読書体験

田中康夫「なんとなく、クリスタル」80年代初頭を生きるスノッブで裕福な女子大生の都市生活

田中康夫「なんとなく、クリスタル」80年代初頭を生きるスノッブで裕福な女子大生の都市生活

田中康夫「なんとなく、クリスタル」読了。

本作「なんとなく、クリスタル」は、1981年(昭和56年)1月に、河出書房新社から刊行された長篇小説である。

初出は、1980年(昭和55年)12月『文藝』。

この年、著者は23歳だった。

1980年(昭和55年)、第17回文藝賞受賞。

1981年(昭和56年)、第84回芥川賞候補作。

1981年(昭和56年)、かとうかずこ主演映画『なんとなく、クリスタル』原作小説。

なんとなく気分のいい、クリスタルな生き方

「なんとなく、クリスタル」なのではない。

「なんとなく」と「クリスタル」。

それが、新しい世代を象徴する言葉だった。

主人公(由利)は、青山学院大学(「七人の敵がいた」)の英文科へ通う、スノッブで裕福な女子大生だ。

モデルとしても活躍する彼女は、テニス同好会に所属していて、ファッションや音楽を楽しんでいる。

一緒に暮らしている恋人(淳一)は、医学部に通う大学五年生だが、既に定評あるフュージョン系バンドのキーボード奏者として活躍していた(「同棲」ではなく「共棲」)。

淳一がコンサート・ツアーへ出ているとき、主人公は、ディスコで出会ったばかりの男の子(正隆)と、なんとなくでセックスをしてしまう(「ユーミンのダンナ様として知られる、アレンジャーの松任谷正隆さんと、同じ字を書く」)。

「なんで、電話かけてきたの?」「なんとなく、会いたかったから……」「なんとなくか……」(田中康夫「なんとなく、クリスタル」)

明確な主義・主張があるわけではない。

お金持ちでスノッブな彼女は、ただ「なんとなく」で、十分に生活を楽しむことができた。

結局、私は ”なんとなくの気分” で生きているらしい。そんな退廃的で、主体性のない生き方なんて、けしからん、と言われてしまいそうだけれど、昭和三十四年に生まれた、この私は、”気分” が行動のメジャーになってしまっている。(田中康夫「なんとなく、クリスタル」)

それは、必死でなければ生き残ることのできなかった70年代までとは、明らかにフェーズの異なる生活様式だった。

「なんとなく」で生きていくことができる時代。

少なくとも、上流社会に属する一部の若者たちには、そのような余裕が定着しつつあったのだろう(バブル景気までには、もう少し間がある)。

サン・ローランやアルファ・キュービックを着こなし、ディオールのワンピースでディスコへ通い、ボート・ハウスやブルックス・ブラザーズのトレーナーを着て学校へ通う(もちろん、ニューヨーク・トラッドなスタイルが好み)。

ケーキを買うのは、六本木ルコントか銀座エクドールで、特別な日には、六本木イル・ド・フランスへフランス料理を食べに行く、女子大生の暮らし。

そこには、スノッブでトレンディなライフスタイルがあるが、主人公は「肩ひじ張って選ぶことをしたくない」と考えている。

無意識のうちに、なんとなく気分のいい方を選んでみると、今の私の生活になっていた。(田中康夫「なんとなく、クリスタル」)

彼女がブランドにこだわるのは、「それで気分がよくなるのならいいじゃないか」と思っているからだ。

新潮文庫版「あとがき」で、著者は次のように綴っている(初版単行本に「あとがき」はない)。

僕の場合は、「今までの日本の小説に描かれている青春像とは違う、皮膚感覚を頼りに行動する、今の若者たちが登場する小説を書きたい」というのが、モチーフであった。(田中康夫「なんとなく、クリスタル」あとがき)

そんな彼らの生活は、ホットでもクールでもない、新しい質感を伴うものだった。

クリスタルなのよ、きっと生活が。なにも悩みなんて、ありゃしないし……」(略)「クールっていう感じじゃないよね。あんましうまくいえないけど、やっぱり、クリスタルが一番ピッタリきそうなのかな!」(田中康夫「なんとなく、クリスタル」)

