文学鑑賞

鈴木大拙「禅仏教入門」サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』の出典を探す

鈴木大拙「禅仏教入門」あらすじと感想と考察

鈴木大拙「禅仏教入門」読了。

本作「禅仏教入門」は、1934年(昭和9年)に英文で出版された禅の入門書である。

原題は『An Introduction to Zen Buddhism』。

サリンジャー「テディ」の出展

『謎ときサリンジャー』で、サリンジャーが短編小説集『ナイン・ストーリーズ』を刊行する前に読んでいただろうと推察されているのが、本書『禅仏教入門』である。

たしかに鈴木の諸著作が英米の出版社から再版されるようになったのは主に四八年以降ではある。しかし、サリンジャーが四〇年ごろに通ったコロンビア大学には東アジア図書館があり、当時から鈴木の英文著作に触れることは可能であっただろう。(竹内康浩・朴舜起「謎ときサリンジャー」)

もはや、文学を遠く離れているような気もするが、乗りかかった船なので最後まで読んでみたら、意外とおもしろかった。

いかにもサリンジャーの小説に書いてありそうなことが、随所に出てくる。

80年前のアメリカで、この本に触発されているサリンジャーがいたと考えることは楽しい。

『バナナフィッシュにうってつけの日』の謎解きはともかくとして、サリンジャーという作家のバックボーンに、こんな本があったのだということを知ることができたのは収穫だと思う。

本書は「禅とは何か?」ということを分かりやすく説く入門書だが、禅において一番の基本になっているのが「理屈からの脱却」である。

私は、禅は神秘主義であると言った。このことは、禅が東洋文化の基調をなしていることを知るとき、当然なことと言わねばならない。まさしくこの点において、西洋が東洋の心の深みを正確に測りえない点であるのだ。というのは、神秘主義はその本来の性質からして、論理分析を拒むものであるが、その論理こそ西洋的思考の最も基本的な性格・性質をなすものだからである。(鈴木大拙「禅仏教入門」増原良彦・訳)

西洋的思考の根幹である論理を捨てるという考え方は、何度も何度も繰り返し説かれていて、この部分を理解しないと、禅の理解は、どうやら難しいらしい。

これは、『ナイン・ストーリーズ』所収の短篇「テディ」の中で、主人公のテディが言っていることと通じるものであり、テディの発言の出典を見つけたような気がした。

論理を捨てて、合理化を断ち切る

『ナイン・ストーリーズ』に関連する記述としては、エピグラムに引用されていた「隻手の音声」が出てくる。

白隠禅師はよく片手を突き出して、弟子たちに隻手の音声を聞けと要求した。普通には両手を拍ったときに音響が生じるものであって、その意味からすれば、片手だけではどんな音も聞こえてこないはずである。しかしながら白隠は、いわゆる科学的・論理的と呼ばれる碁盤の上に建てられたわれらの日常生活を根本から撃滅せんとしたのである。(鈴木大拙「禅仏教入門」増原良彦・訳)

どうやら、『ナイン・ストーリーズ』のエピグラムの出典も、このあたりにあるらしい。

物事には、ちゃんと根拠があるんだということを、今さらながらに学んだような気がして楽しい(笑)

ただ、ここで気になったのは「公案とは知的に理解するものではない」という文脈である。

これは、先述の「論理を捨てる」ということに繋がるが、「片手の音を聞け」という公案は、まさしく理屈で説明できるものではない。

つまり、「テディが右耳を右手で叩いた」とか、そんな話ではないということである。

禅の公案「隻手音声」については、ひろさちや『公案解答集』に解説がある。

本書には「公案は一般に合理化へのあらゆる通路を断ち切るものである」ともある。

仮に、サリンジャーが、「バナナフィッシュ─」におけるシーモアの死を合理化するために、「隻手音声」という禅の公案を持ち出しているのだとしたら、それは既に、禅の否定へとつながるものだったのではないだろうか。

「テディ」において、テディは「林檎という論理を吐き出してしまえ」という趣旨のことを言っている。

それは「合理化へのあらゆる通路を断ち切れ」と言っているのと、同じことだろう。

片手で音を出すなんて、論理的な説明は不可能である。

論理を越えたところに、禅の求めるものがあるのであって、「シーモアの自殺」に合理的な理由を求めることが、そもそも無意味なのだ。

こういうことを考えていくと、現代文学そのものの否定に発展していきそうで怖い。

文学的考察というのは、そもそも作家と文芸作品、あるいは読者と文芸作品との間を、合理的な説明でつなげることを目的としているからだ。

論理を捨てて、合理化を捨てたら、それは既に文芸批評ではないし、読書ですらなくなる。

もしも、サリンジャーが本当に本書を理解して、禅の思想に共感していたのだとしたら、永遠の謎と言われた「シーモアの自殺」に合理的な説明を付けようとするだろうか。

実際、サリンジャーの小説は、「ズーイー」「シーモア」「ハプワース」と進むごとに、論理性を無視し、合理性を失っていくようになる(たぶん、みんなそう感じていると思う)。

そんなサリンジャーが、あの支離滅裂の「ハプワース」で、「バナナフィッシュ─」におけるシーモアの死の謎に、合理的な説明を付けようとするのだろうか─。

分からない。

分からないけれど、そんなことに悩んでいるあたりで既に、僕は禅という世界に入り切れていないような気がする。

禅入門失格だ(早すぎだろ笑)。

書名:禅仏教入門
著者:鈴木大拙
訳者:増原良彦
発行:1991/07/20(2008/06/30新装版)
出版社:春秋社

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。