三浦綾子「ひつじが丘」読了。
本作「ひつじが丘」は、1966年(昭和41年)12月に主婦の友社から刊行された長篇小説である。
この年、著者は44歳だった。
初出は、1965年(昭和40年)8月~1966年(昭和41年)12月『主婦の友』(連載)。
人を赦すことの難しさ
ラストシーンに、夏目漱石『三四郎』が登場する。
「先生。漱石の『三四郎』をお読みになって?」(略)「あの中に、迷える小羊(ストレイシープ)という言葉が出てきますわね」「ああ、美禰子がいくどか三四郎の前でつぶやいた言葉ですね」「ええ、そうですわ。今こうしてひつじが丘に来て、沢山の羊を見ていますと、ストレイシープという言葉が思い出されてなりませんの」(三浦綾子「ひつじが丘」)
主人公(奈緒美)の言葉を聴いて、竹山は、改めてひつじが丘を眺めやった。
「迷える小羊か!」竹山はつぶやいて、背を柵にもたせた。丘を越えて赤い観光バスが土埃をあげながら、近づいてきた。セーラー服の少女たちが、三台のバスから降りてくるのを竹山はじっと見ていた。(三浦綾子「ひつじが丘」)
この物語は、主人公(広野奈緒美)たちが、高校生だったところから始まる。
そして、高校を卒業した彼女たちを中心として、人間が、いかに「ストレイ・シープ(迷える小羊)」であるかということを描いてゆく。
例えば、若き高校教師(竹山哲哉)がそうだ。
かつての教え子(奈緒美)を愛し、彼女が自分の友人である新聞記者(杉原良一)と結婚して人妻となった後にも、奈緒美をあきらめることができなかった。
たとえ、良一の妹であり、奈緒美の友人でもあった、かつての教え子(杉原京子)から結婚を期待されていたとしても。
竹山の心の底には、奈緒美が住みついていた。奈緒美は人妻であり、諦めなければならない存在だということは知っていた。だが、いつの間にか、ふっと奈緒美のことを思っている自分を、竹山は偽ることができなかった。(三浦綾子「ひつじが丘」)
竹山の心は、奈緒美と京子との間で揺れ動き続ける(ストレイ・シープだ)。
竹山の心を占めているのは奈緒美であった。竹山の心はいつも、奈緒美にむかって愛を告白し、愛を求めていた。幻の奈緒美を竹山はかきいだき、愛撫していた。それは既に心の中に姦淫することであった。(三浦綾子「ひつじが丘」)
奈緒美の父親(広野耕介)が運営する北七条教会へ通い始めた竹山は、「姦淫するなかれ」という言葉から逃れることができない自分自身に傷ついていた。
もちろん、本作『ひつじが丘』で最大のストレイ・シープは、奈緒美の夫(杉原良一)である。
「ぼくはワイフ以上の美人はないと思っていたんです。しかし、あなたは奈緒美とはまたタイプのちがった艶のある美人だ」(三浦綾子「ひつじが丘」)
散々、女遊びを繰り返してきた末に、強引に奈緒美と結婚した良一は、奈緒美や京子の同級生(川井輝子)とも肉体関係を持つ。
酒に溺れ、東京の大学へ通う輝子から送られた金で酒を飲み、朝帰りを繰り返した。
学生時代に共産党員だった良一は、警察の拷問を恐れて党を抜けた過去を持つ。
「それから、ぼくは飲まずにはいられなくなってしまってね。いつも、俺は裏切者だ、俺は裏切者だと思うようになってしまった。こんなぼくでも、もし君が好きになってくれるなら、ぼくは生まれ変わることができるかもしれない」(三浦綾子「ひつじが丘」)
絵を愛し、芸術の道を志しながら、酒と女に溺れて良一は、まともに絵筆を持つことさえできなかった。
良一は信仰について考えたことはない。そんなものが必要だと思ったことはない。良一にとって必要なのは絵と女と酒だった。(三浦綾子「ひつじが丘」)
本作『ひつじが丘』は、そんな良一の再生を描いた物語でもある(もちろん、更生するということは、そんなに簡単なことではない)。
クリスマス・イブの夜、輝子へ別れを告げるために出かけたまま、永遠に帰ることのなかった良一が遺したものは、描きあげられた一枚の絵だった。
十字架にかかったキリストから、血がしたたり落ちていた。その十字架の下にキリストの血を浴びてじっとキリストを見上げている男の顔、それはまぎれもなく良一の顔ではなかったか。(三浦綾子「ひつじが丘」)
強く信仰を拒んでいたはずの良一が、十字架に祈る自分の姿を完成させた(「立派な……信仰告白だ」)。
破滅した生活から再生することの難しさが、ここにはある。
同時に、それは、何人にも再生の可能性が残されていることを示したものでもあっただろう。
