旅行体験

札幌にもいた「ロビンソンの末裔」の足跡を訪ねて、拓北農兵隊と戦後開拓の歴史を歩く

札幌にもいた「ロビンソンの末裔」の足跡を訪ねて、拓北農兵隊と戦後開拓の歴史を歩く

開高健『ロビンソンの末裔』は、上川管内の大雪山麓が舞台となっているが、戦時から戦後にかけて実施された同様の緊急開拓事業は、札幌でも受け入れが行われていた。

戦災都市疎開者をはじめ、復員軍人、引揚者、失業者など、多くの人たちが、安住の地を求めて、札幌市内の未開拓地域へ入植したのである。

いわゆる「戦後開拓」地域は、今、どのようになっているのか。

白石区と南区の戦後開拓地域を歩いてみた。

拓北農兵隊と戦後開拓の概要

敗戦直後の食糧危機等の克服を目的とする「戦後(緊急)開拓」は、1945年(昭和20年)11月の『緊急開拓事業実施要領』の閣議決定によりスタートしているが、それより前、1945年(昭和20年)3月には、都市戦災者の疎開と食糧増産を目的として、『都市疎開者ノ就農ニ関スル緊急措置要項』が閣議決定されている。

これが、いわゆる「拓北農兵隊」である。

札幌地域における拓北農兵隊の入植は、7月から始まった第一陣で特に多く見られたようで、札幌村では、雁来の治水飯場・裂々布校・元村倶楽部・下苗穂校に計23戸を分散収容することが伝えられている。

また、近隣都市においても、琴似町では、三谷農場と稲積農場の未利用地に共同居小屋3棟を建設、手稲村では、北農牛舎と学校の仮宿舎に半数づつ入り、下手稲前田部落に住宅が完成するまでは、付近農家の援農作業に従事することとされた。

豊平町では、石切山校と豊羽選鉱所土場校を住宅とするほか、真駒内種畜場の国有未開地を農地として割り当て、白石村では、大谷地にある農地開発営団の建物2棟に収容することなどが、早期に決定されていたらしい。

1945年(昭和20年)7月から始まった拓北農兵隊第一陣の札幌入植は、手稲村で杉並区から21戸、琴似町で足立区から21戸、豊平町で目黒区から50戸、札幌村で板橋区から23戸、白石村で大森区から23戸などが記録されている。

官吏あり、会社員あり、新聞人あり、建具屋さん、古董商、指灸師、雑役、刺繡屋さん其の他さまざまな職業を過去に持った人々が戦災に会い、強制疎開を受け、住む家なく離散せる家族をまとめて一途食糧増産報国の一念に燃え、勝つ為に一切を犠牲にして白紙の入植をしたのだ。北海道開拓集団帰農手稲農民団、これが彼等の団名である。(田中美之助『白雲を眺めて』)

さらに、戦後になって、満州や樺太などの海外植民地からの引揚者や復員軍人等の失業者を受け入れるため、1945年(昭和20年)10月、北海道庁は『北海道戦後開拓実施要領』を策定して、復員者や引揚者等の受入れ準備に着手する。

この制度によって入植した人たちが、「戦後開拓者」と呼ばれる人たちである。

11月になって、日本政府が『緊急開拓事業実施要領』を策定したことで、全国的な緊急開拓事業が本格化し、1946年(昭和21年)3月、北海道庁の『北海道開拓者集団入植施設計画』が決定された。

こうした一連の「緊急開拓」は、1949年(昭和24年)まで継続された。

『東米里開拓の碑・東米里小中学校跡地』記念碑

米こめ広場に設置された『東米里開拓の碑・東米里小中学校跡地』の記念碑米こめ広場に設置された『東米里開拓の碑・東米里小中学校跡地』の記念碑

札幌市白石区の「東米里」は、戦後開拓者によって開拓された地域である(当時は「白石村」だった)。

1949年(昭和24年)12月に「白石村立東米里小学校」として開校した「東米里小学校・中学校」は、戦後開拓者の子息のための学校として設置された歴史を持つ。

東米里小学校・中学校は、2011年(平成23年)に「米里小学校・米里中学校」に統合されており、学校跡地は「米こめ広場」として整備され、野球グラウンドなどが設置されている(住所は「東米里2124番地」)。

