フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」読了。
本作「罪と罰」は、1866年に刊行された長篇小説である。
この年、著者は45歳だった。
初出は、1866年1月~12月『ロシア報知』。
ドストエフスキーの五大長篇小説のうち、最も最初に書かれた作品である(『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』)。
『罪と罰』を読んでいる者と読んでいない者
本作『罪と罰』は、ドストエフスキー作品の中で、我が国で最も幅広く読まれた長篇小説である。
同じく人気のある『カラマーゾフの兄弟』に比べて、テーマが分かりやすく、ストーリーも比較的シンプルで、ボリュームも少ない。
『カラマーゾフ』好きで知られる村上春樹は「『罪と罰』は短すぎる」と発言しているくらいだ。
もちろん、一般の読者にとって、それでも『罪と罰』は大長編には違いないし、ドストエフスキー流の謎かけも多いから、一読してそのすべてを理解することは簡単ではない。
2015年(平成27年)には「『罪と罰』を読まない』」というタイトルの書籍が文芸春秋から発表されて話題を呼んだ。
これは、三浦しおん(小説家)、岸本佐知子(翻訳家)、吉田篤弘(小説家)、吉田浩美(作家)という四人の文化人が集まって、未だ読んだことのない『罪と罰』について読書会を開くという、かなりぶっ飛んだ内容の企画だった。
【岸本】これ、最初と最後を読んだだけでも面白くて、主人公が超ニート野郎なんですよ。すごく貧乏で、現代に通じる感じの男なの。(三浦しおん・岸本佐知子・吉田篤弘・、吉田浩美「『罪と罰』を読まない」)
その後、彼らも『罪と罰』を読んで、正しい読書会に至るのだが、知っているようで意外と知らない名作の代表というのが、『罪と罰』という小説だったのかもしれない。
佐藤優は『生き抜くためのドストエフスキー入門』の中で、「『罪と罰』は有名な作品ですから、読んでいない方でもおおよそのストーリーは知っているかもしれません」と言っているが、やはり、素人にとって『罪と罰』は、ハードルの高い超難関文学なのだ。
『罪と罰』のストーリーは、かなりシンプルである。
ドストエフスキーの『罪と罰』といえば、俗に「ナポレオン主義」という選民思想にかぶれ、二人の女性を殺したエリート青年が、一人の心優しい娼婦との触れあいをとおして罪の意識に目覚める、というのがおおよその理解だった。(亀山郁夫「『罪と罰』ノート」)
主人公(ラスコーリニコフ)は、学費滞納で大学を辞めてしまった元・大学生で、それまで学校では法律を学ぶインテリ青年だった。
ラスコーリニコフは、一部の優秀な市民の成功のためには、優秀ではない多くの市民を犠牲にすることはやむを得ないと考えている。
これが「ナポレオン主義」と呼ばれる選民思想である(「たとえば、中心となる目的がよければ個々の悪行は許されるという、あれと同じやつです」「要するに、彼はナポレオンにすっかりいかれてしまったわけです」)。
「それはつまり、きみがなんといっても、良心にしたがった殺人を許容しているってことさ。それも、こんなこと言っちゃ悪いが、かなりくるってる感じでね」(フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」亀山郁夫・訳)
ラスコーリニコフは、自分の信念に従い、貧しい庶民を苦しめている強欲な金貸し老婆(アリョーナ・イワーノヴナ)を斧で殺害する(「ぼくはナポレオンになりたかった、だから殺した……さあ、これならわかるかい?」)。
体が小柄なせいもあって、斧の一撃は、老女の脳天に命中した。悲鳴をあげはしたものの、声は弱々しかった。(フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」亀山郁夫・訳)
ラスコーリニコフにとって、金貸し老女の殺害は計画どおりのものだったが、想定外に、その場に居合わせた老女の妹(リザヴェータ)まで、一緒に殺すことになった。
斧の刃は頭蓋骨に命中し、額の上部を、ほとんどこめかみのあたりまで断ち割った。彼女は、どうとその場にくずれ落ちた。(フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」亀山郁夫・訳)
