谷崎精二「明治の日本橋・潤一郎の手紙」読了。
本書は、1967年(昭和42年)に刊行されたエッセイ集である。
この年、著者は77歳だった。
大正モダンボーイだった谷崎潤一郎
谷崎精二は、小説家・谷崎潤一郎の実弟である。
兄の潤一郎ほどに高名ではないが、井伏鱒二や小沼丹の読者にとっては、早稲田大学の英文学者として、谷崎潤一郎以上に親しみのある文化人である。
本書は、1890年(明治23年)生まれの著者が綴った半生記風のエッセイで、およそ関東大震災(1923年/大正12年)の頃までのことが描かれている。
蛎殻町や南茅場町で生まれ育った著者にとって、日本橋は故郷そのものだった。
だから、本書で描かれている「明治の日本橋」は、谷崎精二にとっての故郷が描かれているということになる。
いわゆる明治の東京情緒が、そのまま幼少期の思い出になっているわけだ。
明治・東京の風俗と並行して、一緒に暮らした家族の姿が綴られている。
本作「明治の日本橋」は、日本橋の風俗と谷崎一家、この二つを大きな軸とした随筆と言うことができるだろう。
家族の中には、もちろん、実兄の谷崎潤一郎が登場する。
だが父は兄の小説は初期の作品を二つ三つ読んだきりで、後は読まなかったらしい。「何だか知らないが潤一の書くものはいやらしいな。あんなのが今のはやりなのか」と嘆じていた。(谷崎精二「明治の日本橋・潤一郎の手紙」)
どうも、谷崎潤一郎は、父母にとって(そして弟にとっても)、あまり自慢のできる家族ではなかったらしい。
ろくに学校にも通わずに文学なんかやっている放蕩息子という扱いだったのではないだろうか。
巻頭のグラビアに、大正6年頃に撮影された、谷崎潤一郎(31歳)と谷崎精二(27歳)兄弟二人の写真が掲載されている。
洋服に革靴を履いた潤一郎は、いかにもモダンボーイ風のお洒落な若者で、絶対に女の子が好きだっただろうなという印象。
それに対して弟の精二は、和服姿のきっちりと分けられた髪に眼鏡姿で、これまた、いかにも大学の先生といった風情を漂わせている。
江戸時代生れの両親にとって、モダンボーイの潤一郎は、かなり異質の存在だったのではないだろうか。
明治年末、文部省の「文芸委員会」で優秀な文学作品に賞金を与えることになったとき、谷崎潤一郎の短編集『刺青』も候補になった(審査員は森鴎外や島村抱月など)。
新聞を読んだ父は「おかみ(政府)の褒美なんか貰うのはまだ早過ぎるな。若い中から名が高くなって慢心してはいけない」と言ったそうである(結局、この企画は中止になった)。
明治時代の東京下町(日本橋界隈)のエピソード
青年時代、谷崎精二は兄と同じく文学志望を持っていた。
学生時代から私はぽつぽつ小説を書いて「早稲田文学」へ載せて貰ったが、他の雑誌へも寄稿したいと思い、一度「スバル」へ原稿を推薦してくれないかと兄に頼んだら、「じゃあ、吉井(勇氏)のところへ原稿を送ってみろ」と云われ、早速「スバル」編集部内吉井氏宛小説の原稿を送ったが、幾月たっても掲載されなかったので、「弁護士平出修法律事務所」という看板の掛った、神田神保町のスバル編集部を訪れた。(谷崎精二「明治の日本橋・潤一郎の手紙」)
『早稲田文学』では、葛西善蔵などと仲間だったが、結局、兄のような流行作家になれなかった精二は、母校・早稲田大学の教員として専念しながら、エドガー・アラン・ポーの作品の翻訳などを手がけることになる。
早稲田大学の文学部長に就任するのは、1946年(昭和25年)のことだ。
いろいろと読みどころの多いエッセイ集だが、谷崎潤一郎のエピソードよりも、明治時代の東京下町(日本橋界隈)の話におもしろいものが多かった。
五十年近い昔、久保田万太郎君に始めて会った時、「私、久保田です、ついかけ違いまして」と挨拶されたが、「かけ違いまして」というのも江戸の商人の言葉であろう。「始めまして」ではなく、会う機会があった筈なのについ、かけ違って会えなかったという意味で、この方が情がこもっている気がする。(谷崎精二「明治の日本橋・潤一郎の手紙」)
明治東京のさりげない日常風景が、眼に浮かんでくるかのようだ。
谷崎精二の作品を読むのは、これが初めてだけど、もっと読みたいと思わせてくれるエッセイ集だった。
文庫化して、いつまでも読めるようにすべき作品だと思う。
書名:明治の日本橋・潤一郎の手紙
著者:谷崎精二
発行:1967/3/25
出版社:新樹社