東米里小学校・中学校跡地は「米こめ広場」として整備されている東米里小学校・中学校跡地は「米こめ広場」として整備されている

「米こめ広場」の北東角に、「地久」と刻まれた『東米里開拓の碑・東米里小中学校跡地』の記念碑が設置されている。

沿革には、1943年(昭和18年)に緊急開拓者が入植、さらに、1949年(昭和24年)、戦後開拓団130戸が入植したとある。

東米里小学校は、戦後開拓団の入植と、ほぼ同時に開校したのだろう。

米こめ広場前にある「東米里」のバス停留所米こめ広場前にある「東米里」のバス停留所

東米里地域は宅地化も進んで、すっかりと近代的な住宅地となった。

米里の『白石開拓記念碑』

米里の『白石開拓記念碑』米里の『白石開拓記念碑』

中央バス「白石開拓記念碑前」バス停留所のすぐ前に『白石開拓記念碑』がある。

大きな石碑は、白石開基100年を記念するものだが、隣りに小さな副碑が設置されていて、拓北農兵隊の入植に関する説明が刻まれている。

この地の開拓は昭和二十年東京都からの拓北農兵隊五戸の入植にはじまる。翌二十一年逼迫する食糧事情のため疎開者引揚者等多数来住し第一開拓促進組合を結成一致団結本格的な開発が進められた。当時この地は茅葦が密生する泥炭湿地帯に加えたび重なる冷水害発生等の劣悪なる立地条件であったが、それに屈することなく開拓者精神によって想像することもでき得なかった今日の大地をきずきあげたのである。昭和二十八年有志一同により記念碑を建立する予定であったが打ち続く天災さらには用地事情等延伸を余儀なくされた。幸い今日関係者の絶大なるご配慮によって建立のはこびとなりここにこの開拓者精神の継承を祈念するとともに輝かしい未来創造を期待しここに開拓記念碑を建立する(昭和四十五年十月一日)

戦後開拓の記念碑は、訪問困難な場所に設置されているものが多いが、『白石開拓記念碑』は、比較的分かりやすい立地条件となっている。

東米里の『板橋地区跡』(白石・歴しるべ)

東米里の『板橋地区跡』(白石・歴しるべ)東米里の『板橋地区跡』(白石・歴しるべ)

白石区に、もう一か所、訪れておかなければならない場所がある。

東米里に入植した人々の痕跡を示す『板橋地区跡』の説明版である。

津軽海峡を越え、函館に着いた板橋区の10世帯が、札幌村の助役から聞いた言葉は「札幌村には土地の余裕はありません。このまますぐ引き返してください」だった。しかし荷物はすでに貨車で送ってあるので帰ることもできず、 苗穂で9カ月間の仮住まい生活を送った後、昭和21年4月に入植したのが後に板橋地区と呼ばれる土地だった。(『白石・歴しるべ』)

しかし、東米里の最末端にあたる板橋地区は河川の氾濫が多く、常に水害の危険性にさらされていたという。

ところで板橋地区の離農を早めたものは、水害常襲地であったことがその第一の理由であるが、昭和53年の道央自動車道造成のための買収と、ゴミ処理用地への転用の動きが重なった。このようにしてこの地区入植者10人のうち、平成8年現在農業をしているのは東米里にただ1人、そのほかは札幌の他の地域へ4人、他は東京へ戻った。(『白石・歴しるべ』)

現在、「白石・歴しるべ」の説明版は、原野に埋もれるようにして設置されていて、その場所を特定することも容易ではない。

東米里にある札幌ファーム東米里にある札幌ファーム

目印となるのは「札幌ファーム」くらいだろうか。

駒岡地区開拓記念会館の『開拓碑』

駒岡地区開拓記念会館の『開拓碑』駒岡地区開拓記念会館の『開拓碑』

白石区を離れて、南区真駒内へと向かう。

最初に訪れた駒丘地区は、戦後開拓団によって開拓された地域である。

まず学校につけられた駒岡という名は、両隣の真駒内と西岡に由来する。満州からの引き揚げ者や東京の被災家族ら三十数戸が、まだ名前もないこの地に入植したのは1947(昭和22)年の夏。かつて真駒内種畜場の放牧地だった丘陵地で、林床に根曲がり竹やクマザサが茂る雑木林が広がっていた。(2018年12月12日『朝日新聞』)

駒岡地区開拓記念会館に隣接して『開拓碑』が設置されている。

道立真駒内種畜牧場跡米軍接収地区と引揚者同志の活動により解放満州引揚者を主体とし、樺太引揚者及地元戦災者が昭和二十二年七月二十日現地に入植。開団当初、団長唐木田眞氏外一三〇名の人々が衣食住の困難を克服し開拓に従事。開拓の進展と共に、団の分離・第一開拓農協設立等により組合員の繁栄を計り、今日に至る。

