庄野潤三「世をへだてて」読了。
本作『世をへだてて』は、1987年(昭和62年)11月に文芸春秋から刊行されたエッセイ集である。
この年、著者は66歳だった。
収録作品及び初出は次のとおり。
「夏の重荷」
・1986年(昭和61年)7月『文学界』
「杖」
・1986年(昭和61年)9月『文学界』
「北風と靴」
・1986年(昭和61年)11月『文学界』
「大部屋の人たち」
・1987年(昭和62年)2月『文学界』
「Dデイ」
・1986年(昭和61年)4月『文学界』
「作業療法室」
・1986年(昭和61年)6月『文学界』
「同室の人々」
・1986年(昭和61年)8月『文学界』
「足柄山の春」
・1986年(昭和61年)10月『文学界』
闘病記を超えた随想集
本作『世をへだてて』は、『文学界』に連載されたいわゆる闘病記だが、闘病記以上のふくらみを持つエッセイ集とも言える。
例えば、最初の「夏の重荷」を読むと、それは単なる闘病記ではなく、亡き福原麟太郎に対する懐旧のエッセイであることが分かる。
英文学者ですぐれた随筆家でもあった福原麟太郎さんに「秋来ぬと」という随筆がある。福原さんの数ある著書の中でも私が本棚から取り出して頁を繰ることの多い随筆集『命なりけり』に収められている。(庄野潤三「夏の重荷」/『世をへだてて』所収)
福原麟太郎『命なりけり』は、1955年(昭和32年)10月に文芸春秋新社から刊行された随筆集である。
当時、福原さんは61歳で、『世をへだてて』の連載を始めたときの庄野さん(65歳)より、少し若いくらいの年齢だった。
「夏の重荷」は、福原麟太郎が心臓病を患い、社会復帰するまでの経過を振り返ったものだが、ここでも闘病記以外の横道に逸れた話が多い。
このおミズさんの名前には覚えがある。同じ『命なりけり』に収められた福原さんの初期の随筆「新しい家」に印象深い役割を与えられて登場する女中さんである。(庄野潤三「夏の重荷」/『世をへだてて』所収)
行方不明の猫(タマ)が、クリスマスの夜に帰ってきたとき、おミズさんは「タマさんタマさん、あんたはどこへ行ってたの」と涙をこぼす。
そんなおミズさんと福原さんとのやり取りに触れつつ、庄野さんの「夏の重荷」は、庄野潤三と福原麟太郎との馴れ初めを語り始めるのだ。
あるいは、庄野さんは、かつて大病を患いながら、死の淵から復帰した福原麟太郎の姿に、自分自身の姿を重ね合わせていたのかもしれない(寄り道が多すぎるような気もするが、この寄り道が楽しいのだからやむを得ない)。
福原麟太郎の随筆の話は、小川和夫のイギリス訪問記『ロンドン暮色』の話へと広がっていく(これも、福原さんの随筆に登場していたものだった)。
この小川和夫さんがNHKのロンドン支局長になって英国へ向うとき、送別会を福原さんのお宅で開いたことが「野方閑居の記」のなかに出て来る。(庄野潤三「夏の重荷」/『世をへだてて』所収)
小川和夫『ロンドン暮色──イギリス紀行』は、1956年(昭和31年)8月に研究社出版から刊行された紀行集で、1950年前後のイギリスの様子を学ぶことができる。
第2章とも言うべき「杖」では、トマス・ヒューズ『トム・ブラウンの学校生活』が登場する。
私はここで『トム・ブラウンの学校生活』のなかで主人公のトム少年がどんなふうにラグビー校をそばを流れるエイヴォン川の岸で対岸の地主の命を受けてきびしく猟場の見張りをつづける番人の目をくらましながらうぐい釣りに熱中したかを紹介したい誘惑に駆られる。(庄野潤三「杖」/『世をへだてて』所収)
『トム・ブラウンの学校生活』は、フーちゃん三部作の最初の作品『エイヴォン記』(1989)にも登場する作品だが、このとき、『エイヴォン記』はまだ世に誕生していない。
『世をへだてて』の連載が完結したあと、続いて始まる連載エッセイが『エイヴォン記』だったから、あるいは、この「杖」が、次の『エイヴォン記』への呼び水となった可能性はある。
先述『ロンドン暮色』にも、『トム・ブラウンの学校生活』は登場している(著者もラグビー校を訪問したのだ)。
その書斎にも家族の写真が壁にはってある。棚にならべられてある本のなかに『トム・ブラウンの学校生活』のあるのが目についた。作者トマス・ヒューズは、図書館の前庭にブロンズのその胸像がかざられてある。(小川和夫「ロンドン暮色」)
イギリス文学『トム・ブラウンの学校生活』を軸にして、福原麟太郎・小川和夫・庄野潤三という線が、つながっているのだ。
リハビリ用に買った「杖」の話は、ガンビア時代の思い出話へと飛んでいく。
