ニコライ・ゴーゴリ「死せる魂」読了。
本作「死せる魂」は、1842年に「第一部」が刊行された長篇小説である。
この年、著者は33歳だった。
「第二部」は未完で、多くの原稿が欠損した状態となっている。
「死んでいる魂」の持ち主たち
庄野潤三の随筆集『自分の羽根』に、「死せる魂」のことに触れた作品がある。
私は小説が書けないときに、「死せる魂」を取り出して、どこでもいい、チチコフが馭者セリファンと三頭の馬とともにどこか地主のいる村めがけて馬車で駆けているところを開いて読んでみる。そうすると、気持がほぐれて来て、「何もくよくよすることはない」と考える。(庄野潤三「ゴーゴリ」)
小説の書けない作家の気持ちをほぐし、「何もくよくよすることはない」と考えさせるものは、本作『死せる魂』の持つ、生き生きとした描写だったのではないだろうか。
まるで、本当にそんな世界がそこにあるかのように(ある意味では生々しい)リアリティが、この作品にはある。
「死せる魂」を現代語に置き換えると「死んでいる魂」という意味になる。
死んでいる魂を持ちながら、なおかつ、肉体的には生きている人間たち──それが、この物語の大きなテーマだと考えていい。
死んでいる魂を持った人間の代表選手が、物語の主人公(チチコフ)である。
チチコフは、戸籍上に記載はありながら、実際には死んでいる農奴を買い集めて、架空の領土を想像し、金融機関から多額の融資を受けようと企んでいる詐欺師だ。
現代でいえば、幽霊カンパニー(ペーパーカンパニー)を利用した闇取り引きに近い。
「そうだ、こういう死んだ農奴で、まだ農奴名簿から削ってない奴を、おれが買い占め、仮に千人も手に入れてみろ、そいつを後見会議へ抵当に入れたら、一人あたり二百ルーブリは貸してくれる、そうすれば二十万ルーブリという大金にありつけようってものだ!」(ニコライ・ゴーゴリ「死せる魂」平井肇・横田瑞穂 訳)
「死せる魂」の権化とも言うべきチチコフの生き方は、現代の資本主義者たちの金儲けに似ている。
つまり、金儲けのためなら何だってやってやる、という商人根性が、チチコフの中には根付いているのだ。
「閣下、つまり御領内で死んだ農奴を残らず、生きているものとして正規の売買登記をすまして手前にお譲り下さいますならば、手前はその証書を老人に見せてやります。そうすれば、伯父も財産を手前に譲ってくれることになると存じますので」(ニコライ・ゴーゴリ「死せる魂」平井肇・横田瑞穂 訳)
チチコフは知能犯であり、詐欺師である。
農奴制が限界を迎え、官僚や貴族が腐敗する中、新しい現代人の肖像が、チチコフの中には描かれていたのではないだろうか。
もちろん、「死せる魂」を持っていたのは、チチコフだけでない。
死んだ農奴を求めてさまよいながら、チチコフは様々な官僚や貴族たちと出会う。
驚くべきことに、彼らは実に様々な形で「死せる魂」の持ち主だったのだ。
例えば、実務能力のないマニーロフは、ただのお人よしで、チチコフの口車に簡単に乗せられてしまう。
マニーロフは、まったく当惑してしまった。彼は何か言わなければならない、何か訊かなければならないとは思ったが、いったい何を訊いたものやら、さっぱり見当もつかなかった。(ニコライ・ゴーゴリ「死せる魂」平井肇・横田瑞穂 訳)
女地主(コローボチカ)は、取引の内容もよく理解できないまま、チチコフの強引な売買契約を拒むことができない。
「ほんとに、どうしていいやら分からないんでね。いっそのこと、麻を買って貰いましょうかね」(ニコライ・ゴーゴリ「死せる魂」平井肇・横田瑞穂 訳)
取引の内容を理解していないから、この女地主は、後になって大騒ぎをすることになる(現代日本にも、この手の隣人がいるものだ)。
そこでコローボチカは、「そんな死んだものを売るわけにはいかない」って、いかにももっとな答えをしたんですよ。すると、「いや、そいつらは死んじゃいない。死んでいようが、死んでいまいが、そんなことはこっちのことで、お前の知ったことじゃない、そいつらは死んじゃいない、死んじゃいないんだ!」と怒鳴るんですって。(ニコライ・ゴーゴリ「死せる魂」平井肇・横田瑞穂 訳)