駒丘神社のお祭りなのか、記念碑の前に、小さな神棚が祀られていた。

真駒内から駒丘へ向かう途中で発見したサイロ真駒内から駒丘へ向かう途中で発見したサイロ

真駒内から駒丘へ向かう途中で発見したサイロにも、開拓の歴史を感じた。

戦後に開校した駒丘小学校

戦後に開校した駒丘小学校戦後に開校した駒丘小学校

小規模特認校として知られる駒丘小学校も、戦後開拓との関わりが深い。

進駐軍に接収された土地の一角に最初の駒岡小学校が誕生したのは1949(昭和24)年で、児童数は7人。5年後に現在地に移されたのだが、その理由は、まわりで米軍の演習が日常的に行われ、山火事まで起こしていたからだった。駒岡の戦後開拓は、なんと砲弾の爆音とともにあったのだ。(2018年12月12日『朝日新聞』)

真駒内から山を越えてくると、さすがに遠くまで来たという気持ちになる。

『恵開拓記念碑前』

『恵開拓記念碑』『恵開拓記念碑』

真駒内発滝野線を進んでいくと、中央バス「恵開拓記念碑前」停留所が現れる。

バスの終着地点らしく、転回スペースとなっているらしいが、目的の記念碑が見つからない。

「恵開拓記念碑」近隣の農家「恵開拓記念碑」近隣の農家

附近を歩くと、ぽつんぽつんと農家が点在していて、あるいは、戦後開拓の関係者かもしれないと思う。

「ポケストップ」を見ると、記念碑は間違いなく、この辺りに設置されているようなので、思い切って草むらをかきわけ、バス停横の山を登ってみた(「ポケモンGO」は歴史散策にもお役立ち)。

バス停横の草むらをかきわけて山を登ると記念碑があった。バス停横の草むらをかきわけて山を登ると記念碑があった。

道なき道を進んでいくと、坂の上に『恵開拓記念碑』があった。

おそらく、今日一番で発見の困難だった記念碑である(戦後開拓者の労苦とは比べものにならないが)。

市道真駒内発滝野線中央バス停「恵開拓記念碑前」の近くにある碑。3本の支柱の上に「恵」と刻まれている玉が載っている。かたわらの副碑には「開拓記念・戦後開拓二十週年・豊平開拓農業協同組合」とあり85人の名も刻まれている。昭和42年(1967年)9月建立。この敷地には昭和38年(1963年)に建てられた開拓婦人ホームがあったが、昭和61年(1986年)に放火のため消失した。(札幌市南区「碑を訪ねて」)

「豊平開拓農業協同組合」は、1948年(昭和23年)3月設立で、所在地は「石山一区」となっている。

1954年(昭和27年)に設立された「石山開拓農業組合」とは、また別のものらしい。

恵開拓記念碑の近隣にある農地。恵開拓記念碑の近隣にある農地。

農地横の道は、意外と自動車が走るので注意が必要。

石山開拓神社の『開拓記念碑』と『炭焼窯』

石山8区にある「石山開拓神社」石山8区にある「石山開拓神社」

最後は、石山8区の「石山開拓神社」である。

昭和24年(1949年)、豊受大神碑を建立したのに始まる。社殿は昭和40年ころ赤平の炭坑にあったものを移転してきたもの。祭神は豊平神社の祭神と同じ。境内に馬頭観音と開拓記念碑がある。(札幌市南区「ふるさと小百科」)

「赤平」は空知管内の産炭地で、炭鉱の閉山に伴い、廃止された神社の社殿を移転したのかもしれない(豊里炭礦が、昭和42年に閉山となっている)。

石山開拓神社の開拓記念碑石山開拓神社の開拓記念碑

開拓記念碑は、神社へ登る坂道の途中にあった。

石山8区、石山開拓神社境内にある碑。石山戦後開拓20周年を記念して、昭和40年(1965年)10月に建立。碑裏面に入植者の名が刻まれている。(札幌市南区「碑を訪ねて」)

開拓記念碑の後ろには、馬頭観音も設置されている。

開拓当時の炭焼窯開拓当時の炭焼窯

神社にお参りして石段を降りると、ポケストップに謎の「炭焼窯」が出てきた。

近隣を探してみると、草に埋もれて、開拓当時の炭焼小屋が現れた。

説明版は、1999年(平成11年)に設置されたもので、その後、管理も行き届かなくなったらしい。

1945年(昭和20年)の入植として、ほぼ80年前の炭焼き小屋である。

小屋の中にある炭焼窯も見てみたいと思ったが、施錠されているようなので、近付くのはやめておいた。

路上に飛び出してきたメスのエゾシカ路上に飛び出してきたメスのエゾシカ

近隣には、老人ホームと森の幼稚園があるが、一帯は、かなりの山の中である。

石山開拓神社から少し進んだところで、メスのエゾシカが路上に飛び出してきた。

札幌市内とは言え、ここは、開拓当時の面影を残しているらしい。

戦後開拓の歴史をたどる旅の最後にふさわしい、エゾシカとの出会いだった。

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。