女子校を卒業して、短大で学ぶようになったばかりの奈緒美に、良一の本性を見抜くことはできなかった。
「教会の人なら信用して、教会の外の人なら信用しないのね、おとうさん。神さまは善人にも悪人にも太陽を照らして下さるわ。たとえ良一さんが悪くても、悪い人ほど愛されなければいけないんじゃない? おとうさん」(三浦綾子「ひつじが丘」)
牧師の家庭に生まれたことを受け入れられず、信仰から距離を置きがちだった奈緒美は、両親への反抗から家を飛び出し、函館の街で良一と暮らし始める。
せめて、真新しい布団の上でと願う奈緒美を、圧しつぶすように良一は倒した。熱を出した体とも思えなかった。「ああっ」痛みに耐えかねて声をあげた奈緒美は、その時思いがけなく竹山の顔が目に浮かんだ。(三浦綾子「ひつじが丘」)
暴力で犯されて良一の妻となった奈緒美は、孤独な生活を送った。
自分の人生を、一体何の目的で生きているのかと、奈緒美は自分の足もとに目を落とした。歩きまわった靴のよごれが目についた。その靴は、今の自分自身を象徴しているように、奈緒美には思われた。(三浦綾子「ひつじが丘」)
奈緒美が、誤った道を歩もうとしていることを、牧師である父(耕介)は、体験的に見抜いていたのかもしれない(「特に若いうちは、人を買いかぶって、すぐ夢中になるものだ」)。
「まあ、ひどいわ、おとうさん。わたしだって、人一人ぐらい愛することができるわ」「そうかね。愛するとは、ゆるすことでもあるんだよ。一度や二度ゆるすことではないよ。ゆるしつづけることだ。杉原君をお前はゆるしきれるかね」(三浦綾子「ひつじが丘」)
「愛するとは、ゆるすことでもあるんだよ。一度や二度ゆるすことではないよ。ゆるしつづけることだ。」という父の言葉は、そのまま、この物語のテーマとなっている。
そして、主人公(奈緒美)は、酒と女に溺れて自分を裏切り続ける夫(良一)を、赦し続けなければならない。
「そうですよ。人間っていやなものですよ。でも、自分もその人間の一人なのよ。おとうさんのようなまじめな人でさえ、過失を犯したということで、人間って弱いものだとつくづく思いましたよ」(三浦綾子「ひつじが丘」)
父(耕介)には、かつて、母(愛子)の実姉と不倫するという間違いを犯した過去があった。
すべてを知りつつ二人を赦したのは、愛子である。
「奈緒美。人間は過ちを犯さずに生きていけない存在なんだよ。神ではないのだからね。同じ屋根の下に暮すということは、ゆるし合って生きてゆくということなんだ」(三浦綾子「ひつじが丘」)
しかし、若すぎる奈緒美は、自分の知らないところで、輝子へ愛の言葉を語り、肉体関係を持ち、金まで恵んでもらっていた夫(良一)を、簡単には赦すことができなかった。
「奈緒美、お前自身、幾度も幾度も人にゆるしてもらわねばならない存在なんだよ」(三浦綾子「ひつじが丘」)
すべてが終わったとき、ひつじが丘で、奈緒美は、「ストレイ・シープ」という言葉に、自分自身の姿を重ね合わせていたのだろう。
迷える小羊は、つまり、主人公(奈緒美)自身のことだったのだ。
本作『ひつじが丘』は、結婚に誤った女性の、再生物語である。
それは、赦し続けることの難しさを描いた物語でもあった。
我々は、どこまで赦し続けなければならないのだろうか。
それは、我々はどこまで赦し続けてもらえるのか?ということでもある。
昭和20年代の札幌を描く
本作『ひつじが丘』は、昭和20年代の札幌を舞台とした物語である(物語は昭和24年から始まっている)。
札幌の人々は、京子たちの学校を北水女子高校と、正規の名前では呼ばず、もう長いことリラ高女と呼んでいた。リラの木が多かったからである。(三浦綾子「ひつじが丘」)
「北水女子高校」のモデルとなっているのは、「北星女子高校」である。
「札幌の木」として知られるライラック(リラ)は、1890年(明治23年)に、スミス女子校(後の北星女子高校)の創設者(サラ・クララ・スミス)が、アメリカの自宅から持ち帰ったものが最初だと伝えられていて、現在も、北星女子高校の庭には、多くのライラックが花を咲かせている。
北星学園の古いライラックは戦時中に伐採されてしまったが、北大植物園に植えられたものが、今も残存しており、「北海道最古のライラック」として親しまれている。