ギャンブルに目がないノズドリョーフは、チチコフに負けないイカサマ師で、常に世の中を混乱させてばかりいる。
「どうしても金子(かね)を出すのが嫌ならねえ、こうしようじゃないか、僕はこの手まわしオルガンと、それから死んだ農奴をありったけきみにやるから、君はあの軽四輪馬車(ブリーチカ)に三百ルーブリだけ追銭を打ってくれたまえ」(ニコライ・ゴーゴリ「死せる魂」平井肇・横田瑞穂 訳)
こういう男とは関わり合いになりたくない男──それが、ノズドリョーフだ。
やたらに細かい商売人(ソバケーヴィッチ)もおかしい。
「そりゃ、確かに死んではおるがね」ソバケーヴィッチは、なるほど考えてみればその農奴たちはもう死んでいるのだと気がついたらしく、そう答えたが、すぐにこう付け加えた。「だがね、現に生きている奴らにしたところが何だというんだ? あんなものが一体なんだ?──人間じゃなくて、蠅だからね」(ニコライ・ゴーゴリ「死せる魂」平井肇・横田瑞穂 訳)
プリューシキンは、他人を信用できない孤独な老人だ。
まったく人間というものが、これほど下劣で卑賎醜悪なものに堕落することできるだろうか! これほど変り得るものだろうか! でも果して、これが真相に近い姿だろうか! ところが、すべてこれが真実の姿で、人間はどんなものにもなり得るのだ。(ニコライ・ゴーゴリ「死せる魂」平井肇・横田瑞穂 訳)
駄目な地主たちが次々と登場して、まるで、クズ地主のカタログを眺めているようだ。
滑稽なのに悲しい人間たちの姿が、そこにはある。
第2部に登場するベトリーシチェフ将軍もすごい。
「好きなんじゃよ、好きなんじゃよ、誰でも、たしかに、おだててもらうことが好きなんじゃよ」そう言いながら、首をごしごしと八方から擦りつづけた。「まあ、そういう奴は、せいぜい撫でてやるさ! おだてに乗らなきゃ、盗みだってしないからなあ! はっ、はっ、はっ!」(ニコライ・ゴーゴリ「死せる魂」平井肇・横田瑞穂 訳)
能天気な将軍は、もちろん、チチコフの口車に転がされてしまうことになる。
「狂人」として有名なコシカリョーフ大佐は、非効率的なお役所仕事に毒されている。
「そういうことでしたら、一つ書面にしたためて差出して下さい。そうすれば願書受付係で受理します。受付係で記号を入れてから拙者の手許へ送ってよこす。そこで拙者から村務委員会へまわし、補訂を加えた上、監督の手へ渡す。すると監督は秘書と量って……」(ニコライ・ゴーゴリ「死せる魂」平井肇・横田瑞穂 訳)
コシカリョーフ大佐は、ヨーロッパの合理主義を崇拝する、間違った現代人の肖像だ(「いや、どうも、あんなあほうには生まれてこのかた会ったことがありませんよ」)。
借金で暮らしがたちゆかなくなっているのに、他人に御馳走したがるフロブーエフも、愚かなロシア人を象徴する存在だったのだろう(「あの男、可哀そうですね、まったく可可哀そうな人間ですね」)。
「なんにしても、話がまとまったのですから、一つ祝杯をあげることにしましょう」と、フロブーエフが言った。「おい、キリューシカ! シャンパンを一本持って来い!」(食うものはなくても、シャンパンはあるんだな)とチチコフは思った。(ニコライ・ゴーゴリ「死せる魂」平井肇・横田瑞穂 訳)
貧困と贅沢が奇妙な形で共存しているところに、間違った世界が見える。
もちろん、駄目なのは地主ばかりではない。
この街(県庁所在地のNN市)の役人たちは、チチコフをすっかりと重要人物だと思い込んでしまって、歓待に明け暮れる始末だった。
チチコフは一度に数人の人から抱擁されたように思った。またすっかり裁判所長の抱擁から脱しきれぬうちに、早くも警察部長に抱きしめられてしまった。警察部長から医務監督にわたされ、医務監督から徴税請負人に、徴税請負人から建築技師へと……。(ニコライ・ゴーゴリ「死せる魂」平井肇・横田瑞穂 訳)
折から「新しい地方総督が任命された」というニュースが、官僚たちの中で話題となっていたから、謎の人物(チチコフ)に対する注目はなおさらだった。
このあたり、ゴーゴリの短編「査察官」を思わせる展開でおもしろい。