庶民の敵と呼ばれた老婆と異なり、妹のリザヴェータは、虐待を受けながらも献身的に姉に尽くす、善良なる市民だった(「あの人、神を見るお方なんですよ」)。
主義に従い、社会のために二人の市民を殺したラスコーリニコフは、想定外とも言える「罪の意識」と戦わなければならない。
ラスコーリニコフを追いつめたものは、貧しすぎる現代社会である(「すべての原因は、自分のおぞましい境遇にあった」)。
通りはひどい暑さで、しかも息づまるような熱気と雑踏、あたり一面の漆喰、建築の足場、れんが、土ぼこり、そして、別荘を借りる余裕のないペテルブルグっ子ならだれもが知る、あの、夏特有の悪臭──これらすべてがたちまち、そうでなくても調子の狂った青年の神経を、不快にかき乱した。(フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」亀山郁夫・訳)
多くのロシア文学が、不安定なロシア社会を題材として花開いたように、本作『罪と罰』もまた、混乱するロシア社会を舞台として描かれている。
それは、優秀な自分が活躍すべきはずの社会で、成り上がりの俗物どもが威張り散らしている間違った世界だ(「たしかに、強い自尊心をもった青年にとっては屈辱的であるにちがいありません、とくに、今みたいな時代にあってはですよ……」)。
「貧乏は悪徳ならず、こいつは真理ですな。(略)でも、これが極貧となったらです、極貧となったら、こいつはもう悪徳なんでございますな」(フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」亀山郁夫・訳)
エリート官僚(マルメラードフ)も、現代社会の犠牲者である(「なんてひどい人生かね!」)。
農奴解放と資本主義の導入による価値観の転換の中で、エリート官僚であるということは、ほとんどインセンティブとも呼べないものだったらしい(「アヴドーチャさん、いまの時代はね、すべてがもう混沌としているんです」)。
「地位」よりも「金」がモノを言う時代、キャリア官僚(マルメラードフ)よりも、金貸し老婆(アリョーナ)の方が、生きる力に優れていたということである。
だから、ラスコーリニコフが殺したものは、あるいは、こうした「間違った価値基準」だったのかもしれない(「おれは人を殺したんじゃない、主義を殺したんだ!」)。
時代の波から落ちこぼれたマルメラードフは、実の娘(ソーニャ、18歳)に売春をさせることで、生計を立てるようになる。
「この子はね、黄の鑑札だって受けてるんだ。あたしの子供たちが、いまにも飢えて死にそうだったからさ。あたしらのために、自分の体、売ったのさ!」(フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」亀山郁夫・訳)
「黄の鑑札」は、政府公認の娼婦に与えられる証明書のようなものだったらしい。
「きみにひざまずいたんじゃない、人間のすべての苦しみにひざまずいたんだ」(フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」亀山郁夫・訳)
「人間のすべての苦しみにひざまずいたんだ」というラスコーリニコフの有名な言葉は、老婆殺しについて「人間のすべての苦しみを殺したんだ」と読み替えることもできる。
かくして、人を殺したラスコーリニコフと、売春で家族を助けるソーニャという、二人の若い男女が知り合った。
同じころ、ラスコーリニコフの妹(ドゥーニャ)も、兄の進学を助けるため、意に沿わない金持ち(ルージン)との結婚を受け入れようとしていた。
「ドゥーニャ、おれは、おまえの犠牲なんてほしくない、母さん、ほしくないんだ!」(フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」亀山郁夫・訳)
他者の犠牲となっても献身的に生きるソーニャやドゥーニャ、リザヴェータといった女性たちは、金貸し老婆(アリョーナ)や成り上がり男(ルージン)の対極に位置付けられている。
金がモノを言う時代、金よりも大切なものがあることを生き方で示そうとしていたのが、彼女たちだったのかもしれない。
優秀な人間だけが生き残るべきという傲慢な思想で、新しい価値観と対峙していたラスコーリニコフは、やがて、彼女たちの愛によって癒されていくことになる。
ラスコーリニコフの「罪」とは何か?
