今回の青春ベストバイは、SIONのアルバム『螢』です。
1992年(平成4年)9月23日発売。
おすすめは、何と言っても「2月というだけの夜」ですね。
大人の孤独を歌った「2月というだけの夜」
大人って孤独だなあと、つくづく思う。
SIONの「2月というだけの夜」などという、寂しい音楽を聴いたときなんかは、特に。
「♪何もないから誰もいない~」という言葉から始まる「2月というだけの夜」は、大人の寂しさを歌った曲だ。
何をやってもうまくいかないようなときのことを、SIONは「間の悪さとバツの悪さにけつまづいて背中を向けたままの夜」と歌った。
それは「待ちすぎた人が待ちわびる人とちょっと笑ってすれ違う」しかないような寂しい夜だ。
そんなとき、僕たちの中にあるのは、ただひたすらの無力感で、何をやってもどうしようもねえやという諦めにも似た寂しさを、この歌からすくい取ることになる。
間の悪さとバツの悪さにけつまずいて
背中を向けたままの夜
待ちすぎた人が待ちわびる人と
ちょっと笑ってすれ違う
カラッポの水槽は悲しいから
カラッポのギターケースと外に出した
なのに少しもカラッポがなくならないのは
鏡を見なくてもわかってること
(SION「2月というだけの夜」)
「カラッポの水槽」や「カラッポのギターケース」は、もちろん自分自身の無力感を比喩したもので、SIONの歌には、そんな文学性があった。
それにしても、こんな歌に共感できるとき、人は誰でもやり場のない疎外感を抱えているんだろうな。
まるで、自分自身の居場所を、世界中のどこにも発見できないような、寂しい疎外感。
子どものときには、ちゃんと逃げ場所があった。
SIONは、それを、子どもの頃の思い出話として伝えようとする。
夢中で遊んでいるうちに日が暮れて、怖くなって走って帰る。
まるで、芥川龍之介の「トロッコ」のような話だけれど、帰る場所のある安心感が、そこでは歌われている。
あの時の空の黒さに似て
あの時の心細さに似て
あの時のカラッポに似て
あの時とかけ離れた俺がいる
(SION「2月というだけの夜」)
かけ離れているのは、今の俺には帰る場所がないことだ。
遊んじゃいけないと言われた川で遊ぶことができたのも、それは帰る場所があったからだ。
叱りながらも自分を迎えてくれる家があるからだった。
大人になると帰る場所はない。
「あの時の空の黒さ」や「あの時の心細さ」や「あの時のカラッポ」、そんなものを全部、自分の中に抱えたままで、人は自分の道を歩いていくしかない。
「2月というだけの夜」を聴くと、そんな大人の孤独を思わないではいられない。
子どもの頃は良かったなあという気持ちを、心のどこかに残しながら。
大人になって初めて感じた「帰る場所のない心細さ」
ということで、今回の青春ベストバイは、「2月というだけの夜」が収録された、SIONのアルバム『蛍』。
『蛍』は、1992年(平成4年)9月に発売された、SION7枚目のアルバムで、80年代のパンクな若者とはすっかりと変わった、大人のSIONを聴くことができる。
考えてみると、この年、SIONは32歳で、世の中的に言えば「もう若くはない」年齢だった。
前作『かわいい女』に収録された「夢を見るには」あたりから、SIONは、大人の無力感を、しみじみと歌うミュージシャンに成長していたような気がする。
そして、この年、25歳の僕は失業者になったばかりで、「2月というだけの夜」で歌われる「カラッポ」は、ましく自分自身のカラッポでもあった。
あれから30年以上の時が経つというのに、ちゃんと就職して、今は安定した仕事に就いているというのに、今も僕はこの曲を聴くと、あのときの「心細さ」をリアルに思い出すことができる。
それは、大人になって初めて感じた「帰る場所のない心細さ」だったからだ。
前向きな言い方をすると、あの時のカラッポは、その後の自分自身にとって、とても良い経験になったということになる。
あの時のカラッポがあったからこそ、その後の人生を乗り切っていくことができたのだろうと、今の僕は考えているから。
もちろん、カラッポのど真ん中にいるときは、そんなことは分からない。
ただひたすらに無力感を背負いながら、ただ必死で生きただけだ。
だからこそ、僕は、今カラッポの中にいる若い人たちに、この曲をお勧めしたいと思う。
大人は誰しも孤独なんだということを伝えるために。
そして、人は誰しも自分自身の力で、カラッポの中から抜け出さなければならないということを伝えるために。