二人はだまってアカシヤの並木通りを歩いて行った。アメリカ兵が街にあふれていた。アメリカ兵のまわりだけが、陽気で活気に満ちているように見えた。(三浦綾子「ひつじが丘」)
昭和20年代、札幌の街にも、進駐軍があふれていた(「大きなアメリカ兵に、日本の女がぶら下がるようにして過ぎて行った」)。
「アカシヤの並木通り」とあるのは、「北一条通り」(いわゆる「表参道」)のことだと思われる。
西1丁目から西19丁目にかけて、北一条通りにニセアカシアの並木が植えられたのは、1916年(大正5年)のことで、昭和63年には、「さっぽろ・ふるさと文化百選」にも選定された。
北原白秋が作詞した童謡「この道」は、北一条通りがモデルだという説もある(♪この道はいつかきた道、ああ、そうだよ、あかしやの花が咲いてる~)。
二人は駅前通りへ出た。「あら、アカシヤの花が咲いているわ」「ほんとうだ、もう咲いているんだね。今年は早いんじゃないかなあ」二人は人の波にもまれながら、白いアカシヤの花を見上げていた。(三浦綾子「ひつじが丘」)
札幌駅前通りのアカシヤ並木は、石川啄木も絶賛したものだ(小説『札幌』ほか)。
改札口から広場に出ると、私はちょっと立停って見たいように思った。道幅の莫迦に広い停車場通りの、両側のアカシヤのなみきは、蕭条たる秋の雨に遠く遠く煙っている。(略)(石川啄木「札幌」)
高度経済成長期、現代的なオフィス街へと生まれ変わった札幌駅前通りに、かつての面影はない。
本作『ひつじが丘』は、1965年(昭和40年)に連載開始されているが、昭和20年代を舞台として選んだのは、あるいは、美しき札幌へのノスタルジーからだったのだろうか。
六月十四日は、札幌神社の宵宮祭である。夕食を終えて町へ出た奈緒美は、久しぶりに京子に電話をかけた。(三浦綾子「ひつじが丘」)
「札幌神社」が、現在の「北海道神宮」へと改称されたのは、1964年(昭和39年)のこと。
高度経済成長期は、様々な場面で、札幌が変貌した時代だった。
二人は、明るい店のつづく狸小路を人の波にもまれながら歩いた。「ぼく、コーヒーよりビールを飲みたいな。ビールは札幌祭りの頃から、うまいんだ」(三浦綾子「ひつじが丘」)
「ビールは札幌祭りの頃から、うまいんだ」という、良一のセリフがいい。
狸小路は、今、インバウンド(外国人観光客)による人の波でいっぱいだ。
奈緒美は事務所のすぐ近くの狸小路を歩いていた。狸にばかされて、つい買い物をしてしまうといわれる、札幌随一のこぎれいな商店街である。仲通りをはさんだ両側に、食堂、菓子屋、果物屋、時計屋、呉服屋、洋品店、そして映画館、パチンコ屋などが、数町ぎっしりと並んでいる。(三浦綾子「ひつじが丘」)
狸小路は「札幌随一のこぎれいな商店街」として登場している。
戦争中は応召されていた鈴蘭灯が復活するのは1949年(昭和24年)なので、この小説に出てくる狸小路は、ちょうど、戦後の鈴蘭灯が復活した頃だったと思われる。
なお、狸小路のアーケードは、1958年(昭和33年)以降に設置されたもので、『ひつじが丘』の時代には、まだなかった。
二人は、喫茶店「エルム」の前に通りかかった。「のどがかわいたわ。入らない?」奈緒美は先に立って、「エルム」の店に入って行った。(三浦綾子「ひつじが丘」)
本作『ひつじが丘』では、喫茶店の描写が多い。
二人は、狸小路の人ごみから外れて、紫烟荘に入った。落ちついた小さな店である。若い男女が幾組も、ひっそりと、すわっていた。「ここ、はじめてよ」「この店はコーヒーがうまいんですよ」(三浦綾子「ひつじが丘」)
和田義雄『札幌喫茶界昭和史』に、「紫烟荘」の記述がある。
ウララ(麗)から白百合そして紫烟荘(昭和七年)と転じ、南三条西四丁目のその店は一度は人手に移って”花柳”という高級呉服の店になっていたが、これを買い戻して再び紫烟荘を開店した。(和田義雄「札幌喫茶界昭和史」)
「紫烟荘」が姿を消したのは、1969年(昭和44年)、やはり、高度経済成長期のことだった。
「そこで、久しぶりにお茶でも飲みましょうか」奈緒美は近くのポプラという喫茶店を指さした。(略)うす暗い喫茶店の中に客が何組か、ひっそりとすわっていた。「暗いのねえ」アベック専門の喫茶店のようだと、奈緒美は店の中を見まわした。(三浦綾子「ひつじが丘」)
南2条西5丁目にあった「ポプラ」は、「暗いホールで、どこか退廃的な感じがした」と、『札幌喫茶界昭和史』に書かれているが、1959年(昭和34年)に経営者が替わった後は、明るく、健康的な店になったらしい。
