読書体験

【深読み考察】村上春樹『1Q84』が「意味不明」「何が言いたい」と言われる理由

【深読み考察】村上春樹『1Q84』が「意味不明」「何が言いたい」と言われる理由

村上春樹『1Q84』読了。

本作『1Q84』は、2009年(平成21年)から2010年(平成22年)にかけて、新潮社から刊行された長篇小説である。

「BOOK1」及び「BOOK2」発表の年、著者は60歳だった。

発表年は次のとおり。

「BOOK1」
2009年(平成21年)5月刊行

「BOOK2」
2009年(平成21年)5月刊行

「BOOK3」
2010年(平成22年)4月刊行

 

『1Q84』はなぜ「意味不明」と思われるのか?

Google検索で「1Q84」と入力すると、「1Q84 意味不明」「1Q84 何が言いたい」といった候補が表示される。

村上春樹の『1Q84』は、「BOOK1」「BOOK2」「BOOK3」いずれもミリオンセラーを記録した大ベストセラー小説で、特に「BOOK1」と「BOOK2」は、トーハンの「2009年年間ベストセラー」総合1位を獲得した。

文学書として異例の大ヒットを飛ばす一方で、内容については「十分に理解できない」「おもしろくない」という感想を抱く読者を多く輩出したことも、また事実らしい。

『1Q84』の理解が難しい原因としては、いくつかの要素が考えられる。

第一として、単純に長すぎる小説であること(村上春樹の全作品の中で、最も長い小説である)。

いくらベストセラー小説とはいえ、かなりのボリュームがあるので、普段から長い小説に慣れていない読者には、そもそも完読が難しい可能性がある。

そして、この手の小説というのは、流し読みすることによって、大切なポイントを読み落としてしまうと、物語のメッセージそのものをつかむことが困難になってしまう。

長い小説というのは、それなりに時間をかけて咀嚼して、そこに書かれている文章を、自分なりに消化しなければならない。

第二として、長い小説であることに伴って、複数のテーマが、複雑に交錯した構造となっていること。

「犯人は誰だ?」的に単一のテーマを持つミステリー小説と違って、『1Q84』では、複数のテーマが複雑に交錯している。

しかも、小説のテーマは何か?ということを、読者自身が把握しなければならない構成となっているので、長い物語の迷宮に迷い込んだら、二度と戻ってくることができない可能性がある。

第三として、これも長い小説であることに伴ってということになるが、物語を構成するエピソードの数が膨大であるということ。

長篇小説において、個々のエピソードは、パズルのピースみたいなものだから、エピソード同士の関連性を、自分の頭の中で整理する必要がある。

それが膨大な量になると、組み合わせが難しいばかりか、作品テーマとの関連付けも、かなり困難な作業となり得る。

その上、一つのエピソードが複数の意味を有する場合もあるから、ひとつひとつのエピソードを消化する作業も、決して簡単なものではない(だからこそ「読書は楽しい」ということにもなるのだが)。

第四として、『1Q84』では、現実世界ではあり得ない奇想天外な出来事がナチュラルに展開するから、こうした超常現象に惑わされると、小説を読み進めることが難しくなってしまう。

『1Q84』は、あくまでも「物語」であり、そこにリアリティ(現実的かどうか)を求める必然性はまったくない。

大切なことは、個々のエピソードにリアリティを探すことではなく、全体の大きな流れの中に、自分なりのリアリティを見つけることができるかどうかということなのだ。

最後に第五として、そもそも小説の中に答えは書かれていない。

本文中に「小説家とは問題を解決する人間ではない。問題を提起する人間である」というチェーホフの引用があるとおり、ここに問題を解決するための答えはない(おそらく)。

「私はなんとなく思うんですがね、川奈さん、それは『はい、こういうもんですよ』って他人が簡単に解答を差し出せるものではないんじゃないでしょうか。それは川奈さん自身が自分で出かけていって、額に汗して発見しなくちゃならんことじゃないでしょうか」(村上春樹「1Q84 BOOK2」)