老婆殺しを実現した後のラスコーリニコフの混乱ぶりは、本作『罪と罰』において、ひとつの見どころとなっている。
「いいかげん、ひとりにしてくれ、どこまで苦しめる気だ! ぼくはきみらなんか怖くない! 怖くあるもんか! もうだれも、だれも怖くないんだ! ここから出てってくれ! ぼくはひとりでいたい。ひとりで、ひとりで、ひとりで!」(フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」亀山郁夫・訳)
殺人の達成感など、どこにもなく、彼はただ衰弱していく一方だった。
ラスコーリニコフの衰弱ぶりに注目したのが、予審判事(ポルフィーリー)である。
「だれが殺したか、ですって?」耳が信じられないとでもいいたげに、彼はラスコーリニコフの言葉をくりかえした。「そりゃ、あなたが殺したんですよ、ラスコーリニコフさん! あなたが殺したんです……」(フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」亀山郁夫・訳)
『刑事コロンボ』のモデルになったとも言われるポルフィーリーの、人を喰ったような尋問は、読んでいるだけで楽しい。
ラスコーリニコフの立場に立ってみると、遠回しに自白を迫るようなポルフィーリーのやり方は、とてもたまらないものだっただろう(「ぼくは、これ以上がまんできない……」「いやだと言ってるんです! いやなんです、いやでしかたないんです」「ぼくを、なぶりものにはさせませんよ!」)。
もっとも、この予審判事、単純にラスコーリニコフの敵というわけではない(殺された金貸し老婆への同情など、ポルフィーリーにはまったくない)。
あるいは、彼もまた、急変する時代の犠牲者だったのだろうか(「わたしなんて、もう終わった人間ですよ」)。
混乱するラスコーリニコフに、ポルフィーリーは「空気を換えましょう、新鮮なのに!」と提案する。
「あれだけの一歩を踏み出したからには、しっかりなさることです。それこそが正義なんですから。いまこそ、正義が求めるものを実行なさるんです。信じられないのはわかっていますが、なあに、人生が運びだしてくれますとも。そのうちに自分でも好きになります。いまのあなたに必要なのは、空気だけです。空気です、空気なんです!」(フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」亀山郁夫・訳)
希薄な空気は、息苦しい世の中を象徴したものだったはずだ。
つまり、ラスコーリニコフが「殺そうとしたもの」が何だったのか、おそらく、ポルフィーリーには、わかっていたのだ。
「あのばあさんを殺しただけですんでよかった。べつの理屈でも考えついていたら、一億倍も醜悪なことをやらかしていたかもしれないんです!」(フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」亀山郁夫・訳)
金貸し老婆は、間違った世の中(というか「腐った世の中」)の象徴にすぎない。
もしかすると、彼は、狂ったテロ集団の一員になっていたとしても、決しておかしくはなかったのだ(「やつは、政治的陰謀に加わっている、きっとそうにちがいない、まちがいない!」)。
ここに、本作『罪と罰』の持つ現代性(予言性)がある。
混沌とした社会では、正義と悪の区別が曖昧になっていた。
貧しい庶民を苦しめる金貸し老婆(つまり「新しい資本主義」の象徴)は、果たして正義だったのか?。
グダグダの世の中で、最後まで筋を通して生きていたのが、娼婦ソーニャだった。
「いますぐ、いますぐ、十字路に行って、そこに立つの。そこにまずひざまずいて、あなたが汚した大地にキスをするの。それから、世界じゅうに向かって、四方にお辞儀して、みんなに聞こえるように、『わたしは人殺しです!』って、こう言うの。そうすれば、神さまがもういちどあなたに命を授けてくださる。行くわね? 行くわね?」(フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」亀山郁夫・訳)
大地にキスをして、「わたしは人殺しです!」と叫ぶ──それが、作者の答えだった。
売春をして生きるソーニャ自身、既に罪を犯しながら生きる女性である。
「でも、きみの罪は何より、きみが自分をむだに殺し、自分をうらぎったからだ。これが怖ろしいことじゃなくて、なんだっていう!」(フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」亀山郁夫・訳)
ラスコーリニコフは、罪を背負った者として、ソーニャと二人、生きていくことを決心する。