官僚たちは、もちろん、チチコフの死んだ農奴を登記するのに、最大限の協力を惜しまない(後になって大問題だったと気がついた)。
彼らも、やはり「死せる魂」の持ち主だったのだ。
誰もがチチコフかもしれない
上流社会の女性たちもチチコフに色気を振りまくが、当の本人(チチコフ)は、すっかりと知事の娘に惚れこんでしまっている。
おもしろくない女性たちは、次々と新しい噂話を生んだ。
「死んだ農奴だなんて!……」「ええ、早く仰っしゃいよ、後生だから!」「あれは、ただ人目をごまかすために思いついただけのことで、ほんとうは、知事のお嬢さんをかどわかそうってのが、あの人の魂胆なんですわ」(ニコライ・ゴーゴリ「死せる魂」平井肇・横田瑞穂 訳)
根も葉もないゴシップが、街を混乱に陥れていく。
ロシアという国は、下層社会の者が上流社会で行われる、いろんなゴシップの受売りをしたがる国だから、たちまちこの話は、チチコフのことなどは知りもしなければ、顔を見たこともない手合いの、あばら家でまで云々されるようになり、いろんな尾ひれがつけられて、ずいぶんふるった解説が加えられたものである。(ニコライ・ゴーゴリ「死せる魂」平井肇・横田瑞穂 訳)
結局、チチコフの「死せる農奴」事件は、街に溢れている「死せる魂」の持ち主たちを浮き彫りにする結果となった。
ロシア語で「死せる魂」は「死せる農奴」という意味も持っているらしい。
ゴーゴリは、「死せる農奴」をモチーフに、ロシアに氾濫する「死せる魂」を描き出そうとした。
つまり、ロシアそのものが「死せる魂」だったのである。
役人一同は急に我れと我が身を振り返って、本当に犯してもいない罪まで探しはじめたものである。そればかりか、「死んだ農奴(魂)」という言葉がはなはだ漠然たる響きを持っているので、もしやこれは、つい最近にあった二つの不祥事の犠牲者で、不慮の死をとげた者たちのことを暗示しているのではなかろうか、などと疑い出しさえした。(ニコライ・ゴーゴリ「死せる魂」平井肇・横田瑞穂 訳)
間抜けな郵便局長が話す「コペイキン大尉の物語」も楽しい。
ところが、わがコペイキンは、いいかね、ひもじさが拍車をかけてきたものだから、「閣下、ご随意に、でも、わたしは決裁がおりるまで、この場をうごきませんからな」と言った。(ニコライ・ゴーゴリ「死せる魂」平井肇・横田瑞穂 訳)
貧しく哀れなコペイキンは、ゴーゴリの短編「外套」の主人公(アカーキー)を連想させるが、郵便局長の話は、あまりにもトンチンカンで、無能な役人ぶりを象徴している。
この物語に描かれているのは、ロシア社会の闇だと言っていい(「こんなことを世間へ発表してもいいのか?」)。
様々な肖像が、ゴーゴリの手によって風刺的に描かれている(つまり、戯画だ)。
馬車は旅館の門をくぐって往来へ出た。通りすがりの坊さんが帽子をとり、汚れたシャツを着た子供が四五人、一様に手をさし出して、「旦那、孤児(みなしご)に何かやっておくんな!」とせがむ。そのなかの一人が、馬車のうしろの馬丁台に乗っかるのが大好きらしいのに気がつくと、御者は、いきなりその子を鞭でひっぱたいた。(ニコライ・ゴーゴリ「死せる魂」平井肇・横田瑞穂 訳)
物語の隅々にまで、ロシア社会が丁寧に書き込まれている。
二人の百姓女が、絵に描いたように着物をまくりあげ、くるりと裾を端折って、膝まで水につかりながら、二本の木の竿に結びつけた破れた曳網をひっぱって池の中を歩いていた。網にはざりがにが二匹引っかかっていたし、鯉も一尾、網のなかで光っていた。(ニコライ・ゴーゴリ「死せる魂」平井肇・横田瑞穂 訳)
むしろ、庶民の暮らしのスケッチにこそ、本当のロシア社会があるのではないかと思えるほどだ。
ロシア社会への批判は、コスタンジョーグロによって明確に言語化される(「近ごろロシア人の性格にもドン・キホーテ式なところが見えて来ましたが、こういう傾向は前には決してなかった!」)。
「皆、機械技師気取りで、小さな箱ひとつ開けるにも、そのまま開けようとはせず、道具を使いたがる。それで、わざわざイギリスくんだりまで出かけて行ったりする。これが間違いのもと! 愚の骨頂です!」こう言ってコスタンジョーグロはペッと唾を吐いた。「しかも外国から帰って来ると、前より百倍も馬鹿になってるんだ!」(ニコライ・ゴーゴリ「死せる魂」平井肇・横田瑞穂 訳)