『1Q84』は、あくまでも問題提起の物語であり、そこから答えを導き出すことこそが、読者に与えられた命題なのだ(「説明しなくてはそれがわからんというのは、つまり、どれだけ説明してもわからんということだ」)。

そういう観点で、この『1Q84』を読み終えたとき、僕は、非常に完成度の高い、素晴らしい小説だと思った(好きか嫌いかという判断は別にして)。

『1Q84』は、質量ともに、村上春樹の代表作となる大長編小説だと思われる(おそらくは『ねじまき鳥クロニクル』や『海辺のカフカ』を超えて)。

それでは、一読者として、僕は、どうして『1Q84』を「素晴らしい小説」だと感じたのだろうか。

『1Q84』は「孤独な男女の再生物語」として読む

『1Q84』は、孤独な男女が愛し合い、子どもを得たことで孤独から解放される、再生物語である(極めて単純化すると)。

つまり、この小説の最も根源的なテーマは、「男女の愛」であり、「孤独からの解放」ということだ。

長くて複雑な小説は、骨格(プロット)だけを取り出すことで、あらすじ(ストーリー)が分かりやすくなる。

主人公の川奈天吾(30歳)は、小説家志望の予備校講師(数学)。

十歳年上の人妻(安田恭子)と割り切った関係(セックスフレンド)を続けているが、特定の恋人はいない。

文学面でもパッとした成果を挙げることのできない天吾は、くすぶり続けている青年として描かれている(「僕には一人の友達もいない。ただの一人もです」)。

一方で、もう一人の主人公(ヒロイン)の青豆雅美(30歳)も、高級スポーツクラブのインストラクターとして働きながら、女性に虐待を働く男たちを殺す暗殺者として、孤独な日々を過ごしている。

彼らの周りには、なぜか孤独な人々が多い。

青豆の親友(大塚環)は、夫の家庭内暴力(DV)に苦しんだ末、首吊り自殺をしているし、ナンパ仲間の婦人警官(中野あゆみ)も、幼少期の性被害体験を抱えながら、ゆきずりの男たちとセックスを繰り返した末、ホテルで殺されているところを発見される。

青豆が慕う柳屋敷の老婦人もまた、娘を自殺で失った母親だ(原因は夫の家庭内暴力だった)。

天吾の担当編集者(小松さん)は、60年安保闘争で挫折した経験を持つ。

噂では、小松が東京大学文学部にいたときに六〇安保闘争があり、彼は学生運動組織の幹部クラスだったということだ。樺美智子がデモに参加し、警官隊に暴行を受けて死んだときにすぐ近くにいて、彼自身も浅からぬ傷を負ったという。(村上春樹「1Q84 BOOK1」)

天吾の父は、妻(つまり天吾の母)が、若い男と駆け落ちをして、その男に殺されたという過去を持つ(天吾はその事実を知らないが)。

母のいない天吾は、NHKの集金人だった父のもとで、毎週日曜日ごとにNHKの集金に出かけるという少年時代を過ごしており、孤独の根深さを感じさせる。

同じように、「証人会」という宗教団体に属する宗教一家で育てられた青豆もまた、孤独な少女だった(「孤独な一人の少年と孤独な一人の少女だ」)。

二人は、十歳のときに、それぞれ家庭からの逃避を決意し、より一層孤独な人生を歩むことになる。

幼少期の性被害や虐待の記憶を抱えながら孤独の中に生きる登場人物たちは、現代社会の象徴的な存在であり、この孤独な社会(システム)から、どのようにして逃れるかということが、この物語の大きな命題となっている(こうした世界観は、多くの読者の共感を呼ぶ背景になっていると思われる)。

天吾と青豆の二人を、強い孤独から解放する大きな原動力となったのは、互いに求め合う無垢の愛だった(「翳りのない絶対的な愛」──それが『1Q84』最大のテーマだった)。