「いっしょに行こう……ぼくはきみのところに来た。ぼくらはふたりとも呪われた者同士だ、だからいっしょに行こう!」(フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」亀山郁夫・訳)
一線を踏み越えるか、踏み越えられないか。
「きみだって同じことをしたじゃないか。きみも超えてしまった……踏み越えられたんだ。きみは自分で自分に手をかけ、ひとつの命をほろぼした……」(自分のね)」(フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」亀山郁夫・訳)
ラスコーリニコフにとって大切なことは、その「一線」だった。
「あのとき、ぼくは知る必要があったんだよ、一刻も早く知る必要があった。自分がほかのみんなと同じシラミか、それとも人間か? 自分に踏み越えることができるのか、できないのか?」(フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」亀山郁夫・訳)
かつて、ラスコーリニコフは、妹(ドゥーニャ)にも同じ話をしている。
「けどな、ある一線てもんがあってだ、そこまで行き着いたときにそいつを踏み越えなけりゃ……不幸になる、ところが、踏み越えれば越えたで……もっと不幸になるかもしれない……」(フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」亀山郁夫・訳)
ソーニャがラスコーリニコフの心の奥深くに触れることができたのは、彼女自身が一線を踏み越えた人間だったからだ(刑法ではなく聖書が裁く罪として)。
ラスコーリニコフが背負う「罪」もまた、法律だけではなかった。
「罪? なんの罪をいってる?」何かしら唐突な怒りにかられたように、ラスコーリニコフは叫んだ。「なに、ぼくが、あのけがらわしい有害なシラミを殺したことかい、貧乏人の生血を吸ってるだけで、なんの役にもたたない有害な金貸しばあさんを殺したことか、あのばあさん、殺せば殺したで四十の罪が許されるような相手じゃないか? これが罪だっていうのか! そんなの、ぼくは罪だなんて考えちゃいない、そんな罪、つぐなう気はない。どうして猫も杓子も、寄ってたかって《罪だ、罪だ!》ってぼくを小突きまわす!」(フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」亀山郁夫・訳)
罪とは何か? 罰とは何か?
それが、この長い物語が問いかけるテーマだ。
「あれは、ぼくが、あのとき、役人の未亡人のおばあさんと妹のリザヴェータを斧で殺し、盗みました」火薬中尉は、あっと口をあけた。(フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」亀山郁夫・訳)
ラスコーリニコフを自首させたものは、良心の呵責というよりは、ソーニャやドゥーニャといった女性たちの、自己犠牲的にも似た愛だったのかもしれない。
スヴィドリガイロフの自殺とラスコーリニコフの再生
ラスコーリニコフが罪の意識に目覚める、もうひとつのきっかけとなった重要な登場人物が、かわいい妹(ドゥーニャ)に言い寄る中年エロ男(スヴィドリガイロフ)である。
「要するに、ソドムがはじまったわけですよ。ああ、ラスコーリニコフさん、一生にいちどぐらいあなたにもお見せしたい。あなたの妹さんの瞳がどんなに妖しく光るか!」(フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」亀山郁夫・訳)
妻(マルファ)の急死は、夫(スヴィドリガイロフ)による計画的な殺人だったという噂さえある、その男に、ラスコーリニコフは不思議なシンパシーを感じる。
「すれっからしの女ぐるいが、その種の化けものじみた下心を隠して、くだらん女道楽を吹聴してるんですから、それが快楽じゃなくてなんです。しかもこんな状況で、ぼくみたいな人間を相手にして……」(フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」亀山郁夫・訳)
社会の倫理に反して、自身の快楽のために生きるスヴィドリガイロフもまた、一線を踏み越えて生きる人間だった。
醜悪なスヴィドリガイロフが、自分自身の影であることに、ラスコーリニコフは気がついただろう。
「あなたは右、わたしは左、それとも反対ですか、しかし、ともかく、(さらば、わたしの歓び!、ぜひまたお会いしましょう!)」(フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」亀山郁夫・訳)
