庄野潤三「ぎぼしの花」読了。
本作「ぎぼしの花」は、1985年(昭和60年)4月に講談社から刊行された随筆集である。
この年、作者は64歳だった。
エネルギッシュな仕事を反映
様々な媒体に発表された文章を集めた随筆集だから当然だが、この時代の庄野さんの仕事を反映した作品が多い。
例えば、『ガンビアの春』(1980)に関わって、ケニオン大学時代のエピソードがいくつかある。
その中心的な文章が「『ガンビアの春』補記」だ。
小沼丹の小説を読んだウエバーさんから、「私はこの作品が好きです。原作の持つ香気がどれだけ伝えられているかは私には分りようがありません。しかし、サイデンステッカー氏の文章は、英語の散文として非常に優れたものです」という感想が届いた。(庄野潤三「『ガンビアの春』補記」)
復刊した『ケニオン・リビュウ』に翻訳・掲載された小沼丹の作品は、テニス仲間ケネディ君の思い出を綴った「沈丁花」だった(作品集『藁屋根』所収)。
盟友(小沼丹)のエピソードは「猫と青梅とみやこわすれ」にも登場している(池の金魚を狙う野良猫を追い払う話)。
小沢書店「小沼丹作品集」内容見本のために書かれた文章もいい(「小沼丹を好む人が多くなって来ているという」)。
『ケニオン・リビュウ』最新号(1980年冬期号)には、ウディ・アレンの短篇「最も軽薄な男」が掲載されていたという。
「兄の贈物」は、ガンビアへ旅立つ際、次兄(庄野英二)からスケッチブックを贈られた話がベースになっている。
次は私たちの入っていた「白塗りバラック」の内部を四枚に分けて写生している。(略)この「白塗りバラック」は私たちが帰国してあまりたたない頃に取り壊された。(庄野潤三「兄の贈物」)
『ガンビア滞在記』『シェリー酒と楓の葉』『懐しきオハイオ』の読者には、懐かしい話題が、次々と登場する。
神戸をテーマにした『早春』(1982)に由来する文章も多い。
「箕面の滝」は、大阪外国語学校時代の友人と、神戸にある箕面の滝を訪ねる話。
はたちにならん前に来て、次に来た時は六十やなと松井がいう。前は十八やった。松井と佐伯は別として、私なんかは「ありし昔の最もわびしいなごり」(チャールズ・ラム)のわが頭髪を顧みれば、十八歳という言葉を口にするさえ気が引けるが、その通りではある。(庄野潤三「箕面の滝」)
「早春の会」が登場する「秋扇」という随筆もある。
先日、久しぶりに神戸へ出かけた。四月に芦屋の叔父夫婦と私の学校友達でお祖父さんの代から市内の下山手通に住むS君と私たち夫婦の五人が集まって、一緒に夕食を食べたが、その折、叔父夫婦が九月に金婚式を迎えるという話を聞いて、ではこの次はそのお祝いの会をしましょうといった。(庄野潤三「秋扇」)
「S君」とあるのは、「箕面の滝」にも一緒に行った友人(佐伯)のことだろう。
神戸の下山手通八丁目にお祖父さんの代から住んでいる友人の佐伯太郎がいる。近くの大倉山公園に市立中央図書館があり、よく利用しているらしい。(庄野潤三「大倉山公園の図書館」)
こういう文章を読んでいると、あの爽やかな神戸の青春物語を、もう一度読み返したくなる。
「チューリップと豆大福」は、『陽気なクラウン・オフィス・ロウ』(1984)と関係がある。
庄野夫人と二人、ロンドンへ出発する朝の様子を綴ったミニ紀行文だ。
当日、私は六時半に起きたが、妻はそれまでに洗濯などすっかり済ませていた。朝御飯が終ったところへ近くに住む長男夫婦が庭先に現れ、お早うございますと声をかけ、ハイヤー、もう来ていますよといったから慌てた。(庄野潤三「チューリップと豆大福」)
成田空港行きのバスに乗る箱崎インターチェンジでは、長男夫婦のほか、『文学界』編集部の松村善二郎、高橋一清の二人が見送ってくれた。
1980年代における庄野さんの旺盛な仕事ぶりは「雲隠れ」にも表れている。
紅茶茶碗とか果物の皿が置かれるべきその卓の上にも本がいっぱいになっている。(略)去年までは「エリア随筆」のチャールズ・ラム。いまはギルバートとサリヴァンのオペラ。(庄野潤三「雲隠れ」)
庄野さんのエネルギッシュな仕事は、1986年(昭和61年)刊行の『サヴォイ・オペラ』まで続く。
『サヴォイ・オペラ』完成直後、庄野さんは脳内出血で緊急入院し、大きな負担のかかる仕事からは遠ざかるようになってしまった(その闘病記が『世を隔てて』)。