斎藤哲夫が「♪悩み多き者よ~」と歌った1970年(昭和45年)から、ちょうど10年。

あんなにも熱く激しかった若者たちは(なにしろ、学生運動の時代だ)、「なにも悩みなんて、ありゃしない」自分たちの生活を「クリスタル」と表現するようになる。

そこには、70年代前半のホットな高揚感もなく、70年代後半のクールなシラケ世代とも違う、新しいライフ・スタイルがあった。

社会が安定したことで、ゆとりある学生が、ゆとりある生活を送ることができるようになっていたのだろう。

しかし、彼らは、流行に流されて生きているわけではなく、盲目的にブランドに溺れているわけでもなかった。

向島を歩く時にブランド物を着ていくなんて、愚かしいことはしない。アメ横へは、太うねのコーデュロイ・パンツに、同好会のエンブレムのついたスタジアム・ジャンパーを着ていく。(田中康夫「なんとなく、クリスタル」)

主人公のスノビズムは、ブランドには縛られたくない、というスノビズムである。

イギリス製の食器や、スウェーデン家具でなきゃ、いやだなんてことは考えなかった。バッグだって、なるべくルイ・ヴィトンだけは避けたかった。特に不相応な生き方をしてみたいというのでもなかった。(田中康夫「なんとなく、クリスタル」)

彼女は、ブランドを選んでいるのではなく、気分のいい物を選んでいるだけだ。

ブランド物が気持ちよければ、彼らはブランド物を選ぶ。

会ったばかりの男の子(正隆)とセックスしながら、絶頂を迎えることがなかったのは、そこに「愛」がなかったからだ。

でも、正隆は、私の小さな丘を満足させてくれただけだった。高圧電流は最後まで流れてこなかった。(田中康夫「なんとなく、クリスタル」)

主人公が、ただの嫌味な女に成り下がっていないのは、スノッブでありながら、伝統的な価値観をも併せ持っているからだ(バブル期の80年代後半には伝統的な価値観は崩壊する)。

淳一と私は、なにも悩みなんてなく暮らしている。なんとなく気分のよいものを、買ったり、着たり、食べたりする。そして、なんとなく気分のよい音楽を聴いて、なんとなく気分のよいところへ散歩しに行ったり、遊びに行ったりする。二人が一緒になると、なんとなく気分のいい、クリスタルな生き方ができそうだった。(田中康夫「なんとなく、クリスタル」)

なんとなく気分のいい、クリスタルな生き方。

それが、作品タイトル「なんとなく、クリスタル」の正しい意味ということなのだろう。

三十代になった時、シャネルのスーツが似合う雰囲気をもった女性になりたい」と願う主人公は、今を刹那的に生きるのではなく、明日をも前向きに生きようとしている。

なんとなく気分のいい、クリスタルな生き方を携えたままで。

多くのブランド名によって修飾された現代社会

本作「なんとなく、クリスタル」の巻末には、442個の「注釈」が付されている(新潮文庫版では見開きの左ページに)。

単行本(初版)の場合、本文141ページに対し、注釈42ページで、全体での割合は注釈が1/4を占めている。

これは、ストーリーが表層的な物語を語っているのに対し、注釈が深層的な物語を語るという、二層構造を意味する。

例えば、淳一との同棲生活について、主人公は、70年代の古臭いイメージを否定してみせる(「松山千春や、アリスのカセットを二人で聴いちゃって、インスタント・カレーを食べたりしてさ」)。

「二人とも、そういう生活はいやだったのよ。このごろ、よくある小説みたいじゃない。そんな生活なんて息が詰まりそうで、すぐ破たんが来そうでしょ」(田中康夫「なんとなく、クリスタル」)

「このごろ、よくある小説みたいじゃない」には、注釈がある。

304●このごろ、よくある小説みたいじゃない 片岡義男さんや田中康夫の小説のことではありません。二人とも国債を買わないし、誰かさんみたいに文壇の貴公子面もしないから。(田中康夫「なんとなく、クリスタル」)