スヴィドリガイロフの自殺は、ある意味、ラスコーリニコフの再生を予言するものとも読める。
考えてみると、実に多くの人間が、この物語では死んだ。
そして、多くの人の死が、ラスコーリニコフの再生を支えていることも、また事実だ。
ふたりとも青白く、やせこけていた。しかしそのやつれはてた青白い顔にも、新しい未来の、新しい生活への完全な甦りの光がきらめいていた。ふたりを甦らせたのは、愛だった。(フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」亀山郁夫・訳)
ラスコーリニコフが殺人の後の混乱の中にいるとき、「ラザロの復活」を読んでくれたのもソーニャだった。
「ラザロの復活」を読み終えたソーニャに、ラスコーリニコフは誘いかけるのだ(二人で一緒に復活しよう、と)。
シベリアへ送られたとき、ラスコーリニコフの手元には、ソーニャの聖書があった。
枕の下には福音書が置いてあった。それを無意識に手にとった。これは彼女のものだった。かつてラザロの復活を読んでくれた、あの福音書だった。(フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」亀山郁夫・訳)
あるいは、ラスコーリニコフが殺したものも、自分自身だったかもしれない。
「だいたい、ぼくはあのばあさんを殺したんだろうか? ぼくは自分を殺したんで、ばあさんじゃなかった! あのとき、ぼくはほんとうにひと思いに自分を殺してしまった、永久に……あのばあさんを殺したのは悪魔で、ぼくじゃない……もううんざり、うんざりだよ、ソーニャ、もうたくさんなんだ!」(自分のね)」(フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」亀山郁夫・訳)
ラスコーリニコフが殺したものは、自分自身の中に潜む「悪魔」だ。
そう考えると、彼が受けるべき「シベリア行き」の「罰」は、ラスコーリニコフにとっての「救い」とも言える。
そして、ソーニャのシベリア行きを支えたのも、ラスコーリニコフの「悪の分身」とも呼べべきスヴィドリガイロフだった。
「ではごきげんよう、ソフィヤさん! 生きてください、うんと生きてください、あなたはほかの人々のためになる方なんですから!」(自分のね)」(フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」亀山郁夫・訳)
本作『罪と罰』は、若い男女の破滅と再生を描いた、ひとつの青春物語である。
明治・大正・昭和と時代を超えて、この物語は多くの読者に支持されてきた。
謎解き『罪と罰』
大正期の人気作家・芥川龍之介も、『罪と罰』の影響を受けている。
この逞たくましい老人は古い書棚をふり返り、何か牧羊神らしい表情を示した。「ドストエフスキイ全集です。『罪と罰』はお読みですか?」僕は勿論十年前にも四五冊のドストエフスキイに親しんでいた。が、偶然(?)彼の言った『罪と罰』と云う言葉に感動し、この本を貸して貰った上、前のホテルへ帰ることにした。(芥川龍之介「歯車」)
戦後のベストセラー作家・太宰治は、最後の作品『人間失格』の中で『罪と罰』を引用した。
罪と罰。ドストイエフスキイ。ちらとそれが、頭脳の片隅をかすめて通り、はっと思いました。もしも、あのドスト氏が、罪と罰をシノニムと考えず、アントニムとして置き並べたものとしたら? 罪と罰、絶対に相通ぜざるもの、氷炭相容れざるもの。罪と罰をアントとして考えたドストの青みどろ、腐った池、乱麻の奥底の、……ああ、わかりかけた、いや、まだ、……(太宰治「人間失格」)
「シノニム」とは「同義語」で、「アントニム」は「対義語」を意味する。
詩人の萩原朔太郎も、『罪と罰』への感動を綴っている。
次に読んだ本は「罪と罰」であった。これにはまたカラマゾフ以上に感激させられた。主人公ラスコリニコフの心理と言行とが、小説の最初から大尾まで、魔法のように僕の心を引き捉えていた。当時僕はニイチェを読んでいたので、あの主人公の大学生が、ナポレオン的超人になろうとイデアした思想の哲学的心境がよく解り、一層意味深く読み味えた。その読後の深い印象から、僕はラスコリニコフを以て自ら気取り、滑稽にもその小説的風貌を真似たりした。夜は夜で、夢の中に老婆殺しの恐ろしい幻影を見た。(萩原朔太郎「初めてドストイェフスキイを読んだ頃」)
多くの文学者を刺激するモチーフが、『罪と罰』という作品の中にあったことは間違いない。
とりわけ、島崎藤村の代表作『破戒』が、ドストエフスキー『罪と罰』の大きな影響を受けていたことは、広く指摘されている。
