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札幌市「船山馨生誕地」18歳の未婚の母と貧しかった少年時代

札幌市「船山馨生誕地」18歳の未婚の母と貧しかった少年時代

札幌市「船山馨生誕地」訪問。

船山馨の生誕地には、札幌市教育委員会の設置した案内板がある。

住所は、札幌市中央区大通西8丁目、大通公園の南向かい側となっている。

18歳のシングルマザーと少年・船山馨

小説家・船山馨は、18歳の未婚の母のもと、この地に生まれた。小説家・船山馨は、18歳の未婚の母のもと、この地に生まれた。

昭和期に活躍した小説家・船山馨(ふなやま・かおる)が、札幌市南大通西8丁目の東側一角で生まれたのは、1914年(大正3年)3月31日のこと。

同世代人として、詩人の立原道造や歌手の笠置シヅ子、随筆家の池田弥三郎などがいる(いずれも1914年生まれ)。

少年時代の生活は裕福なものではなかったらしい。

むかし、私は札幌の街辻で、唐黍を売る祖母の手伝いをしていたことがある。まだ小学校へゆく前だから、大正八年か九年頃のことである。(船山馨「幼年期の味」)

当時の船山家では、四、五人の下宿人を置いた、いわゆる「素人下宿屋」を、祖母ひとりで切り回していたのだという。

「祖母は、新潟の山村から開拓農家として北海道へ渡り、労働と貧苦のなかで生涯を終えた」と、著者の回想にある。

そのころの札幌は、もう電燈のない家など稀らしかったが、私の家はながいことランプだった。電燈料が払えなくて、消されていたのかもしれない。だから、毎朝ランプの火屋磨きが、私の仕事であった。(船山馨「幼年期の味」)

母親は、札幌駅前の百貨店「五番館」に勤めていた。

母は自家に下宿していた金持の大学生と恋愛して、私を産んだ。しかし、相手が子供の生れたことを、うじうじと思い悩んでいるのを見ると、子供の認知さえ求めずに、自分から男と別れてしまった。(船山馨「北国の孤独な女たち」)

大学生と別れた母は、以来、十数年の女盛りを独りで過ごしたという。

私の母は十八歳で私を産み、終戦の年の秋、五十歳で世を去ったが、いわゆる母親らしいところの少しもない母親であった。(略)少年のころの私と母の関係は、親子というより姉と弟のそれであった。(船山馨「人間という名の母」)

高校時代は、現在は札幌西高校となっている札幌第二中学校に学んだ。

「君はどうして、この学校を志願したのか」と問われたときのことは、「二中的臆病について」という随筆に綴られている。

「一中には雪戦会がありますから」と、私はそのとき答えた。自分の臆病を公開の席で告白させられたようなもので、その時の恥ずかしさは長く尾を引いて心に残った。しかし、それが二中をえらんだ私の本当の理由だったのだから致し方がない。(船山馨「二中的臆病について」)

一中とは、現在は札幌南高校となっている札幌第一中学校のことだが、二中の伝統的な雰囲気の中には、良くも悪くも「臆病者の志」があるというのが、著者(船山馨)の主張だった。

やがて、二中を卒業した船山馨は、1931年(昭和6年)に上京して早稲田大学の予科(第一高等学院)の学生となる。

札幌から上京して早稲田へ入ったのは昭和六年(一九三一年)であったが、家からの仕送りはなかった。そういう条件でようやく母や祖母を説得して東京へ出てきたからである。私の家は貧乏で、母が西洋料理店の会計を勤め、祖母が素人下宿屋をやって辛うじて暮している有様だったから、ほんとうは中学へ進むのさえ問題があった。(船山馨「空腹な一九三一年」)

上京後は、札幌二中(現在の札幌西高校)で一年上級生だった佐藤忠良と同居しながら、貧しい学生生活を送ったが、新庄嘉章のフランス語の授業だけは欠かさずに出席していたという。

新庄嘉章は、谷崎精二や井伏鱒二を中心とする「竹の会」のメンバーで、泥酔して木山捷平の左手薬指を負傷させたというエピソードでも有名(木山捷平の『酔いざめ日記』に詳しく書かれている)。

現代的なビルのオープンスペースにある「船山馨生誕地」案内板

第一三共札幌支店ビルの前に立つ「小説家 船山馨生誕地」案内板。第一三共札幌支店ビルの前に立つ「小説家 船山馨生誕地」案内板。

貧窮の苦学生だったが、学費滞納で中退となり、一年間働いて学費を貯めてから、改めて明治大学の予科へ入学する。

昭和十二年の夏、私は明治も中退して、いったん家を畳んで上京してきていた祖母と病気の母を伴って札幌へ帰った。またもや学費が払えなくなったからである。(船山馨「春なお寒し」)

札幌では、亡き父が勤めていた新聞社「北海タイムス」(現在の「北海道新聞」)の校正係として就職、後に社会部学芸記者となった。

1952年(昭和27年)9月10日付け『北海道新聞』に「二代目記者」という文章が掲載されている。

私が北海タイムスへ入ったのはたしか昭和十一年ごろである。札幌の本社にいたのは一年あまりであとは昭和十七年の春に退社するまで東京支社勤務であったが、私は無能で、おまけに怠け者の記者であった。(船山馨「二代目記者」)

北海タイムス時代の経験は、芥川賞候補作となった名作『札幌物語』(1941年)に活かされている。

札幌の少年時代から東京での学生時代まで、船山馨の青春は、暗くて孤独な青春時代だった。

いま振返ってみても、私の青春期は貧乏と戦争だけしかなかったような気がしてならない。少なくとも昭和十四年以前はそうである。(船山馨「春なお寒し」)

18歳の少女と金持ちの下宿人の恋愛遊戯によって生まれた子ども「船山馨」の生誕地には、現在、第一三共札幌支店の現代的なビルが建っている。

ビルの北東一角はオープンスペースとして整備されていて、「小説家 船山馨生誕地」の案内板も、この敷地内にある。

かつて、ここに小さな素人下宿屋があったことも、下宿屋の少女と下宿人の大学生との間に、将来は小説家となる子どもが生まれたことも、今となっては知る人も少ない。

ただ、船山馨の小説に描かれている札幌は、確かに、地元・札幌への故郷愛に満ちた札幌だった。

貧しい暮らしの中にあってさえ、少年・船山馨は、我が故郷・札幌を愛していたのだろう。

大通公園ではトウキビ風味の「とうきびソフト」がおすすめ。大通公園ではトウキビ風味の「とうきびソフト」がおすすめ。

ちなみに、船山馨生誕地の北側に広がる大通公園は、札幌市民の憩いの公園である。

船山馨の祖母が売り歩いたというトウキビ(トウモロコシ)も、大通公園で買うことができるが、夏はトウキビ風味の「とうきびソフト」がおすすめ(500円)。

噴水の水しぶきを浴びながらソフトクリームを食べていると、札幌にも夏が来たことを実感できる。

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。