コスタンジョーグロは、ロシア社会に対する警告者として機能していると読んでいい。
「一ルーブリではなく、一コペイカから始めるのです。上からではなく、どん底から出発するのです。そうしてこそ庶民というもの、またその生活状態によく通じ、他日そこから身を脱することもできるというものです」(ニコライ・ゴーゴリ「死せる魂」平井肇・横田瑞穂 訳)
そして、監獄行きとなったチチコフの救世主として登場するムラーゾフも、また、「生きた魂」を持った人間である。
「パーヴェル・イワーノヴィッチ! パーヴェル・イワーノヴィッチ! 情けないのはあんたが他人に対して罪を犯されたことではない、あんた自身に対して罪を犯されたことじゃよ」(ニコライ・ゴーゴリ「死せる魂」平井肇・横田瑞穂 訳)
おそらく、作者は、詐欺師(チチコフ)の再生を描こうとしていたのではないだろうか。
ロシア社会に跋扈する様々な「死せる魂」を浄化しようとでもするかのように、ムラーゾフは語りかける。
「なんの、なんの、他人がわしの手から奪うことのできるような財産などは問題じゃない、誰にも掠められたり取りあげられたりされることのないものが大切なのじゃ。(略)この騒々しい世の中のことや、いろんな浅ましい世間的な野心を残らず忘れてしまいなされ。また世間からも忘れられてしまうのじゃ」(ニコライ・ゴーゴリ「死せる魂」平井肇・横田瑞穂 訳)
考えてみると、チチコフも、また、ロシア社会の闇が生んだ被害者の一人だった。
「友達づきあいなんぞすることはないぞ、どうせろくなことは教えてくれやしないからな。それでも、どうしてもつきあわなければならなかったら、なるべき金持の子供とつきあうがいい、そうすれば、いざという時にはお前の助けになるからな」(ニコライ・ゴーゴリ「死せる魂」平井肇・横田瑞穂 訳)
世の中は金がすべであることをチチコフに教えたのは、彼の父だった(これも「死せる魂」の肖像だ)。
「何より、貯蓄に心がけて、銭をためることだ。銭がこの世では一番たよりになるのだからな。友達や仲間というやつは、こちらが落ち目になると、第一番に裏切るけれど、銭というやつは、どんな不幸な場合にも決してお前を裏切るようなことはないよ」(ニコライ・ゴーゴリ「死せる魂」平井肇・横田瑞穂 訳)
「死せる魂」がはびこる現代社会では、もはや、友だちや仲間たちを信じることはできない。
「死せる魂」は、新たな「死せる魂」を再生産し、強固な「死せる魂」の社会を構築していった。
チチコフは、「死せる魂」によって築かれた現代社会の落とし子だったのだ。
「死せる魂」の社会では、誰もがチチコフであり、「死せる魂」の持ち主である(「だが、おれの中にも、どこかにチチコフの片鱗がありはしないだろうか?」)。
問題は、こうした「死せる魂」によって支えられているロシア社会の未来だ。
ああ、ロシアよ、お前もあの、威勢のいい、どうしても追いつくことのできないトロイカのように、ずんずん走って行くのではないか?(略)ロシアよ、お前は一体どこへ飛んで行くのか? 聞かせてくれ。(ニコライ・ゴーゴリ「死せる魂」平井肇・横田瑞穂 訳)
社会で生きる人々(死せる魂)を生き生きと描きながら、作者は、ロシアへと問いかけている(「ロシアよ、お前は一体どこへ飛んで行くのか?」)。
それは、変革期のロシアという国で生きる人々の、大きな葛藤だったのだ。
「もう死んだ農奴のことなどは考えないで、あんた自身の生きた魂のことを考え、いさぎよく別な道をとってお進みなさい! わしも明日は旅に出る。くれぐれもお急ぎになることだ!」(ニコライ・ゴーゴリ「死せる魂」平井肇・横田瑞穂 訳)
そして、この葛藤は、決して19世紀ロシアだけのものではない。
チチコフは、我々の周りで笑っているかもしれないし、あるいは、我々自身こそが、現代のチチコフかもしれないのだ。
書名:死せる魂
著者:ニコライ・ゴーゴリ
訳者:平井肇・横田瑞穂
発行:1938/07/01(1977/03/16改版)
出版社:岩波文庫