庄野潤三「文学交友録」読了。
本作『文学交友録』は、1995年(平成7年)3月に新潮社から刊行された文学的自叙伝である。
この年、著者は74歳だった。
初出は、1994年(平成6年)1月~12月『新潮』(連載)。
収録作品(目次)は次のとおり。
一 ティペラリー
二 十月の葉
三 伊東静雄
四 島尾敏雄・林富士馬
五 「雪・ほたる」
六 佐藤春夫
七 藤澤桓夫・長沖一・『反響』のころ
八 三好達治・阪田寛夫
九 吉行淳之介・安岡章太郎・近藤啓太郎
十 福原麟太郎・十和田操・坂西志保
十一 井伏鱒二・河上徹太郎・中山義秀
十二 小沼丹・庄野英二
作家になるまでの軌跡
庄野潤三『貝がらと海の音』(1996)に、本作『文学交友録』が登場している。
妻はそのかたくりの花をウイスキーグラスに活けて、炬燵の上に置く。三月の末に出た『文学交友録』の表紙がかたくりの花なので、よろこび、ウイスキーグラスの花を眺める。実物のかたくりの花を見るのは、これがはじめて。うれしい。(庄野潤三『貝がらと海の音』)
庄野さんの子どもたちは、みんな、この本を読んでいるが、とりわけ、長女(今村夏子)の夫(今村邦雄)の感想がいい。
東南アジアの出張旅行から帰ったトウさんは飛行機の中で『文学交友録』を読んで感動したそうですといい、その感想を一つかきとめてある。「こういう本がどんどん売れないようでは日本もおしめえだな」(庄野潤三『貝がらと海の音』)
もちろん、父の作品に対する長女の思い入れは、誰よりも強いものだったに違いない。
「一年間、こんなに気力を集中して書き続けて来られたのは、本当にすごいですね」「きっと売れに売れて嬉しい悲鳴が上る予感がします」(庄野潤三『貝がらと海の音』)
もっとも、庄野さんは「当方は間違っても自分の本が「売れに売れて嬉しい悲鳴が上る」ようなことになりっこないことは承知している」と、あっさりしたものだ。
作家をめぐる家族の様子が、こんなにも赤裸々に(しかも淡々と)綴られている小説というのは、かなり珍しいのではないだろうか(それが、庄野文学の大きな特徴のひとつとなっているのだが)。
さて、本作『文学交友録』は、文学的に関わりを持った人々について書かれた、庄野潤三の回顧録である。
多くのエピソードが、小説や随筆の中で既出のものとは言え、庄野文学のルーツを、こうして辿ることができるのはうれしい。
一番最初に登場するのは、1939年(昭和14年)に入学した大阪外国語学校英語部の吉本先生である。
私たち昭和十四年入学の四十人のクラスは、吉本先生の授業の第一日目に先ず驚かされる。というのは、吉本先生は、最初の授業で先ず私たちに「ティペラリー」を歌って聞かせてくれるのである。(庄野潤三「ティペラリー」/『文学交友録』)
「ティペラリー」は、第一次大戦の頃、イギリス軍兵士に愛唱された歌で、アイルランド共和国の首都ダブリンの西南あたりに位置する都市の名前であることは、単行本「あとがき」に記されている(本書を読んだ阪田寛夫が調べてくれた)。
吉本先生の家へ案内してくれたのは、住吉中学を定年退職した後、帝塚山中学で働くこととなる後藤泉先生だった。
吉本先生は、私の顔は見ないで、うれしそうに話しかける。ビールを一口飲むと、すぐに立ち上がって、階段のところまで行き、「おい、おい、山の神」と大きな声を出して、何だか持って来いという。(庄野潤三「ティペラリー」/『文学交友録』)
神戸を主題にした長編小説『早春』(1982)に登場する佐伯太郎も、大阪外語時代の級友である(竹久夢二の『小夜曲』を贈ってくれた)。
大阪外語では、上田畊甫の名前もある。
短編小説『相客』に出てくるガーディナーのエッセイ「A Fellow Trabeller」を読んだのは、上田先生の授業のときだった(『現代英国随筆選』)。
「A Fellow Trabeller」については、『相客』でも詳しく紹介されている。