ドストエフスキーの『罪と罰』のようないわゆる十九世紀的ロマーンに示唆されながら、島崎藤村が刻苦して最初の長編を書きあげたことは、客観的には、そういう日本固有の近代的リアリズムの偏向に対するひとつの改訂か変更を意味したはずである。(平野謙「破戒について」)
結論が明記されないドストエフスキーの小説は(オープン・エンデッド)、多くの謎を読者に問いかけ、多くの文学者たちが、『罪と罰』の謎解きに挑戦した。
彼はその思想によって婆さんを殺して、その思想が間違ってはいないことを証明した。(略)しかし、思想は彼に何も、一片の満足さえも与えなかった。婆さんを殺す前と、殺した後で彼は自分が全く同じであることを発見して、それは彼の思想の完全な証明であると同時に、思想というものの正体が彼に示されたのでもあった。(吉田健一「文学的人生案内」)
吉田健一は「人間は不安であっても生きて行かなければならないのと同様に、絶望してもやはり生きて行かなければならない」と結論づけている。
ドストエフスキーについては、小林秀雄を抜きにして語ることはできない。
ラスコオリニコフは、独力で生きているのではない、作者の徹底的な人間批判の力によって生きている。単にラスコオリニコフという一人の風変りな青年が、選ばれたのではない。僕等を十重二重に取巻いている観念の諸形態を、原理的に否定しようとする或る危険な何ものかが僕等の奥深い内部に必ずあるのであり、その事がまさに僕等が生きている真の意味であり、状態である。(小林秀雄「『罪と罰』について」)
光文社古典新訳文庫を読んだ人には、亀山郁夫「『罪と罰』ノート」がおすすめ。
では、踏み越えることができたのはだれか。それはほかでもない、『罪と罰』の影の主人公ともいうべきアルカージー・スヴィドリガイロフである。(亀山郁夫「『罪と罰』ノート」)
「深読み」とは、どのようなものかということを、この本は教えてくれる(正解かどうかは別として)。
佐藤優『生き抜くためのドストエフスキー入門』もおもしろい。
そして二一世紀を生きるわれわれから見ると、ドストエフスキーがソーニャやラスコーリニコフを通じて伝えている土壌主義は、ファシズムの種子にも見えないでしょうか。(佐藤優「生き抜くためのドストエフスキー入門」)
このあたりの文脈は、やがて、村上春樹へと展開していくことが、容易に想像されるだろう。
村上春樹とドストエフスキーとの共通点が、ここにあるような気がする。
高度経済成長期に流行した少年少女文学全集においても、ドストエフスキーの『罪と罰』は、マスト・アイテムとなっていた。
つまり、ソーニャのキリスト教的な愛と忍従の思想によって、いままでラスコーリニコフが盲信していたヨーロッパ的な合理主義という考えのあやまりであったことが明らかにされたのです。(中村融「ジュニア版世界文学名作選『罪と罰』解説」)
多くのロシア文学者が、少年少女向け文学全集で解説を書いた。
当時、『罪と罰』を読むことは、中高生の読者にとっても必須科目となっていたのだ(抄訳とは言え)。
そしてそれは、当時のロシア社会の一般庶民に共通の悩みであったのです。「人間のゆき場所が、どこにもない!」それが、この『罪と罰』の主な訴えで、「出口がない」といわれるのは、こうした救いようのない人間が描かれているからです。(平井芳夫「ジュニア版世界の文学『罪と罰』解説」)
割と軽視されがちだが、昔の少年少女向け文学全集の解説を読んでいると、意外と新しい発見がある。
作者のドストエフスキーは、理性だけによっては割りきれない人間の生活、人間の上にさいごの救いをもたらす愛の光を描こうとしたのでした。(原田義人「文学に親しむために」)
罪を犯した若者が再生する物語は、少年少女向けの読み物として都合が良かったのかもしれない。
しかし、この物語が放つメッセージは、やはり、急変する現代社会への警鐘と警告である。
そもそも、ドストエフスキーは実際の事件に刺激を受けて、本作『罪と罰』を書き上げたと言われている(1865年1月「モスクワ宝石商殺人事件」と、1865年9月「高利貸し商ベック氏殺害事件」)。
当時、ロシアは、まさしく混乱の時代だった。
貧しい庶民を苦しめる金貸し老婆は、なぜ、殺されなければならなかったのか?
そして、正義のヒーローであるべき主人公(ラスコーリニコフ)は、なぜ、罪を背負い、罰を受けなければならなかったのか?
『罪と罰』の謎解きは、むしろ、原点とも言うべき「金貸し老婆」の存在にこそ、注視すべきなのかもしれない。
書名:罪と罰(全3巻)
著者:フョードル・ドストエフスキー
訳者:亀山郁夫
発行:2009/07/20
出版社:光文社古典新訳文庫