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森山達也・北里晃一『Hey!Two Punks』ザ・モッズの博多弁丸出しヒストリー!

森山達也・北里晃一『Hey!Two Punks』ザ・モッズの博多弁丸出しヒストリー!

森山達也・北里晃一『Hey! Two Punks The Mods:The Early Days 博多疾風編』読了。

本作『Hey! Two Punks』は、2024年(令和6年)12月にシンコーミュージックから刊行された自伝的エッセイ集である。

この年、森山達也は68歳、北里晃一は67歳だった。

THE MODS のデビュー前夜

若い頃、THE MODSの音楽に親しんだ者にとって「TWO PUNKS」は特別の曲である。

先の見えない生活に沈んでいた青年であれば、その共感はなおさらのものだった(それが自分だ)。

俺の女は目に 涙を浮かべてた
いつまで続けるの HEY DARLING
そう言いやがる
そんな事俺にも わかりゃしねえよ
でももう列車には 乗り遅れた

(THE MODS「TWO PUNKS」)

ススキノのビデオ・ショップでアルバイトをしながら、毎日のように「TWO PUNKS」を聴いた。

俺たちは乗る事が出来なかった
俺たちは乗る事が出来なかった
俺たちは乗る事が出来なかった
俺たちは乗せてもらえはしなかった

(THE MODS「TWO PUNKS」)

もう列車には乗ることができないと分かっていた、あの頃の自分を救ってくれたのが、 THE MODSだったかもしれない(確かにそうだ)。

だから、「TWO PUNKS」は、THE MODSの音楽であると同時に、自分たちの音楽でもあった。

あれから長い年月が経過して我々は、今も先行き不透明な列車に揺られ続けている。

本作『Hey! Two Punks』は、そんな「TWO PUNKS」が生まれた時代の(主に1970年代後半の)、THE MODSの活動を振り返った自伝的エッセイ集である。

根底にあるのは、森山達也・北里晃一という2人の若いパンクスたちの、博多弁に彩られた苦しくも明るい青春の日々だった。

名曲「TWO PUNKS」は、THE MODS 初めてのレゲエ・ソングである。

この曲には、何かグッとくるイントロが欲しくて「苣木、なんかグッとくるメロディのイントロないや?」「ちょっとやってみるね」「うーん、違うね」そんな感じのやり取りをしながら何度もトライし、苣木はフレーズを絞り出していた。(森山達也・北里晃一「Hey! Two Punks」)

みんなでお気に入りの焼き飯を食べた翌日、あのイントロが生まれた。

次の日のリハ、いつも通りチューニングをしていたら苣木が「できたよ、ちょっと聴いて」俺はカウントを入れ、「TWO PUNKS」を始めた。レゲエリズムイントロ部分に差し掛かった時、苣木が新しいメロディを弾く。それは、俺の胸が求めていた何かとシンクロして、胸が熱くなるのを感じた。(森山達也・北里晃一「Hey! Two Punks」)

やがて、デビューアルバム『FIGHT OR FLIGHT』(1981)に収録された「TWO PUNKS」は、全国のパンクスたちのテーマ・ソングとなり、THE MODSのテーマ・ソングとなる。

もちろん、THE MODSとはいえ、最初から完成されたパンク・バンドだったわけではない。

それから、何ヶ月か過ぎた頃、浅田君を通して石井聰亙監督の映画『狂い咲きのサンダーロード』のサントラをやらないかという話が舞い込んだ。やりたい気持ちはあったが、この時点でザ・モッズのメンバーは俺と北里の2人だけで、これといった活動もせず、ただ酒を飲みながら辞めていったメンバーについて愚痴るだけの、ぐうたらダメダメ TWO PUNKS 状態だった。(森山達也・北里晃一「Hey! Two Punks」)

石井聰亙監督の映画『狂い咲きのサンダーロード』は、1980年(昭和55年)の公開。

THE MOZZ時代の初代ギタリストである白浜久(後のARB)のほか、苣木寛之と梶浦雅裕を加えたメンバーでサウンド・トラックのレコーディングを完成させて、新生「THE MODS」が誕生する。

それは「めんたいロック」と呼ばれる九州出身のロックバンドが、全国的な注目を集めている時代だった。

「博多でワーっち言ったっちゃ、なーんも広がらんやろ。ばってんが東京でワーっち言ったら一発で日本中に広がるけん出てきたんよ」マコちゃんが口にする久留米弁は博多弁とはちょっとだけニュアンスが違う。語尾は優しい感じがするが、その言葉には力がこもっていた。(森山達也・北里晃一「Hey! Two Punks」)

