文学鑑賞

庄野潤三「山田さんの鈴虫」老夫婦が過ごす穏やかなファンタジーワールド

庄野潤三「山田さんの鈴虫」あらすじと感想と考察
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庄野潤三「山田さんの鈴虫」読了。

あとがきから引用する。

子供が大きくなり、結婚して、家に夫婦二人きりで暮すようになってから年月たった。孫の数も増えた。そんな夫婦がどんなことをよろこび、毎日を送っているかを書きたい—と思うようになってからどのくらいになるだろう? その第一作の『貝がらと海の音』(新潮社)が出たのが1996年。その後、夫婦の晩年を書くという私の連作は、文芸誌への連載という形でとぎれず続いてゆく。おかげさまで、といいたい。今回の「文學会」に連載した『山田さんの鈴虫』は第六作となる。(「あとがき」)

ここで、庄野さんの「夫婦の晩年シリーズ」を振り返っておこう。

①貝がらと海の音(1995)
②ピアノの音(1996)
③せきれい(1997)
④庭のつるばら(1998)
⑤鳥の水浴び(1999)
⑥山田さんの鈴虫(2000
⑦うさぎのミミリー(2001)
⑧庭の小さなバラ(2002)
⑨メジロの来る庭(2003)
⑩けい子ちゃんのゆかた(2004)
⑪星に願いを(2005)

シリーズは最終的に11作品あるから、今回の『山田さんの鈴虫』は、ちょうど連作の真ん中あたりの作品ということになる。

基本的なスタイルは、第一作となった『貝がらと海の音』から変わっていない。

庭の野鳥や薔薇の花を愛でることが日々の楽しみで、毎夜、ハーモニカで唱歌を奏でては、妻と二人で「いい歌だなあ」「いい歌ですね」と喜び合う。

3人の子どもたちの家族と頻繁に行き来があり、孫のフーちゃんは「FJしんぶん」なる手紙を寄こし、近所の人たちとも楽しく交流する。

年に数回は宝塚観劇に出かけ、春と秋には大阪へ墓参り、時には伊良湖で温泉を楽しむこともあるが、相変わらず特別の事件は起こらないし、特別の問題提起も出てこない。

人物や地名や店名が実名で次々に登場するから、まるで日記のような私小説だと言われているが、夫婦の晩年シリーズの鉄則は「嫌な思い、不快な思いをしたことは書かない」ということ。

だから、『山田さんの鈴虫』にも、もちろん不愉快な話は一切なくて、庄野夫妻の楽しい思い、愉快な思い、満ち足りた思いだけが溢れている。

「そんな実生活があるものか」という指摘が聞こえてきそうだけれど、『山田さんの鈴虫』は日記ではなくて、あくまでも小説であり、フィクションである。

共感性羞恥の傾向が強い人にも安心して読むことができるほど「不愉快なことがまったく起こらない」という夢のようなファンタジーストーリーこそが、庄野さんの「夫婦の晩年シリーズ」のアイデンティティと言えるだろう。

『山田さんの鈴虫』は、1998年9月から1999年8月まで、ほぼ1年間の庄野家の日常を描いた長編小説だが、初出は「文學会」2000年1月号から12月号なので、実生活とは1年以上のタイムラグがある(本作の中で、フーちゃんは中学校へ進学しているが、連載終了時、実際には中学2年生になっていた)。

何もない穏やかな日常を平坦に綴っているように思えるが、やはり、それはフィクションだろう。

なぜなら「最終回を迎える1年後に、庄野家はどうなっているか」ということをすべて知った上で、著者は本作を書き始めており、「将来に不都合が生じる事柄については、絶対に書かない」ということが可能だからだ。

むしろ、不都合な事柄を排除するためにも、庄野さんは、結末を知った上で物語を書き始める必要があったかもしれない。

「自分の老い」と向き合っていた庄野さん

第一作『貝がらと海の音』の刊行から5年が経過しているが、初期の作品と比べると、口当たりが随分スマートになった。

『貝がらと海の音』や『ピアノの音』では、素材の触感を口の中でゴロゴロと味わうような印象があったが、『山田さんの鈴虫』では素材の触感は消えてエッセンスだけを味わっているような印象になった。

どちらが良いということではなくて、これは書き続けていく中で洗練されているということなのかもしれないし、若い女性を読者層として獲得していたことと関係があったかもしれない(1日あれば読み終えることができる)。

特別の事件は起こらないけれど、日常生活の些細な出来事の中で、庄野さんは自分の老いを確実に実感していたらしい。

買い物用の下げ袋をなくしてがっかりしたり、なくしたと思っていた眼鏡がシャツの内側に入っていたり、毎朝ルーティーンとなっている洗顔を忘れてしまったりといった「わざわざ書く必要のないこと(愉快ではないこと)」が書かれているのは、高齢となった庄野さんが自分の老いとしっかり向き合っていたからではないか。

楽しいことばかりの物語の中で、こうした「加齢にまつわる失敗話」は一層著者の高齢を意識させるが、生活の中の失敗を滑稽な笑い話として楽しむことのできた庄野さんだったから、あるいは、こうした失敗とも案外前向きに向き合っていたのかもしれない。

書名:山田さんの鈴虫
著者:庄野潤三
発行:2001/4/10
出版社:文藝春秋

ABOUT ME
みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。