渡辺淳一「阿寒に果つ」読了。
本作「阿寒に果つ」は、1973年(昭和48年)11月に中央公論社から刊行された長篇小説である。
この年、著者は40歳だった。
初出は、1971年(昭和46年)7月~1972年(昭和47年)12月『婦人公論』(連載)。
1975年(昭和50年)公開の五十嵐じゅん主演映画『阿寒に果つ』原作小説(主人公役は三浦友和だった)。
劇場型の人生を演じた悲劇のヒロイン
本作『阿寒に果つ』は、渡辺淳一の代表作でありながら、「不幸な小説」としての宿命を背負った作品である。
なぜなら、『阿寒に果つ』は、小説よりも、小説の登場人物(というか、実在モデル)を中心として語られることの多い作品だからだ。
舞台は、戦後間もない1950年(昭和25年)の札幌市。
主人公(田辺俊一)は、札幌南高校の2年生で、ヒロイン(時任純子)は、主人公の同級生だった。
私の家は市の南西の山に近い所にあったので、第一高校から南高校と改められた学校へそのまま通うことになり、時任純子は道立札幌高等女学校から、彼女の家のすぐ前の南高校へ移ってきた。(渡辺淳一「阿寒に果つ」)
高校卒業を目前にして、時任純子が失踪する。
雪のなかの足跡は、なお二日、私の部屋の下に残っていたが、三日目、明方からの雪で消えてしまった。”天才少女画家阿寒で自殺か” という記事が新聞に出たのは、それから十日経った一月の末であった。(渡辺淳一「阿寒に果つ」)
それから20年後、作家となった主人公は、初恋の少女(時任純子)の自殺の理由を解明するため、当時の関係者たちに取材を開始する。
本作『阿寒に果つ』は、ドキュメンタリータッチの色濃い構成が特徴の長篇小説である。
当時、純子と関係した男たちの証言から導き出されるのは、いかに、彼らが、純子にとって道化(ピエロ)であったか、ということだ。
妻子ある中年画家(浦部雄策)は、その象徴と言っていい。
「好きだよ」浦部はいま、自分の腕のなかにいるのは、一人の成熟した女だと思った。もはや弟子でも小娘でもない。自分が恋いこがれ、求めていた女だった。(渡辺淳一「阿寒に果つ」)
16歳の女子高生に欲情し、「処女を奪う」という感動に奮える浦部は、明らかに狂った中年男だ。
ドストエフスキー『罪と罰』に登場するエロ男(スヴィドリガイロフ)にも通じる、グロテスクな男女関係が、そこにはある。
「要するに、肉体年齢と精神年齢のグロテスクな違いってやつに、獣欲をそそられているわけだ! そんな結婚、本気でなさるおつもりなんですか?」(ヒョードル・ドストエフスキー「罪と罰」亀山郁夫・訳)
純子の肉体に狂った浦部も、また、結婚することによって少女の肉体を独占したいと夢想するようになる(完全にとち狂っているが)。
純子の姉(時任蘭子)の恋人でありながら、純子と肉体関係を持つ新聞記者(村木浩司)といい、釧路警察署に収監された際に、純子から保釈金を受け取ったカメラマン(殿村知之)といい、時任純子に群がる男たちは、みな精神的にダラシない(いい年をした大人たちばかり)。
いくら、早熟な天才少女画家といっても、もう少し相手の男を精選することができなかったものか。
純子は、まるで自分を消耗させるために、男たちと付き合っていたように見える。
「私は純ちゃんは本当は恋をしていたというより、むしろ恋に憧れていたのではないかと思うのです。憧れていたというより、飢えていたといったほうがいいかもしれません」(渡辺淳一「阿寒に果つ」)
唯一、肉体関係を持たなかった医師(千田義明)でさえ、純子とキスをしたと明かしている。
あるいは、純子にとって男たちとの関係は、自分の才能を成熟させるための糧に過ぎなかったのかもしれない。
純子に夢中になった男たちが滑稽に見えるのは、純子は「恋愛さえも求めていなかった」のではないかと思われるからだ。
最後に、実の姉(時任蘭子)が登場する。