散髪屋ジム(私が別れの挨拶に行った夏の日、今にも泣き出しそうになり、最後の散髪の代金を受け取ろうとしなかったジムがまだ元気で仕事をしていたころだ)の店と北隣りの自動車のオイルなどを売る店との間に木のベンチが一つ置いてあって、夏になると、どこからともなくじいさん連中が集まって来て、ここが集会所になった。(庄野潤三「杖」/『世をへだてて』所収)
「ダンス・パーティーでダンスをしなかった」と語る庄野さんに、ウイルソンの親爺が「人生は四十から始まる(あるいは五十から始まる)」と言った話も、ここからつながってくる(『懐しきオハイオ』にも出てくるエピソードだ)。
杖の話は、ロシア民話へと展開していく。
見舞いに来てくれた出版社の友人のFさんに向って、「ロシアの民話に、足なしニキタっていうのがあるけれど、僕は足なしニキタになったよ」といったのは、Fさんが大学でロシア文学を学んだ人であったからだ。あとの方は「足なし」ではなくて、「足なえニキタ」といったのであったか。(庄野潤三「杖」/『世をへだてて』所収)
ここで庄野さんは、小沼丹の随筆集『小さな手袋』収録の「母なるロシア」という随筆のことを思い出す。
それは、小沼丹が中学一、二年の頃に愛読した『ロシア伝説集』のことを書いたもので、庄野さんの連想は、大いなるロシア文学の世界まで広がっていくのだ。
こうして短文の随筆のなかに小沼が書きとめてくれたお蔭で、ロシアの古伝説の世界の勇士とはおよそ縁遠い、みじめでみっともないしくじりの多かった脳内出血患者の入院記のなかで広大無辺な母なるロシアの大地を想い描くことが出来るのは有難い。(庄野潤三「杖」/『世をへだてて』所収)
『エリア随筆』の著者(チャールズ・ラム)の街を訪ねたイギリス旅行の途上、飛行機の中から見たシベリア大陸の思い出は、『シベリアの旅』を書いたチェーホフの思い出を呼び起こす。
イギリス旅行は、もちろん、『陽気なクラウン・オフィス・ロウ』に綴られたロンドン紀行のことだ。
『エリア随筆』について詳しく触れられるのは、次の「北風と靴」に入ってからだ(チャールズ・ラムの話は、またまた福原麟太郎の思い出へとつながっていく)。
二本の杖をめぐるエピソードは、『トム・ブラウンの学校生活』や『ガンビア滞在記』、小沼丹『小さな手袋』、チャールズ・ラム『エリア随筆』など、次から次へと自由に展開していく。
本作『世をへだてて』が、単なる闘病記だと思ったら大間違いだ。
この闘病記は、庄野潤三という一人の作家による、自由な心の旅を記録した随想集とも言えるのだから。
自分の周りにある世界を描く
本作『世をへだてて』で、もうひとつ注目したいことが、庄野家の人々の様子である。
庄野さんの様子が尋常ではないことを最初に発見したのは、庄野夫人だった。
ところが、右の方はうまくはまったのに、左のほうがはまらない。私が子供のけんけん遊びのような恰好で左足のうまく入っていない方をたたきに蹴りつけているところへ妻が送りに出て来た。と、不意に真剣な顔で、そのまま自分の肩につかまるようにといった。家の中へ戻って下さいというのである。(庄野潤三「北風と靴」/『世をへだてて』所収)
庄野夫人の迅速な判断には驚くしかない(それだけ、庄野さんの異常ぶりが激しかったのかもしれないが)。
入院中の父を支えたのは、やはり、長女だった。
お母さんが小さな声で、「お父さん、和子が来てくれましたよー。民夫も一しょですよー」といった。(略)そばへ寄ると、「来てくれたんか」こんなことになってしまったけど、命拾いしたからな、といって、手を強い力で握りしめた。(庄野潤三「北風と靴」/『世をへだてて』所収)
「和子」は、明夫と良二シリーズで使われていた名前で、このエッセイ集が「明夫と良二」の系譜にあることが分かる。
一方で、新たな登場人物である「長男の嫁」や「次男の嫁」は、本名に近い形で登場している。
「ミサヲちゃんやあつ子ちゃん(というのは、次男の嫁と長男の嫁のことだが)が来たら、よく一階の売店でアイスクリームを買って一しょに屋上へ行くの」(庄野潤三「大部屋の人たち」/『世をへだてて』所収)
「ミサヲちゃん」や「あつ子ちゃん」は、その後の作品でもお馴染みの名前で、本作『世をへだてて』が、従前の家族物語と、晩年の家族物語をつなぐ作品であることが理解できる。
ちなみに、ミサヲちゃん(次男の嫁)は、庄野さんの入院直前に、次男(和也)と結婚したばかりだった。
一月前に結婚して、長男と同じ大家さんの、向い合せの借家で世帯を持つようになった次男だが、もと自分が寝起きしていた部屋から運び出さないといけない荷物が残っていた。たまたまその日は休日で、午後から何回か山の上と下の家の間を往復して荷物を運んでいた。(庄野潤三「北風と靴」/『世をへだてて』所収)