1Q84年──私はこの新しい世界をそのように呼ぶことにしよう。青豆はそう決めた。Qは question mark のQだ。疑問を背負ったもの。彼女は歩きながら一人で肯いた。(村上春樹「1Q84 BOOK1」)

「疑問を背負った世界」は、そのまま、現在、我々が生きている現実世界に対する「疑問」でもある。

なぜなら、時空を超えた「1Q84年」は、我々が生きる現実世界に対する問題提起として生み出されたものとして読むことができるからだ。

「で、そういうことをしますと、そのあとの日常の風景が、なんていうか、いつもとはちっとばかし違って見えてくるかもしれない。私にもそういう経験はあります。でも見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです」(村上春樹「1Q84 BOOK1」)

ふかえり(深田絵里子、17歳)の書いた小説『空気さなぎ』のリライトを通して、天吾は、新しい世界(1Q84年)を獲得する。

「話は簡単だ」と小松はコーヒースプーンを細かく振りながら続けた。「その二人を合体して、一人の新しい作家をでっちあげればいいんだ。ふかえりが持っている荒削りな物語に、天吾くんがまっとうな文章を与える。組み合わせとしては理想的だ」(村上春樹「1Q84 BOOK1」)

二人(天吾と青豆)の孤独を浄化する直接的な機能を果たしているのは、間違いなく、ふかえりの『空気さなぎ』だ。

『空気さなぎ』をリライトしたことで、人間的に成長した天吾は、長年に渡る父親との確執を乗り越えて、死に瀕している父と和解する(少なくとも、天吾としては)。

一方、柳屋敷の老婦人の指示により、カルト教団「さきがけ」のリーダー(深田保)を暗殺した青豆は、天吾に対する愛を深め、天吾と一緒に「1Q84年」の世界から脱出することを、はっきりと自覚するようになる。

このとき、天吾と青豆は、10歳のとき離ればなれになって以来、一度も再会したことのない状態が続いていたが、互いの強い意志によって結ばれることになる。

男女の運命的な再会は、短編小説「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」を踏襲したものだ。(『カンガルー日和』所収)。

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【深読み考察】村上春樹「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」村上春樹「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」読了。 本作は、伊勢丹百貨店『トレフル』1981年(昭...

二人の愛を決定づけたのは、17歳のふかえりの肉体を通して、青豆が天吾の子どもを妊娠してしまうことだろう。

天吾とセックスをしていたふかえりは、神がかり的な媒介者であり、天吾の大量の精液は、ふかえりの肉体を通して、青豆の子宮内へと注ぎこまれていたのだ(多分に神話的な発想だが)。

天吾の子どもを宿り、20年ぶりに天吾と再会した青豆は、天吾と一緒に「1Q84年」を脱出する。

こうした筋書きは、天吾と青豆の二人が、孤独な人生から解放される経過を物語化したものであり、読者は、物語を通して、純粋な愛の力を再認識することになる(つまり、ここにテーマがあるということだ)。

『1Q84』において「物語」が意味しているもの

この小説で、もうひとつ大切なこととして、物語が持つ意味の大きさにも注目したい。

もともと、神童と呼ばれるほど、類い希な数学の能力を有していた主人公(天吾)は、数式では答えを出すことのできない文学の力に魅せられて、小説家の道を目指す。

これは、物語が持つ力を信じる作者の強い思いが反映されている部分だろう(正解がないところにこそ、文学の力がある)。

小説を書くとき、僕は言葉を使って僕のまわりにある風景を、僕にとってより自然なものに置き換えていく。つまり再構成する。そうすることで、僕という人間がこの世界に間違いなく存在していることを確かめる。それは数学の世界にいるときとはずいぶん違う作業だ」(村上春樹「1Q84 BOOK1」)

「まわりにある風景を再構成する」手法は、村上春樹文学において、最も基本的な哲学となっているものだ。

「置き換えられた世界」にとらわれすぎると、読者は、物語を理解することが難しくなる。

それは『1Q84』も同じで、大切なことは、この物語の「元の姿」は何だったのか?ということを感じとることだ(それが「作者の伝えたかったこと」に近づくヒントになる)。