京子からの電話で、奈緒美が喫茶ニシムラに出かけたのは、八月も末の肌さむいような夕暮れであった。ニシムラは戦前から洋生(ようなま)で有名な店で、喫茶と食事の部も経営している。奈緒美の父は、この店の主人西村久蔵と親交があった。西村久蔵は賀川豊彦と共に、引揚者のために江別にキリスト村を拓いたり、信者や牧師のためにその生涯をささげてきた大樹のようなクリスチャンであった。(三浦綾子「ひつじが丘」)
西村久蔵は「札幌北一条教会」と深い関わりのあった人物であり、作中「北七条教会」のモデルが「北一条教会」であったことを窺わせる。
なお、西村久蔵は1953年(昭和28年)に他界しており、本作『ひつじが丘』は、西村久蔵が存命だった最後の時代を描いたことになる。
奈緒美は植物園の入口で入園券を買った。一歩中に入ると、街の真中にいることが嘘のように思われた。広い芝生も、何百年の樹齢を持つドロやエルムも、曇った空の下に、しっとりと沈んだみどり色を見せている。(三浦綾子「ひつじが丘」)
札幌市民にとって、北大植物園は、今よりももっと身近な存在だった。
昭和の時代、札幌の観光ガイド的な小説には、必ずと言っていいほど、植物園が登場している。
それは、まさしく、都会の中のオアシスだったのだろう。
札幌近郊の描写にも触れておく必要がある。
二時間後に奈緒美はオタモイ岬に一人来ていた。四方がガラス張りの大きな食堂である。(略)海岸の小高い崖の上に建っている、このガラス張りの食堂にいると、奈緒美は海の中に浮かぶ小島にいるような感がした。(三浦綾子「ひつじが丘」)
今からでは信じられないが、かつて、オタモイ岬は「オタモイ遊園地」として賑わった行楽地である。
「四方がガラス張りの大きな食堂」とあるのは「龍宮閣」のことだが、「龍宮閣」は、1952年(昭和27年)、火災によって消失した。
ここにも、著者は「失われた昭和20年代」を書き残しているのだ。
竹山と京子が支笏湖の話をしていた。支笏湖は奈緒美の知らない湖である。「支笏湖でキャンプをしたいわ。ね、奈緒美さん」(三浦綾子「ひつじが丘」)
若者たちがキャンプの話をしているのは、1949年(昭和24年)に「モラップ野営場」(現在の「モーラップ野営場」)が開設されたことを意味している。
ちなみに、「ポロピナイ野営場」と「オコタン野営場」は、1961年(昭和36年)開設。
1995年(平成7年)公開の映画『キャンプで逢いましょう』(主演は後藤久美子、主題歌は松任谷由実の「Midnight Scarecrow」)のロケ地となった「国設美笛野営場」は、1977年(昭和52年)に開設された。
最後に、函館について。
奈緒美の夫(良一)は、函館支社へ転勤になっており、二人の結婚生活は、函館から始まったものだった(やがて、奈緒美は、札幌の実家へ戻ってきてしまうが)。
良一の下宿は、函館山のふもとの蓬莱町にあった。蓬莱町は石川啄木の住んでいた青柳町のすぐ隣りで、料理屋の多い街である。豪商、高田屋嘉兵衛の像が立っているだらだら坂を登った左手に、良一の下宿はあった。(三浦綾子「ひつじが丘」)
札幌に比べて、函館市内の描写は少ない(というか、ほとんどない)。
著者は、なぜ、二人の結婚生活を、函館に設定しなければならなかったのだろうか。
理由は、おそらく「石川啄木」にある。
「女にはだらしがない。経済観念はゼロ、その上大酒飲みだ」と竹山が考えている杉原良一には、石川啄木の姿が重ね合わされている節がある。
良一の「芸術のためには家族を犠牲にすることもやむなし」といった生き方は、まさに、石川啄木に学んだものではなかったか。
函館で、石川啄木は「函館の青柳町こそかなしけれ/友の恋歌/矢ぐるまの花」という歌を詠んだ(函館公園に歌碑あり)。
クズ男の代表選手のような歌人(石川啄木)が、このように素晴らしい歌を残していることは、驚異以外の何ものでもない。
あるいは、著者は、石川啄木のようなクズ男でさえも、「赦されるべき存在」だと考えていたのだろうか。
誰かに裏切られたときは、三浦綾子の『ひつじが丘』を読みたい。
我々は、どこまで人を赦すことができるのか。
それは、我々自身に突きつけられた永遠の課題でもあるのだ。
書名:ひつじが丘
著者:三浦綾子
発行:1980/09/15
出版社:講談社文庫