ずっと後になって、私が「何でもないようなことのなかによろこびの種を見つけて、それを書いてゆくのが私の仕事だ」という気持になったのも、その始まりは上田先生の授業で読んだガーディナーの「ア フェロー トラヴェラー」であったといえるかも知れない。(庄野潤三「ティペラリー」/『文学交友録』)
『現代英国随筆選』には、チャールズ・ラムの研究家として知られているE・V・ルーカスの作品も掲載されていた。
ルーカスが、ラム伝を書き、書簡集を編んだ人物であることを、庄野さんは、福原麟太郎『チャールズ・ラム伝』で知るが、『陽気なクラウン・オフィス・ロウ』(1984)を執筆したとき、ルーカスの『チャールズ・ラム伝』は未読だった。
ルーカスの『チャールズ・ラム伝』があれば、『陽気なクラウン・オフィス・ロウ』も、さらに濃密な作品となっていたかもしれない(十分に濃厚な作品だが)。
これを書き上げたころに、私は或る方からルーカスの『チャールズ・ラム伝』を贈られた。(略)或る方というのは、小沼丹の教え子で、早大英文科で教えている大島一彦さんである。(庄野潤三「ティペラリー」/『文学交友録』)
大島一彦の著作にも、庄野潤三の名前は、時々登場している(『ジェイン・オースティン 「世界一平凡な大作家」の肖像』『小沼丹の藝 その他』)。
大阪外語時代の外国の教師では、グレン・ショウさんが印象深い。
ショウさんには「クレメンタイン」の歌を教わった。こちらの方は五十年たった今も、よく覚えている。(庄野潤三「十月の葉」/『文学交友録』)
飲み会で、庄野さんが必ず歌う「クレメンタイン」は、ここがルーツだった(こういうエピソードがいい)。
「十月の葉」「島尾敏雄・林富士馬」「『雪・ほたる』」は、自伝的長編小説『前途』のメイキング・オブ的な話が中心となっている。
「ラムというのはいい人で、『エッセイズ オブ エリア』という本がある。今はまだ無理だが、もし興味があるなら先で是非読みなさい」(庄野潤三「伊東静雄」/『文学交友録』)
庄野文学に大きな影響を与えたチャールズ・ラム『エリア随筆』を紹介してくれたのは、住吉中学五年のときの英語の受け持ち(中尾治郎吉)である。
庄野さんが師事する詩人(伊東静雄)も、住吉中学の国語教師だったが、二人が文学的な関わりを結ぶのは、大阪外語大へ進学してからのことだった(伊藤静雄との交流も、長編『前途』に詳しい)。
「雪・ほたる」は、これを読んで下さった伊藤静雄先生のすすめで、東京の林富士馬に送られ、先生の紹介の文章とともに翌昭和十九年「まほろば」三月号に掲載された。(庄野潤三「『雪・ほたる』」/『文学交友録』)
伊藤静雄との交友は、後に、三好達治との交流へとつながっていくことになる(後に登場)。
同人誌『まほろば』には、三島由紀夫も作品を発表していて、庄野さんとは、この頃からの知り合いだったが、あまり深い交友関係にはならなかったらしい(そりゃそうか)。
「雪・ほたる」の章では、後に短編小説となるエピソードも含まれている。
朝一番の列車で館山へ向った。母と妹が砲術学校に到着すると、私たち南方行きの少尉は今日、出発したあとだと知らされた。どうしてそうなったのだろう?(庄野潤三「『雪・ほたる』」/『文学交友録』)
千葉県館山の海軍砲術学校にいる主人公に会うため、大阪から上京した母と妹が、主人公と行き違いになってしまう話は、短篇「団欒」に描かれているものだ(『プールサイド小景所収』)。
後年『静物』を書く際に、重要な助言をもらうことになる佐藤春夫との初対面を案内してくれたのは、伊藤静雄門下で同門の林富士馬である。
そのすぐあとで、林富士馬がこんなふうにいった。「庄野君は、紅茶を飲みながらシュウクリームを食べるような、そんな小説を書きたいんだそうです」(庄野潤三「佐藤春夫」/『文学交友録』)
佐藤春夫は、『まほろば』に発表された「雪・ほたる」を称賛してくれたらしい。
「雪・ほたる」に関しては、藤澤桓夫(ふじさわ・たけお)の名前も出ているが、庄野さんと藤澤桓夫とは、今宮中学の野球部を通した交流があった。