天吾は『空気さなぎ』のリライトを通して、新たな文学的気付きを獲得していくが、これは、外国文学の翻訳作業を通して、作家としての気付きを得てきた作者自身の体験を投影したエピソードとして読むことができる。

しかしいずれにせよ、そんな内的な変化は『空気さなぎ』がきっかけとなってもたらされたようだった。ふかえりの物語を自分の文章で書き直したことによって、自らの内にある物語を自分の作品としてかたちにしたいという思いが、天吾の中で強くなった。(村上春樹「1Q84 BOOK2」)

つまり、無垢の恋愛感情と、強い文学への信仰は、主人公たちの再生を促す強力なエネルギーとして理解することができる、ということだ。

『空気さなぎ』の出版に対して示されたリトル・ピープルの激しい怒りは、優れた物語に対する強いアレルギー反応だったと考えてもいい。

リトル・ピープルが暗躍する「1Q84年」において、人々の心を揺り動かす文学作品は、決して歓迎されるべき存在ではなかった(『空気さなぎ』が問題なのではなく、優れた物語であることに問題があった)。

ふかえりの原作を優れた物語へとリライトした主人公(天吾)は、自らの手によって、「1Q84年」に対する(ひいてはリトル・ピープルに対する)強い警鐘を鳴らしたと言うことができるかもしれない。

そもそも、青豆と天吾を結び付けたものは、天吾の描いた物語世界だった。

「私はつまり、天吾くんの物語を語る能力によって、あなたの言葉を借りるならレシヴァとしての力によって、1Q84年という別の世界に運び込まれたということなのですか?」(村上春樹「1Q84 BOOK2」)

「パシヴァ」と「レシヴァ」は、一人の小説家を象徴するキーワードでもあったのだろう。

「1Q84年」を脱出する際、青豆は天吾の原稿に必要以上の注意を払っている。

「書きかけの小説の原稿を持ってきた?」「ここに持っているよ」(略)「それを放さないで」と青豆は言う。「私たちにとって大事な意味を持つものだから」(村上春樹「1Q84 BOOK3」)

それは、新しい物語こそが、世界を変える原動力になり得ると、青豆が信じていたからに他ならない。

文学的な意味において、天吾とふかえりは「一人の人間」として読むことができる。

一人の作家(つまり作者自身だろう)を、象徴的に分離した存在が、天吾とふかえりというキャラクターだった(「わたしたちはひとつになっている」「わたしたちはふたりでひとつだから」)。

もしかすると、天吾とふかえりのセックスによって青豆が孕んだ子どもは、一つの物語を象徴するものだったのかもしれない(「しかしもし仮にふかえりと青豆という二人の女性を結びつけている要因があるとするなら、それは天吾自身のほかにはあり得なかった」)。

これは、生物学的な子どもを持たない小説家が、物語を生み出すことによって、歴史に果たす役割を暗示しているようにも読める(さすがに、深読みしすぎか)。

チェーホフ『サハリン島』の引用もまた、作者自身の投影として読むことができる。

「僕にも似たような体験はある。地図を眺めているうちに、『何があっても、ここに行ってみなくっちゃ』という気持ちになってしまう場所がある。そして多くの場合、そこはなぜか遠くて不便なところなんだ」(村上春樹「1Q84 BOOK1」)

村上春樹にとっての「サハリン島」が、つまり、『アンダーグラウンド』や『約束された場所で』などに描かれた世界だった(カルト宗教のカオス的世界)。

「猫の町」は、作者自身の物語世界でもある(「原稿用紙に向かっているあいだ、彼の意識はその世界で暮らしていた」「きっと『猫の町』に入り込んだ主人公もそれに似た気分を味わったのだろう」)。