晩年の家族シリーズは、そのために生まれたという側面もあるので、人生というのは分からないものだと思う。
身辺雑記ひとつ取っても、この時期に書かれた文章は、熟練の技を感じさせるものが多い。
表題作「ぎぼしの花」は、その代表的なものだろう。
南足柄の長女からもらった庭の花の話が、いつの間にか、チャールズ・ラムの話へと流れていく展開は、まるで、往年の福原麟太郎を読んでいるようだ。
夏の日の午後であった。東印度会社の若い会計係であるラムがそこを歩いていると、向うから真面目な、物思いにふけっているような人物がやってきた。(庄野潤三「ぎぼしの花」)
広辞苑の「ぎぼうし」で終わる着地も見事で、帯文に「庄野文学の精髄 名品77篇」とあるのは、決して過言ではない。
それだけに、若いころの苦労を思わせる文章には、一層の味が染み出ている。
「初めて候補になった頃」は、芥川賞を受賞するまでの心境を回想したもの。
皮肉なことに私があれだけ待ち望んだ受賞の知らせは、もう芥川賞は貰えなくてもいい、一生このまま仕事を続けて行こうと覚悟が定まって何ヵ月かたった時に受け取った。(庄野潤三「初めて候補になった頃」)
作家として生きていく上で、芥川賞は、その足元を固めてくれるものだったのかもしれない。
庄野さんの作家人生で最も苦しかった時期の回想もある。
私は考えあぐねて答えを見出せないでいた。そのためにあれこれと無駄骨折りのような毎日を送っていた。原稿用紙の字がみっともないかみっともなくないか、そんなところまで頭がまわらないのが実情であった。(庄野潤三「原稿の字と小説の主題」)
「書き上げるまでに格別手間ひまのかかった、思い出の多い小説」とあるのは、『群像』に発表された「静物」のことだろう。
この文章には、昔の苦しみを今も拭いきれていない作家の気持ちが反映されている。
家族と先輩作家たち
自分の作品を振り返った文章に「明夫と良二」がある。
こうして『明夫と良二』は、最初の相談からまる二年後に本になったわけです。当時、岩波書店でこしらえた色刷りの、きれいなパンフレットが私の切抜帳に残っています。その中に前々から私に子供の本を書くといいよといって勧めて下さっていた、『ドリトル先生物語』で子供と大人の読者に馴染の深い井伏鱒二氏の有難い推薦のことばが入っています。(庄野潤三「明夫と良二」)
岩波少年少女の本『明夫と良二』は、1972年(昭和47年)に刊行された。
長女(和子)が結婚して家を出ていく前後の「山の上の家」の家族の様子が綴られている。
庄野さんの随筆にもたびたび登場する作品で、懐かしい家族アルバムを振り返るように、庄野さんがこの作品を大切にしていたことが分かる。
庄野さんの随筆に、家族を欠かすことはできない。
前の晩遅く猪苗代湖から帰った長男が、妻の誕生日の祝いをいいに嫁と二人でやって来た。こんにちはと大きな声を出し、自分はいつものように庭へまわった。(庄野潤三「誕生日」)
この時期、長男も結婚して家を出ていて、「山の上の家」は、夫婦と次男だけの三人暮らしになっている。
河上徹太郎の訃報を聞いたときも、やはり三人暮らしだった。
そのあと、前の日の朝御飯の席で、「昨夜はひと晩中、てっちゃんの夢をみていた」と次男がいったのをふと思い出して、どんな夢だと聞いてみた。(庄野潤三「柿生の河上さん」)
この文章は、河上徹太郎との交友をまとめた『山の上に憩いあり』(1984)にも収録されている。
「子供と河上さん」も、河上徹太郎を偲ぶ作品だ。
この年の暮れに河上さんは芸術院会員になられた。印刷の挨拶状の余白に「お正月にでも遊びにいらつしやい。炉端で焼鳥して飲みませう」と鉛筆で書いてあった。(庄野潤三「子供と河上さん」)
尾崎一雄を偲ぶ「下曽我へ行った日のこと」には、家族で小田原へ出かけたときのことが綴られている。
その年の十一月半ばに私たちは家族全部で小田原へ出かけた。城跡の天守閣へ上ってまわりの景色を眺め、あとで動物園の狸、狐、かわうそなどを見て、それから「柏又」へ行き、二階の部屋を予約しておいて、海岸へ出、広い砂浜で日の暮れまで石を投げたりして遊び、約束した時間に「柏又」へ戻った。(庄野潤三「下曽我へ行った日のこと」)
庄野さんの作品ではお馴染みの鰻屋「柏又」へ家族揃って出かけたのは、1964年(昭和39年)11月のこと。
やがて、長女は小田原に近い南足柄市に住むことになるのだから、所縁が深かったということなのだろう。