私は生徒に頼まれて野球部長になった。このチームが強くなって、大阪府下で頭角を現し、昭和二十二年の春には、甲子園の全国選抜中等野球大会に天王寺中学とともに大阪代表に選ばれて出場することになった。(庄野潤三「藤澤桓夫・長沖一・『反響』のころ」/『文学交友録』)
野球の好きな藤澤桓夫は、母校の野球部の活躍にも、大きな関心を持っていたらしい。
初期の短篇小説が『文学雑誌』に発表されているのは、藤澤桓夫との関係によるものだ(「ピューマと黒猫」「銀鞍白馬」「兄弟」「十月の葉」)。
ウィリアム・サローヤン『わが名はアラム』(清水俊二・訳)を紹介してくれたのも、藤澤桓夫だった。
サローヤンを知ったことは大きかった。どういうふうに書いていいのか分らなくて困っていた私をサローヤンは元気づけてくれた。(庄野潤三「藤澤桓夫・長沖一・『反響』のころ」/『文学交友録』)
その『わが名はアラム』を譲ってくれたのは、放送作家の長沖一(ながおき・まこと)である。
長沖さんは私がサローヤンの『わが名はアラム』のことを話すと、僕は二冊持っているから上げるといって、一冊、下さった。今、私の本棚にある『わが名はアラム』は、長沖さんが下さったものだ。(庄野潤三「藤澤桓夫・長沖一・『反響』のころ」/『文学交友録』)
『反響』は、師・伊藤静雄の最後の詩集のタイトルである。
先生は私に短篇を書くとき、長篇小説の一部を書くつもりで書いたらどうか、襟を正して厳粛な気持で書くのが大事なのではありませんかといわれた。(庄野潤三「藤澤桓夫・長沖一・『反響』のころ」/『文学交友録』)
詩人の三好達治との交流は、伊藤静雄によってつながったものだった。
三好さんが亡くなられた次の日、東京のヒルトンホテルで福原麟太郎さんの芸術院賞と読売文学賞のお祝いの会があった。読売文学賞の方は、私も読んでいた福原さんの『チャールズ・ラム伝』に贈られたものであった。会場で井伏さんにあった。(庄野潤三「三好達治・阪田寛夫」/『文学交友録』)
三好達治と古い付き合いのあった井伏鱒二から詳しい道順を聞いて、庄野さんは、三好宅を弔問に訪れている。
共に人生を生きた仲間たち
後半には、庄野潤三が作家として交友のあった人々の名前が並ぶ。
生涯の盟友となる阪田寛夫は、大阪朝日放送時代の同僚だった。
「土の器」による芥川賞受賞の発表のあった晩、外出先の劇場で知らせを受けた本人から電話がかかった。いつも静かに話す彼の声がこのときは一層ピアニシモだった。長女は結婚していなかったが、家にいる子供が一人一人電話口でおめでとうをいったあと、みんなで受話器に向って万歳を唱えることにした。(庄野潤三「三好達治・阪田寛夫」/『文学交友録』)
芥川賞を受賞した翌年、庄野さんは、阪田寛夫からレコードを送ってもらう。
その年の七月に阪田からいいレコードを送ってもらった。東京少年少女合唱隊が吹き込んだ「新しい少年少女の歌」というので、作詞は全部、阪田寛夫。(庄野潤三「三好達治・阪田寛夫」/『文学交友録』)
以後、庄野さんの作品に繰り返し登場する童謡のレコードは、1976年(昭和51年)7月に、阪田寛夫から贈られたものだった。
「第三の新人」として、同世代的な関わりを持つことになる吉行淳之介や安岡章太郎とは、大阪朝日放送時代からの付き合いがある。
朝日放送時代には、私の担当している番組に掌小説といって七枚の短篇を書いてもらって朗読するのがあった。この番組で吉行に何度も書いてもらうようになった。吉行より少し遅れて知り合った安岡にも書いてもらった。(庄野潤三「吉行淳之介・安岡章太郎・近藤啓太郎」/『文学交友録』)
このラジオ番組では、島尾敏雄や木山捷平、十和田操、小山清などといった作家にも、原稿をお願いしていたらしい。
日本経済新聞に連載された『ザボンの花』で、「アフリカ」という章に出てくる男は、吉行淳之介がモデルになっている(吉行淳之介は、本当にアフリカ航路の貨物船を紹介してくれたらしい)。
短篇小説「桃李」で、長女が「L大学附属小学校」を受験する際に、PTA会長を紹介してくれたのも、吉行淳之介の母親(吉行あぐり)だった(『プールサイド小景』所収)。