物語を通して、自分自身を浄化する(あるいは治癒する)──そんな文学の世界の可能性を、『1Q84』は伝えてくれているのではないだろうか(少なくとも僕は、そんなメッセージを読み取った)。

孤独な人々を囲う原理主義と無垢の愛の対立

孤独な登場人物に象徴される現代社会は、善悪の判断が曖昧な世界である。

損なわれた女性たちに代わって復讐を果たす(男たちを暗殺する)青豆は、彼女たちの理論において正義であり、規定に基づいて受信料金を徴収して回るNHKの集金人(天吾の父)も、また、彼らの理論において正義だ。

カルト教団「さきがけ」や、武闘集団「あけぼの」も、彼らなりの正義と倫理の中で活動しているのであり、ここに現代社会を生きる難しさがある(正解がない)。

彼女はサダト大統領の頭の禿げ方がけっこう気に入っていたし、宗教がらみの原理主義者たちに対しては、一貫して強い嫌悪感を抱いていたからだ。そういった連中の偏狭な世界観や、思い上がった優越感や、他人に対する無神経な押しつけのことを考えただけで、怒りがこみ上げてくる。(村上春樹「1Q84 BOOK1」)

原理主義者たちに対する青豆の疑問は、物語全体を通して投げかけられている、作者からのメッセージだ。

結局、天吾と青豆は、彼ら自身の信念に従って「1Q84年」を脱出するのだが、愛と絆によって支えられた信念を持たない者は、「1Q84年」の中で埋もれていくしかない(例えば、牛河がそうであったように)。

これは私の人生であり、ここにいる私の子供なのだ。(略)誰の手にも渡しはしない。何が善なるものであれ、何が悪なるものであれ、これからは私が原理であり、私が方向なのだ。(村上春樹「1Q84 BOOK3」)

この物語のポイントは、それが、過去(1984年)の物語であるということと、現実とは異なる世界(1Q84年)の物語であるということにある。

時空を超えた世界は、ひとつの仮想世界として提示されているものであり、仮想世界に自身を投影することによって、読者は物語の深い内部へと入り込むことが可能なのだ。

仮想世界の出来事について、現実か非現実かを議論する意味はないし、むしろ、物語の中で起こったすべての出来事を受け容れるところから、我々の思考は始まる。

つまり、善悪の判断を求められているのは、読者自身であり、物語世界を深く探究していくことによってしか、我々は、この物語を本当に理解することはできない。

もしかすると、この物語の根底を成している「愛」と「絆」の、最も原始的な形が「親子の愛」だったのではないだろうか(究極の「無垢の愛」と言えば、親子の愛情に勝るものはない)。

NHKの集金に同行することを拒否したことで、天吾は父親と断絶状態となり、父母が信仰する宗教を棄てたことで、青豆は家族から捨てられた。

生まれてから誰かに本当に愛されたこともなく、誰かを本当に愛したこともなかった。誰かを抱きしめたこともなく、誰かに抱きしめられたこともなかった。(村上春樹「1Q84 BOOK3」)

二人の最大の孤独の要因は、親子の断絶にある。

逆説的に言えば、親子の絆を回復することで、孤独からの解放は可能となるわけで、実際、天吾は意識不明の父親と(半ば一方的に)和解することによって、自身が有する孤独の一部を解放した。

一方で、天吾の子どもを宿した青豆は、新しい家族の絆を死守することによって、孤独からの解放を目論んでおり、『1Q84』という物語において「親子の絆」が持つ意味は大きい。

あるいは、「親子の絆」の回復こそが、1Q84年的世界からの脱出に向けて与えられた、この物語の文学的テーゼだったのかもしれない(「おれはもっとしっかり腰を据えて、父親に対面しなくてはならないのかもしれない」)。

そう考えると、「マザ(mother)」と「ドウタ(daughter)」は、かなり濃厚に、「親子の絆」を想起させるモチーフだと言える(「ドウタが目覚めたときには、空の月が二つになる」)。