「文壇の貴公子」と呼ばれる島田雅彦は、当時、まだデビューしていないが(文壇の貴公子面って誰だ?)、こうした社会批判は、本作における注釈の重要な役割となっている。

365●恋も生きるためのビジネスだ ”私は結婚なんてバカらしくってしないわ、日本の男なんて、ちっともフェミニストじゃないんだもの” と粋がっている「キャリア・ガール」さんだって、セックスをしてくれる「日本の男」が一人はいるから、そういってられるのです。(田中康夫「なんとなく、クリスタル」)

主人公(由利)は、結婚を否定するキャリア・ウーマン志願者ではない。

二人が一緒になると、なんとなく気分のいい、クリスタルな生き方ができそうだった。だから、これから十年たった時にも、私は淳一と一緒でありたかった。(田中康夫「なんとなく、クリスタル」)

彼女は、結婚すると専業主婦になる旧来の女性でもなければ、仕事だけに生きたいと考えるキャリア・ガールでもなかった。

夫と二人で家庭を支える自立した女性──。

それが、なんとなく気分のいい、クリスタルな生き方を標榜する、主人公たちのライフ・スタイルではなかっただろうか(「三十代になっても、仕事のできるモデルになっていたい」「三十代になった時、シャネルのスーツが似合う雰囲気をもった女性になりたい」)。

ともすれば、本作『なんとなく、クリスタル』には、「カタログ小説」的なイメージがつきまとうが、作品中に登場する多くのブランドは、主人公たちの世代をイメージ化するために必要な形容詞にすぎない。

「なんと、すごかったぜ。スエードの、スカートでさ。ブラウスが、ロベルタなんだよね。胸も大きかったし、二十歳にしちゃ、女の香りがムンムンという感じでね、もう死にそうだったよ、あの娘には」(田中康夫「なんとなく、クリスタル」)

コンサート・ツアーから帰った淳一の言葉には、注釈がある。

382●スエードの、スカートでさ。ブラウスが、ロベルタなんだよね この服装描写だけで、肉感的な女の子だな、って思うでしょ。(田中康夫「なんとなく、クリスタル」)

個人的な嗜好やライフ・スタイルが反映されている以上、ブランドは個人を語る指標となり得る。

記号としてのブランドの可能性を最大限に追求した小説が、本作『なんとなく、クリスタル』だったと言っていいかもしれない(そこに、この物語の魅力がある)。

多くのブランド名によって修飾された現代社会の中で、現実の若者たちは生きていたからだ。

318●医大主催のディスコ・パーティー 二、三人の男の子にもて遊ばれた女子大生が、今度こそ、金持ちの医者の卵をつかまえようと殺到するパーティー。二十一世紀になれば、多くの医者なんて、技術屋さんになることも知らずに……。(田中康夫「なんとなく、クリスタル」)

本作『なんとなく、クリスタル』は、1980年(昭和55年)を瞬間的に描いた現代小説だが、その視点は未来へ向かっている(過去は相手にされていない)。

巻末に、人口問題審議会「出生力動向に関する特別委員会報告」や「五十四年度厚生行政年次報告書(五十五年版厚生白書)」が付されているのも、やがて訪れる少子・高齢化時代への警告である。

1979年(昭和54年)当時の合計特殊出生率は「1.77人」だった(令和5年で「1.20」)。

当時、政府は「出生率の低下は、今後もしばらく続くが、八十年代は上昇基調に転ずる可能性もある」と楽観的な展望を示しているが、この楽観的な空気の中で生きる若者たちの一人が、つまり、主人公(由利)だったのだろう。(小説がベストセラーになったことで、当時の女子大生を示す「クリスタル族」という流行語も生まれた)。

いつも、二人のまわりには、クリスタルなアトモスフィアが漂っていた。(田中康夫「なんとなく、クリスタル」)

80年代は、多くの文学が「新しい時代」や「新しい世代」「新しい青春像」を描こうとした(『1980アイコ十六歳』『優しいサヨクのための嬉遊曲』)。

60年代に夢見た未来とは異なる変革の時代が、80年代にやってきたのだ。

本作『なんとなく、クリスタル』は、80年代の幕開けを告げる青春小説である。

80年代青春文学の研究は、この作品から始めなければならないだろう。

書名:なんとなく、クリスタル
著者:田中康夫
発行:1985/12/20
出版社:新潮文庫

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。