「初恋だから傷が深かったのだと思います。でもあの人が本当に好きだったのは自分一人」「一人……」と私は同じようにつぶやいた。「自分以外に、好きだった人なんかいないわ」自分にいいきかせるように蘭子は一人でうなずいた。(渡辺淳一「阿寒に果つ」)
姉(蘭子)は、妹(純子)の分身としての立場から、彼女流の謎解きを披露したに過ぎない。
結局のところ、自殺した者の謎を解くことは、物語の謎を解くよりも、ずっと複雑で難しいことだったのだ。
蘭子は歌うようにいった。「あの人は誰のものでもない。あの人はあの人だけのところに自分一人でさっさといってしまったんだわ」(渡辺淳一「阿寒に果つ」)
天才少女画家と呼ばれ、世間の注目を集めた女子高生(時任純子)は、最後まで劇場型の人生を生きた。
妻子ある中年男との恋愛ごっこも、冬の阿寒湖での自殺も、彼女にとってすべては演技に過ぎなかったのだ、自分の人生を華やかに彩るための。
あるいは、純子は、戦後という混乱した時代の落とし子だったのかもしれない。
天才少女画家「加清純子」
当時、札幌南高校には、札幌在住のSF作家(荒巻義雄)も在籍していた。
加能純子……。この名にかすかな記憶があった。いや、いまはっきりと、その部分の記憶がよみがえってきた。白樹がまだ高校生の頃だったとき、クラスにいた女学生の名前だった。彼女は白樹の高校のヒロイン的存在だった。(荒巻義雄「白き日旅立てば死」)
「加能純子」が登場する『白き日旅立てば死』は、1972年(昭和47年)に刊行された書き下ろし長篇小説である。
作者(荒巻義雄)は、作品の中で、純子の思い出を振り返っている。
ある早春の日、とつぜん死んだ彼女。ある妻子のある東京の画家との恋愛事件を精算するために、雪の山中で服毒自殺をとげたと噂されていた。(荒巻義雄「白き日旅経てば死」)
『阿寒に果つ』に登場する「時任純子」や、『白き日旅立てば死』に登場する「加納純子」は、かつて実在していた少女がモデルとなっていた。
彼女の名前は「加清純子」。
2019年(平成31年)と2022年(令和4年)に、北海道立文学館で特別展『よみがえれ!とこしえの加清純子』が開催されて、大きな話題を呼んだ。
「天才少女画家」と言われた加清純子(かせい・じゅんこ、「かせ」とも 1933-52)は1951年まで公募展に絵画を積極的に出品していたが、同年秋からは新たに誕生した「青銅文学」に参加、「少女作家」としても優れた才能を見せた。(図録『よみがえれ!とこしえの加清純子』)
『よみがえれ!とこしえの加清純子』は、定評ある絵画作品と同時に文学作品にもスポットを当てて、自殺した「天才少女画家」を、総合的に再評価しようとする展覧会だった。
図録では、純子の人間関係についても、詳細に整理されている。
父親(加清保)は、札幌市内の小学校長や教育委員を務めた教育者で、北海道童話会会長として、1946年(昭和21年)には童話雑誌『ひばり』を創刊している。
厚田村生まれの母親(テル)の兄(甚一)は、後に創価学会第二代会長(戸田城聖)となった。
戸田城聖は、厚田村出身の作家(子母澤寛)の支援者としても知られている。
純子の兄(加清準)は、後の戦場写真家(岡村昭彦)の親友で、北海道大学時代には学生運動にも参画していたという。
釧路へ着いて仮通夜となったが、ちょうど午前二時、電話と告げられて受話器を取った。「兄貴すまぬ。これから釧路へ走る。俺がつくまで火葬にしないと約束してくれ。逢って詫びない限り俺は生きれない」血を吐く様な低い声が耳を打った。(加清準「走れ!メロス」)
ベトナム戦争を撮った岡村昭彦(『阿寒に果つ』に登場するカメラマン「殿村知之」のモデル)は、純子を「妹」と呼び、準を「兄貴」と呼んでいたらしい。
純子の姉(加清蘭子)は、俳句誌『青炎』などで活躍した詩人で、上京後には「青蛾書房」を起業した。
純子の弟(加清鍾)は、「暮尾淳」の筆名で活動した詩人で、詩集『地球(jidama)の上で』(2013)で、丸山薫賞を受賞している。
暮尾淳のエッセイ「天才少女画家抄」には、当時の『北海道新聞』の記事が引用されている。