次男(和也)が「吉祥寺の駅ビルのレコード店に勤めている」とあるのは、「新星堂」のこと。
七年前に結婚した長男が小学校上級のころに、クリスマスか私の誕生日の贈物にくれた手作りのステッキがそうだ。何の木か名前を知らない。生田へ越して来てまだ日が浅く、ナイフひとつ持って山に入ればステッキに仕立てられる素材には不自由しない環境であった。(庄野潤三「杖」/『世をへだてて』所収)
折に触れて、子どもたちの思い出が挿まれるところは、いかにも庄野文学らしい。
やはり、晩年の作品群は、この『世をへだてて』というエッセイ集を礎にして生まれたものだと考えていいのかもしれない。
庄野文学という観点からは、入院中に出会った人々の話も見落とすことができない。
妻がつけていた日記によると、最初に妻が長女の手作りのラム酒入りのケーキに林檎を添えて隣りの部屋のヘンリーさんへ届けたとき、ヘンリーさんは夫人を相手にトラムプをしていた。妻は、私たちはオハイオにいましたといった。ヘンリーさんは(自分が病気になったので)妻が可哀そうだ、クリスマスになるのにといった。(庄野潤三「作業療法室」/『世をへだてて』所収)
日本の病院でリハビリを続けているアメリカ人夫婦(ヘンリーさん)の話は切ない。
ちょうどクリスマスを迎える季節だっただけに、異国で迎えるホリデー・シーズンの寂しさが伝わってくる。
「泣きばあさん」の声は、私にはさほどうるさくは感じられなかった。例えばそれは、あたしゃもうこんなところに寝かされているのは御免だよ、家へ帰してくれないかねえ、もうこれ以上我慢は出来ないよ、といいたいところを全部はいわないで、最初に出たひと声に何もかも托してしまったかのような「あーあ」なのである。(庄野潤三「大部屋の人たち」/『世をへだてて』所収)
庶民を描くとき、庄野さんの文章は一層冴えるようだ。
女部屋の患者に自殺を計って入院したおばあさんがいた。きょとんとした顔つきの、気楽そうな人で、そんな深刻な悩みを抱えているようにはちっとも見えなかった。ときどき出て来ては八人部屋の人たちにからかわれたりしていた。(庄野潤三「大部屋の人たち」/『世をへだてて』所収)
もしかすると、ここから小説が生まれそうな話が、いくつも出てくる。
おれはねー、家に帰ったらよーく考えてみようと思うんだ、という。何をよう、と野宮さんが訊くと、なんでこんなことになったか、考えてみようと思うんだ。(庄野潤三「大部屋の人たち」/『世をへだてて』所収)
優れた聞き書き小説をいくつも残した庄野さんらしい観察眼が、この闘病記の中にはある。
そして、救急車で運ばれたときにも、真っ先に心配したのは、やはり、原稿のことだった。
それから、ここのところ忙しくて、とお仕事のことを話された。新年号は小説と長い随筆と二つあって、文學界の小説の方は大体書き上げて、あと読み返して手を入れるだけでいい。もう一つ、新潮の随筆二十枚があって、これは終りの方をもう五、六枚書かないといけない、といったのかな。(庄野潤三「北風と靴」/『世をへだてて』所収)
小説「ガンビア停車場」は、予定どおり、1986年(昭和61年)1月『文学界』に発表された(作品集『葦切り』所収)。
私は発病直前に「文学界」新年号の小説を書き上げたが、入院騒ぎのどさくさの中で編集者の手に渡った原稿のことで安岡に心配をかけた。安岡はその原稿が予定通り新年号に載るように、そうなれば私が元気づいて早くよくなるからよろしく頼むという電話を編集長にかけてくれたらしい。その小説「ガンビア停車場」はおかげで「文学界」新年号に載って、病院で雑誌を手にした私をよろこばせた。(庄野潤三「文学交友録」)
『文学交友録』に、当時の様子が回想されている。
もうひとつ、『新潮』の随筆二十枚は、退院後の5月になって発表された(随筆集『誕生日のラムケーキ』に収録されている「童心」のこと)。
闘病記と言うと、病気と向き合う患者の気持ちばかりが綴られているように思えるが、『世をへだてて』で描かれているのは、患者を取り巻く人たちの姿である。
庄野さんは、自分の周りにある世界を描くことで、困難に直面した自分自身の姿を浮かび上がらせようと考えていたのだろう。
隅々まで、いかにも庄野潤三らしい闘病記である。
そして、今になって考えてみると、現在まで「静かなブーム」と呼ばれる晩年の庄野文学は、この『世をへだてて』以降から始まった。
それは、大病から復活した後の福原麟太郎が、大きな仕事をいくつも完成させた姿にも似ている。
本作『世をへだてて』は、やはり、庄野文学にとって大きな意味を持つ作品だったのだ。
書名:世をへだてて
著者:庄野潤三
発行:2021/02/20
出版社:講談社文芸文庫