「マコちゃん」とあるのは、シーナ&ロケッツのギターリスト(鮎川誠)のことである。

この年、1979年(昭和54年)3月、シナロケは『SHEENA & THE ROKKETS #1』でメジャーデビューを果たしたばかりだった。

マスターテープの紛失により「幻のデビューアルバム」となった『#1』に続き、10月にはセカンド・アルバム『真空パック』がリリースされる。

シナロケ、ルースターズ、ロッカーズ、モッズ、世間では明太ロックなんて一括りにされたけど、一緒に活動する場はなかった。(森山達也・北里晃一「Hey! Two Punks」)

ライブハウス「照和」出身のバンドが、次々と東京へ進出していった。

それは、 杉田成道監督の青春映画『ラストソング』(1994)に描かれている世界そのままだったに違いない。

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映画「ラストソング」吉岡秀隆が歌う主題歌と本木雅弘が歌う甲斐よしひろ&辻仁成昔、『ラストソング』という日本映画があった。 プロのロックミュージシャンを目指した若者たちの青春物語。 そこに素晴らしい音楽...

映画に登場するロックバンド「シューレス・フォー」のモデルとなった若者たちが、確かにいたのだ。

「横綱は最後やんけ」「上手いこと言うねぇー、モリヤン」そう虚勢を張る2人であったが、それはあながち間違いではない。俺たちは、シナロケ、ロッカーズ、ルースターズより遅れて東京進出を果たすことになる。(森山達也・北里晃一「Hey! Two Punks」)

1981年(昭和56年)、森山達也は既に25歳になろうとしていた。

周りを見たら、後輩のバンドが10代や20代になったばかりでデビューし、元メンバーの川嶋や浅田はテレビで活躍していた。この年、25になる俺も、これが最後のチャンスだということはわかっていた。(森山達也・北里晃一「Hey! Two Punks」)

多くのロックバンドと同じように、家族の反対を押し切っての上京だった。

そんな気持ちで迎えた出発の朝、俺は出来るだけ普段と変わらない雰囲気で親に挨拶をし、出て行こうとしていたが、その時、今まで見たことのない顔のオフクロが、「タツヤ、アンタ成功するまで帰ってきたらイカンよ」(森山達也・北里晃一「Hey! Two Punks」)

「タツヤ、アンタ成功するまで帰ってきたらイカンよ」という母親の言葉は、まさしく、海援隊『母に捧げるバラード』に歌われている、九州のお母さん(ごりょんさん)の言葉だ。

行ってこい……
どこへでも行ってきなさい 鉄矢
お前のごたあ息子が おらんごとなっても
母ちゃん なあんも寂しゅうなか

死ぬ気で働いてみろ 鉄矢
働いて 働いて 働きぬいて
遊びたいとか 休みたいとか
そんなことおまえ いっぺんでも思うてみろ
そん時ゃ そん時ゃ 鉄也 死ね
それがそれが人間ぞ それが男ぞ

おまえも故郷をすてて
花の都へ出てゆく限りは
輝く日本の星となって帰ってこいよ
行ってこい あんた
どこへでも行ってきなさい

(海援隊「母に捧げるバラード」)

多くの若者たちが、母親の激励を胸に、東京行きの飛行機へと乗り込んだのだ。

飛行機へ搭乗する直前、森山は、改めて家へと電話をかけた。

そして親父が電話に…その声は初めて聞く涙声だった。「タツヤ、辛くなったら、いつでも帰ってこい」予期せぬ声と言葉に、俺の中の何かが震え、目ににじむ暖かいものが流れ出した。(森山達也・北里晃一「Hey! Two Punks」)

背負ったものの大きさを、このとき、彼らは感じていたかもしれない。

搭乗のアナウンスが聞こえる。俺たちはゆっくりとゲートへと歩きだした。「さあ! ブチかましに行くばい!」(森山達也・北里晃一「Hey! Two Punks」)

こうして、4人のパンクスたちによる新しい冒険が始まった。

THE MODS──。

その歴史は途切れることなく、現在へと続いている。

パンクスを支えた仲間たち

地元の先輩ミュージシャンに、甲斐バンドの甲斐よしひろがいた。

「浅田、俺たちも照和のオーディション受けてみらんや?」浅田もその意見に賛同し、俺は照和の店長の広津さんと、甲斐さん(その頃、演者と照和のスタッフの仕事もやっていた甲斐よしひろ氏)に挨拶をしに近寄っていった。(森山達也・北里晃一「Hey! Two Punks」)

