聖母を、あかるみに引き出すな!(太宰治「母」)
見てはいけないものがあるということを、主人公は知っていたのだろう。
だからこそ、太宰治は、あえて、心の中の闇に光を当て続けたのだ。
「桜桃」は、太宰治生前最後に発表された作品として知られている。
子供よりも親が大事、と思いたい。子供よりも、その親のほうが弱いのだ(太宰治「桜桃」)
太宰治の作品の主人公は、とにかく、生きることを難しく考えている。
生きるという事は、たいへんな事だ。あちこちから鎖がからまっていて、少しでも動くと、血が噴き出す。(太宰治「桜桃」)
もう仕事どころではなく、自殺のことばかり考えている主人公は、「子供よりも親が大事、と思いたい」という言葉を、呪いのように繰り返している。
現実逃避の中で、それでも主人公は、まだ、生きる言い訳を探していたのだろうか。
しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種を吐き、食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供よりも親が大事。(太宰治「桜桃」)
「極めてまずそうに食べては種を吐き、食べては種を吐き、食べては種を吐き」とあるサクランボは、人生(生きること)の象徴として読むことができる。
「まずそうに食べては吐く」を繰り返すのは、我々自身の毎日と言ってもいい。
生きることの楽しさと生きることの苦しさ。
美味しいサクランボを食べることさえ、人生では苦行となり得るのだ。
死後に発表された「家庭の幸福」も、やはり、生きることに苦しむ男が主人公となっている。
その女の、死なねばならなかったわけは、それは、私(太宰)にもはっきりわからないけれども、とにかく、その女は、その夜半に玉川上水に飛び込む。新聞の都下版の片隅に小さく出る。身元不明。津島には何の罪も無い。(太宰治「家庭の幸福」)
あるいは、太宰治という作家は、生きることに真面目すぎたのではないだろうか。
小説を書くことを通して、太宰治は、生きることの意味を問い続けた。
言い方によっては、自分の書いた小説が、作家自身を自死に至らしめた、とも思える。
それほどまでに、太宰治の小説は優れていた(優れすぎていた)。
もしかすると、太宰治は、誰もたどりつくことのできないような心の闇の奥底深いところで、小説を書き続けていたのかもしれない。
書名:ヴィヨンの妻
著者:太宰治
発行:1950/12/20
出版社:新潮文庫