安岡章太郎とは、結婚式の仲人を務めた仲である(安岡章太郎が結婚するとき、庄野夫妻が媒酌人を務めた)。
結婚した翌々年の三十一年一月に、安岡のところに長女の治子ちゃんが生れた。(略)治子ちゃんの方は、大きくなってロシア語の先生になり、今では東京大学で教えている。(庄野潤三「吉行淳之介・安岡章太郎・近藤啓太郎」/『文学交友録』)
庄野家の次男(和也)と安岡家の長女(安岡治子)は、「花の三十一年組」という縁でつながっている(庄野和也は早くに病死してしまったが)。
ちなみに、阪田寛夫の次女(大浦みずき、本名なつめ)も、「花の三十一年組」である。
庄野一家に、外房の太海海岸を紹介してくれたのは、近藤啓太郎だった。
私たちが子供を海で泳がせたがっているのを知った近藤は、それなら鴨川の一つ先の太海がいい、太海には子供を泳がせるのに持って来いの浜がある、庄野、太海へ来いよといった。(庄野潤三「吉行淳之介・安岡章太郎・近藤啓太郎」/『文学交友録』)
画家や画学生の泊まる吉岡旅館は、短篇小説「蟹」の舞台ともなった(『静物』所収)。
庄野さんに大きな影響を与えた英文学者が、福原麟太郎である。
『メリ・イングランド』『治水』というのを面白く読みましたというと、あれ(治水)を読んで貰ったのはうれしい。自分ではいいと思っているのですが、今日まで誰も何ともいってくれないといわれた。(庄野潤三「福原麟太郎・十和田操・坂西志保」/『文学交友録』)
福原麟太郎から贈られてくる竹輪は、田秀商店(福山市)のもので、でびらがれいも、また、福原さんの郷里・広島県の名産品だったらしい(河上徹太郎の家でも、でびらがれいが登場する)。
同じく年長の友(十和田操)とは、朝日放送東京支社時代に交友を深めている(十和田操は、朝日新聞社の出版編集部に勤務していた)。
石神井公園の私の家へ、夏の暑い日に、十和田さんが駅前の八百屋で買った大きな西瓜をさげて訪ねて来てくれたことがある。その西瓜を切って、子供らも一緒にみんなで頂いた。(庄野潤三「福原麟太郎・十和田操・坂西志保」/『文学交友録』)
庄野家を訪れる人々は、庄野さんの家族とも交流を深めることになるらしい。
ガンビア行きを紹介してくれた坂西志保も、庄野さんの子どもたちと一緒に食事をしている。
あとで庭から戻った小学二年生の上の男の子が、坂西さんに向って、「ここ、小母ちゃんのおうち?」といった。坂西さんが驚いて、「いいえ、小母ちゃんはそんなお金持じゃありません」といったのがおかしかった。(庄野潤三「福原麟太郎・十和田操・坂西志保」/『文学交友録』)
庄野家に伝わる「サンキュー・レター」を出す習慣は、アメリカ行きの前に、坂西志保が教えてくれたものだった。
井伏鱒二とも、家族ぐるみの付き合いだった。
この長女が大きくなって、学校を卒業して商船三井に勤めているころ、井伏夫妻のお世話で結婚することになった。奥さまの女学校のときの友達で文京区西片にいる方の次男を紹介して下さって、結婚した。(庄野潤三「井伏鱒二・河上徹太郎・中山義秀」/『文学交友録』)
「奥さまの女学校のときの友達で文京区西片にいる方の次男」とあるのが、後年「夫婦の晩年シリーズ」では「トウさん」として登場する、長女の夫(今村邦雄)である(昭和45年5月に結婚)。
なお、結婚式の仲人は、盟友・小沼丹夫妻が務めている(小沼夫人は、再婚後の後妻)。
このころ、井伏さんのところで熱海の志賀直哉を訪問する計画があり、私もその仲間に入れてもらった。河盛好蔵、小山清、吉岡達夫、文藝春秋の尾関栄も一緒で、志賀直哉のお弟子さんで、熱海の志賀さんのお宅へ出入りしていた阿川弘之夫妻が案内役になってくれた。私はこの熱海行きのとき、その足で大阪の母を見舞いに帰ることにして、春休み中の長女を連れて行った。(庄野潤三「井伏鱒二・河上徹太郎・中山義秀」/『文学交友録』)