「釧北峠で凍死体となって発見された札幌市南十七西五、当時札幌南高校三年生加清純子さん(一九)の遺体に会うために雪におおわれた十五里の山道を現場に着いた保釈中のニセ医者岡村昭彦(二五)は、純子さんの死顔を見ることも許されず、十六日午後兄準氏に守られた遺体が釧路に運び去られたあともなお湖畔にとどまって ”純子は可哀相な奴だった” と口走り、地元の人達の同情を集めていた」(暮尾淳「天才少女画家抄」)
純子の死に顔を見ることのできなかった岡村昭彦は、棺に向かって「人間の心を踏みにじる権力者の手先、奴らを、純子! いつまでも呪い続けろ」と叫んだという。
『白き日旅立てば死』の作者(荒巻義雄)は、『北海道新聞』連載の「わたしのなかの歴史(人生はSFだ)」でも、純子の思い出を綴っている(2012年)。
同期のマドンナが、在校中に阿寒で命を絶った少女画家の加清純子さん。渡辺さんの小説「阿寒に果つ」のヒロインであり、私の初の長編SF「白き日旅立てば死」に登場する加能純子のモデルでもあります。(荒巻義雄「わたしのなかの歴史(人生はSFだ)」)
高校時代の同期には、渡辺淳一のほか、伊藤隆一(北海道デザイン協議会会長)や竹山実(建築家)がいたというから、さすがに、札幌南高校という感じがする。
渡辺淳一は、エッセイ「私がもらったラヴレター」で、純子がいた時代を振り返った。
もしかすると、彼女は恋をしながら、恋をする自分に酔っていたのかもしれない。いま、これらの手紙はセピア色に褪せた原稿用紙のまま、札幌にあるわたしの文学館に、彼女の死を予感させる自画像とともに、展示されている。(渡辺淳一「私がもらったラヴレター」)
「札幌にあるわたしの文学館」は、中島公園の隣に立つ「渡辺淳一文学館」のこと(建築家 ・安藤忠雄が設計した)。
『わがいのち「阿寒に果つ」とも──遺作画集』(1995)にも、渡辺淳一のエッセイが収録されている。
『わがいのち「阿寒に果つ」とも──遺作画集』は、加清純子の作品をまとめた、最初の書籍だった。
「死に顔の最も美しい死に方はなんであろうか」この冒頭の一行を見ただけで、いまから十七年前、この小説を書こうとしたときの心のたかぶりと、意気ごみを思い出す。(略)すでに高校生にして、このコケティッシュとナルシシズムと奔放さを兼ねそなえて、生き急いだ小悪魔をどのように描き出すか。それが問題であった。(渡辺淳一「少女へのレクイエム」)
『阿寒に果つ』で「宮川怜子」として登場する鶴田玲子(旧姓・皆川玲子)は、俳句雑誌『壺』で活躍した俳人である(句集『鶴居村』で第34回角川俳句賞を受賞)。
札幌の街には、まだ石炭を運搬する馬車が往きかっていた。雪の降りしきる夜、二人連れの刑事が私の家へ来た。玄関に立ったまま「純子さんが来ていますか」と言った。マントを着た純子が、南十一条の通りを歩いていた、と情報が入ったのだという。(鶴田玲子「純子さんのこと」)
鶴田玲子の回想録としては、俳誌『壺』に発表された「青春回廊」がいい。
純子はよくこんなことをいった。「教室にいたら教室の中で、一番好きな人に焦点を合わせるの。廊下では廊下で、向うから歩いてくる人に。電車の中でも、どこでもよ」(鶴田玲子「青春回廊」)
ひとつ言えることは、加清純子は、多くの人々に鮮やかな記憶を残して死んでいった、ということだろう。
つまり、彼女の短いけれども華やかな人生は、ある意味で、成就していたということだ。
小説『阿寒に果つ』は、女子高生に踊らされた男たちの、悲しい喜劇には違いない。
そこから浮かび上がってくるものは、どれだけ多くの男たちと関係を持っても、癒されることのなかった少女の孤独である。
リア充のようで、実際は誰よりも孤独だった女子高生の空虚な青春が、そこには描かれている。
誰もが生きるだけで精一杯だった戦後社会の中で、彼女はまるで殉教者のように埋もれていったとは言えないだろうか。
書名:阿寒に果つ
著者:渡辺淳一
発行:2008/08/30
出版社:扶桑社文庫