カルト教団「さきがけ」が、「オウム真理教」をモデルとしていることに間違いはないが、カルト教団を下敷きにして描かれた物語は、より大きく、より根源的なテーマを示している。

リトル・ピープルは、愛なき子どもたちであり、現代社会を象徴する孤独な人々そのものである。

彼は今では、空気さなぎやリトル・ピープルを自分自身の内部にあるものとして眺めるようになっていた。それらが何を意味するかは、天吾にも正直言ってよくわからない。しかし彼にとってそれはさして重大なことではない。その実在を受け入れられるかどうか、というのが何より大きな意味を持つことだ。(村上春樹「1Q84 BOOK2」)

彼らは、現代社会の歪みから生じた、愛なき孤独の落とし子なのだ。

それは、1Q84年的世界のみならず、2024年的世界にもあり得るものだし、もっと言えば、我々自身の中にも生じ得るものだろう。

孤独な人々を救済する原理主義(カルト教団)と、無垢の愛によって結ばれた強い絆。

細部を読み込んでいくと、そのような対立構造が、この物語にはある。

そして、世の中を変えるべく力を持った物語(文学)への信仰。

カルト教団・無垢の愛・文学への信仰という三つのテーマが、この物語の大きな屋台骨となっている。

「1Q84年」という設定がほのめかしているものは、世界の歴史は、ほんの小さなポイントから大きく変化していく危険性がある、ということだろう(まるで、レールのポイントを切り替えるかのように)。

『風の歌を聴け』から『ねじまき鳥クロニクル』まで、村上春樹の小説は、徹底的に自分自身を掘り下げる小説だった(「井戸掘り」とか「壁抜け」などと呼ばれる)。

自分自身の根源を辿ることで、人間という普遍的な存在を解き明かそうとしたのだ。

『ねじまき鳥』で一定の達成感を得た作者は、以降、現代社会を深く掘り下げる小説を書き始める。

そこには、阪神淡路大震災やオウム真理教による地下鉄サリン事件などの社会的体験が深く関わっていると言っていい(『アンダーグラウンド』や『約束された場所で』)。

そして、本作『1Q84』では、孤独な若者たちという個人と、カルト教団という現代社会の闇が、ひとつの物語として提起された(村上春樹がこだわり続けている「総合小説」)。

もっとも、村上文学の支持者の中にも、ひたすらに「個人の闇」を深く掘り下げる物語が好きだったという読者は少なくない。

特に、突っ走るような(荒削りな)文章が魅力でもあった『ダンス・ダンス・ダンス』までの作品を高く評価する読者にとって、『1Q84』が優れた小説ではあることは認めつつ、「素直に感情移入できる物語ではない」という思いもあるのではないだろうか(あくまで、個人的な好き嫌いの問題だとは思うけれど)。

小説とは直接の関係はないが、気分を盛り上げながら読書したい人のために、BGMとしてぴったりのCDがある。

『ヤナーチェク・シンフォニエッタ~小説に出てくるクラシック』『ヤナーチェク・シンフォニエッタ~小説に出てくるクラシック』

『ヤナーチェク・シンフォニエッタ~小説に出てくるクラシック』は、『1Q84』で重要な役割を果たしているヤナーチェクのシンフォニエッタや、バッハの平均律クラヴィーア曲集を収録した、『1Q84』のためのアルバムだ。

柳屋敷の老婦人の好きなハイドンのチェロ・コンチェルトなども収録されているので、『1Q84』的世界に迷いこんでしまいたい人にはおすすめ(「猫の町」から戻れなくなるかもしれないけど)。

なんだかんだ言って、考えることが多いので、村上春樹の『1Q84』は、読み解きの好きな小説好きの人には読む価値あり(好き嫌いは別にして)。

というか、考えなければならないことしかないので、読み解きが苦手な人は、覚悟して読むしかないだろうな(冷たいようだけれど)。

書名:1Q84 BOOK1~BOOK3
著者:村上春樹
発行:2009/05/30、2010/04/16
出版社:新潮社

ABOUT ME
みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。