私たちの家から歩いて三十分とかからないところにいた長女の一家が、九年間住み馴れた二間の借家と働き者の大家さんの小母さん、夫婦で食料品の店を経営しているお隣のなか子ちゃんの家族に別れを告げて、同じ神奈川県ではあるが、小田原に近い、相模湾を見下ろす山に新築した家へ引越してから、ちょうど一年になる。(庄野潤三「長女の手紙」)
長女が南足柄市へ移転したことで、庄野さんの作品には間違いなく広がりが生まれた。
馴れない生活の中で経験を積んでいく様子が、長女から届く手紙で分かる。
読むうちに二十二年前の春、私たちが多摩丘陵のひとつの丘の、夜になるとどこにも家の明りが見えないあたりに引越して来た当時と似たようなことをしているのに気が附く。いま、小学五年生をかしらに三人の男の子の母親で、お釜の御飯があまりに早くからになるのを日ごと嘆いている長女は、中学の二年であった。(庄野潤三「山百合」)
家族の継承が、そこにはある。
短い文章にも、庄野さんらしい物語が含まれているところに、読者は共感するのだ。
小田原に近い南足柄市に住む長女のところには、男の子ばかり三人いる。上が小学五年生、次が四年、下が幼稚園。その二番目の子の一学期の成績表は、長女の話によると、体育だけ5で、あとは全部3であったそうだ。(庄野潤三「水風船」)
子どもたちの成長を描いてきた目線が、いつの間にか、孫たちの成長を見守る目線へと変化している。
つまり、庄野さん自身の成長が(加齢が)そこにはあるということだろう。
私たちが多摩丘陵のひとつの丘の上に家を建てて移り住んでから二十四年になる。駅の向うの丘の中腹にある木造の校舎の小学校の校庭に銀杏の大木があった。(庄野潤三「ぎんなん」)
ぎんなん拾いは、庄野家の子どもたちにとって、秋の風物詩だった。
懐かしくて温かい思い出が、庄野家にはある。
庄野さん自身の成長は、先輩作家の思い出の中でも語られる。
いつだったか、自分はいつの間にか亡くなった伊東先生と同じ年になったと思ったことがある。それからまたひと昔たった。去年が没後二十五年であったから、またひとつ年を加えて、この二月で二十六年になる。(庄野潤三「『子供の絵』」)
伊東静雄に関しては「百千の」もいい。
伊東静雄の詩碑除幕式の案内が大阪市教育委員会から届いたので、出席の返事に「家族とも二名」と書き添えて出した。六月八日午前十時三十分より、阿倍野区松虫通二丁目。(庄野潤三「百千の」)
先輩作家では、やはり、井伏鱒二に関する文章が多い。
『海揚り』の書評「歴史と記憶」や、『荻窪風土記』の書評「汽笛と武蔵野の森」「『荻窪風土記』の思い出」などがある。
井伏さんの『荻窪風土記』が出版されたとき、書評の依頼があって「汽笛と武蔵野の森」という題で書いた。昭和五十七年十二月号の「新潮」に掲載された。(庄野潤三「『荻窪風土記』の思い出」)
書評を書いた思い出を綴った「『荻窪風土記』の思い出」は印象深い作品だ。
河盛好蔵についての文章もいい。
「相性と運命」は、河盛好蔵『作家の友情』の書評。
中学生の頃から無類の本好きであった河盛さんは、大正から昭和へかけてのご自分の文学的青春と重ね合せながら、愛読した詩人、作家を素材に興趣に富む「人生の物語」を展開してみせてくれる。(庄野潤三「相性と運命」)
河盛好蔵関係では、ほかに「パリと堺と河盛さん」もいい。
本書で目につくのが、平田禿木の著作に関する文章だろう。
「禿木随筆」「二羽の鴨とグレー卿」は、いずれも『禿木随筆』に関する随筆である。
『禿木随筆』を読んでいると、「出ず入らず」という形容が時々、目につく。(略)禿木自身、この世に生きる上で守るべき大事なことと考えていたように見える。(庄野潤三「『禿木随筆』」)
随筆については、福原麟太郎を超える作家はいないだろう。
英文学者であり、すぐれた随筆家であった福原麟太郎さんは、「私は百科辞典が好きである。あそこを読みここを読みして興味がつきない」といっておられる。(庄野潤三「百科辞典と福原さん」)
福原麟太郎『人間天国』(1961)に収録された「百科辞典」をもとに、この随筆は展開していく。
庄野さんにとって、福原麟太郎の随筆を読むことは、作家としての勉強であり、暮らしの中の癒しだったのだろう。
書名:ぎぼしの花
著者:庄野潤三
発行:1985/04/20
出版社:講談社