志賀直哉邸を訪問した一行は、熱海の文藝春秋の寮へ一泊しているが、このとき、尾関栄によって撮影されたスナップ写真が遺されている(庄野夏子は河盛好蔵の膝の上に抱かれていた)。
河上徹太郎の思い出は、『山の上に憩いあり—都築ヶ岡年中行事』(1984)の方が詳しい。
すると、急に河上さんが、「あれを弾く」といってピアノの前に坐った。(略)明るい、きれいな曲で、曲名を訊ねると、「山の上に憩いあり」という題なので、この場にぴったりですねえとみんなで感心した。それから夫人と連弾をされた。(庄野潤三「井伏鱒二・河上徹太郎・中山義秀」/『文学交友録』)
庄野さんは、年長者と交友することが上手な人だったのだろう。
中山義秀も、また、年長の作家だった。
私たち一家が東京へ引越した二十八年の暮に新潮社から私の最初の創作集『愛撫』が出たとき、宣伝のためのちらしに中山さんが推薦文を書いてくれ、それが本の帯にそのまま印刷されることになった。(庄野潤三「井伏鱒二・河上徹太郎・中山義秀」/『文学交友録』)
中山義秀は、モナミで開かれた『愛撫』の出版記念会にも参加している。
生涯の親友として知られる小沼丹も、実は、年上の友人だった。
約束した日に新宿まで出かけて行く。ビルの地階のビアホールで、先ずジョッキの生ビールから始める。ここで海老の串焼きなんか食べてゆっくりして、次は歩いて大久保の馴染の飲屋へ行く。(庄野潤三「小沼丹・庄野英二」/『文学交友録』)
ビルの地階のビアホールで、海老の串焼きなんかを食べる話は、短篇小説「秋風と二人の男」や「鉄の串」などに描かれている。
「大久保の馴染の飲屋」とあるのは、もちろん「くろがね」で、この店は、晩年まで庄野文学の中に登場することになる。
小沼夫妻と伊良湖ビューホテルへ出かけた話は、夫婦の晩年シリーズでもお馴染みのエピソードだ。
伊良湖岬の前は、蒲郡ホテルであった。蒲郡ホテルに泊って、三河湾内にある三河大島で泳いだ。(庄野潤三「小沼丹・庄野英二」/『文学交友録』)
夫婦で、三河大島まで海水浴へ出かける話は、短篇小説「三河大島」に描かれている(『屋上』所収)。
伊良湖ビューホテルで、フィリピン人のバンドに「カプリ島」をリクエストしたことは、「夫婦の晩年シリーズ」の中で、繰り返し語られた。
小沼は酒が入ると、ときどき歌をうたう。生田の私たちの家へ来たときも、興に乗ると、歌が出た。「サム・サンデー・モーニング」という歌い出しの曲なんか、楽しい。また、小沼によく似合っていた。(庄野潤三「小沼丹・庄野英二」/『文学交友録』)
霧島昇と小川静江が歌った「サム・サンデー・モーニング」は、1950年(昭和25年)発売の流行歌である(服部良一作曲)。
最後に登場する庄野英二は、庄野潤三の実兄で、「夫婦の晩年シリーズ」では「英二伯父ちゃんのバラ」で知られている。
家の近くにZ字の崖の坂道がある。散歩を終ってこの坂を上って、西の方の丹沢山塊が見える曲り角まで来ると、私は西の空に向って(そちらに兄のいる大阪がある)、「英ちゃん、頑張ってくれー。元気になってくれー」と口のなかで唱えた。(庄野潤三「小沼丹・庄野英二」/『文学交友録』)
兄が亡くなった後、庄野さんは、西の空に向かい、ただ「英ちゃん」とだけ呟いて、ハンチングのひさしに右手をかけたという。
年長者との交友が中心だった庄野さんの文学交友は、いかにも庄野さんらしいものだったとも言える。
一方で、ここに綴られた人物のほとんどは、庄野さんよりも先に他界することになった(庄野さんは2009年に他界)。
年下の友人(阪田寛夫)でさえ、庄野さんより先に亡くなっており(2005年)、庄野さんより後の時代を知っているのは、安岡章太郎ただ一人である(2013年没)。
戦後文壇史を補足するひとつの資料として、本作『文学交友録』は極めて重要な作品である。
長女の夫(トウさん)ではないけれど、「こういう本がどんどん売れないようでは日本もおしめえだな」という気持ちにもなろうかというものだ。
書名:文学交友録
著者:庄野潤三
発行:1995/03/30
出版社:新潮社