甲斐バンドのメジャーデビューは、1974年(昭和49年)の『バス通り』で、これは、1973年(昭和48年)頃のエピソードである。

森山達也は、高校3年生のロック志願者だった(甲斐は20歳)。

当時のバンド名「開戦前夜」は、PANTA率いる「頭脳警察」からインスピレーションを受けたものだったという。

甲斐さんは、もうすでにこの頃から人気があり、照和のステージでもほぼ満席で、チューリップ、海援隊の次にデビューするのは甲斐よしひろだろう、と言われていた。(森山達也・北里晃一「Hey! Two Punks」)

ロック少年たちに世話を焼いてくれたのは、甲斐よしひろだった。

照和で活動する中で、いろんなミュージシャンに出会えた経験は、俺にとってはかけがえのないものとなり、特に甲斐さんは、色々と曲のことや客に対する姿勢なんかもアドバイスをくれたり、甲斐さんが贔屓にしていた、天ぷらが美味い喜柳という屋台に連れて行ってくれたりと、可愛がってくれた。(森山達也・北里晃一「Hey! Two Punks」)

長渕剛も鹿児島出身の九州勢だった。

つま恋で開催されたポプコンの本大会でも、彼らは顔を合わせている。

田舎者同士のしょっぱいマウント合戦に、お互い腹を抱えて大笑い。それを見ていた鹿児島出身の長渕剛君は「北里君は良かねえ、物怖じせんで」しみじみそう言っていたが、実のところ俺は人見知り、のぼせていただけなのだ。(森山達也・北里晃一「Hey! Two Punks」)

THE MODSのポプコン全国大会進出は1978年(昭和53年)で、「長渕剛とソルティー・ドッグ」は『純恋歌』で入賞。

優秀曲賞に、佐野元春の『Do What You Like (勝手にしなよ)』が選出されている。

ポプコンでは入賞できなかったTHE MODSは、同じ年、九州地区のコンテスト『Lモーション』で優勝を獲得した。

マコちゃんは昨日のコンテストの審査員をやっていて、俺たちのステージも見ていた。(略)「ところでマコちゃん、何で俺たち優勝できたとですかね?」「そりゃ森山、足と股の開き具合がカッコよかったけんたい」(森山達也・北里晃一「Hey! Two Punks」)

親不孝通りのライブハウス「80’s FACTORY」では、店長(伊藤エミ)に支えられた。

後年、彼女も東京に進出して、仲井戸麗市氏やザ・ストリート・スライダーズを手がける名マネージャーとなった。きっと今でもミュージシャンズ・ファーストの精神が生きているのだろう。(森山達也・北里晃一「Hey! Two Punks」)

THE MODSのパンクは、多くの人々に支えられていたらしい。

そんな彼らに憧れて、多くの若者たちがパンクスを志していく。

本書に「あとがき」を寄せている藤井フミヤ(チェッカーズ)も、THE MODSの音楽に魅せられた若者の一人だった。

「激しい雨が」は1983年9月21日に発売されている。偶然だが我々のデビュー曲「ギザギザハートの子守唄」と同じ日だ。CHECKERSはデビューはしたものの全くぱっとしない無名バンドで、MODSは既にロックスターだった。(藤井フミヤ「Hey! Two Punks」あとがき)

藤井フミヤは、ソロのセカンドアルバム『R&R/ロックンロール』(1995)で、THE MODSの「TWO PUNKS」をカバーしている。

同じ代官山にある近くのマンションに住んでいるということで、彼らは近所のバーで親交を深めていった。

アマチュアバンドマンには食えなくても夢だけで腹を満たせる時代が必ずある。そんなその日暮らしの2人の姿がリアルに目に浮かぶ。まるでモリヤン・キーコのパンクス珍道中!みたいなコメディー実話。ノンフィクションのエッセイだが、実は全ての話は繋がってひとつの物語になっている。(藤井フミヤ「Hey! Two Punks」あとがき)

ポイントは、修行時代の懐かしい思い出が、時間を経過する中で洗練されたエピソードとして昇華されている、ということだろう。

大変だったはずなのに、ベタベタした苦労話はひとつもない。

すべては笑って話せる昔話なのだ。

それは、彼らが、自分の道を信じて歩き続けてきた結果でもある。

彼らを支えていたのは、「タツヤ、アンタ成功するまで帰ってきたらイカンよ」と言った母親の、あの言葉だったかもしれない。

書名:Hey! Two Punks The Mods:The Early Days 博多疾風編
著者:森山達也・北里晃一
発行:2024/12/25
出版社:シンコーミュージック

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懐新堂主人
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。