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石原裕次郎「わが人生に悔いなし/北の旅人」肝臓がんとの闘病生活とハワイのレコーディング

石原裕次郎「わが人生に悔いなし/北の旅人」肝臓がんとの闘病生活とハワイのレコーディング

石原裕次郎が亡くなったとき、追悼盤と銘打ったシングルレコードが発売された。

1987年(昭和62年)8月のことである。

曲名は「北の旅人/想い出はアカシア」だった。

人生最後のレコーディングはハワイで

昭和を代表する映画スター(石原裕次郎)が亡くなったのは、1987年(昭和62年)7月17日(金)の夕方、16時26分のことである。

享年52歳。

1984年(昭和59年)7月17日に「肝細胞ガン」の診断を受けてから、丸3年間の闘病生活だった。

当時は、インフォームド・コンセントも十分ではなく、石原裕次郎本人に「ガン告知」されることはなかった。

もっとも、3年間の長い闘病生活だったから、本人は、何度も「ガン」を疑ったかもしれない。

石原まき子『妻の日記』(1999)には、石原裕次郎が自分の病気を疑っていたことを明確に示す場面が、何度も何度も登場する。

昭和六十一年八月二十日(水)「毎日が奇跡というが、もう限界ではないか」「生きるとしてあと何年か」「コマサは知っているのではないか。ママは知らされているのではないか。病院は知っていて、だまっているのではないか。はっきり教えてほしい」「自分の残された人生を自分なりに納得して生きたい」等……。(石原まき子「妻の日記」)

石原裕次郎は、辛い現実から逃れるように、1986年(昭和61年)11月24日、ハワイへと旅立つ。

ハワイ到着直後の本人のメモが、『死をみるとき』(2013)に遺されている。

11月28日(FRI)ハワイ。眠れず苦痛。”ノイローゼ”(裕さんの日記より)(石原裕次郎・石原まき子「死をみるとき」)

ハワイで暮らすからと言って、ガン闘病の苦痛から逃れられるわけではない。

1986年(昭和61年)から1987年(昭和62年)にかけてのハワイ生活は、まさに「ガンとの闘い」の日々だったらしい。

まして、本人は「ガン」と知らされていないのだから、石原裕次郎は、姿の見えない敵と戦っているようなものだったかもしれない。

死後に追悼盤として発売される「北の旅人」は、そんなハワイ生活の中で録音された。

昭和六十二年二月二十四日(火)テイチクレコードの吹き込みのため、日本よりスタッフ来布され、今日予定の『わが人生に悔いなし』と『俺の人生』2曲を無事吹き込む。高柳氏、中村氏の話では、声にも力強さがみられ、調子はまずまずとの事、やれやれ。夕食も普通にもどり、体温6度台。

二月二十五日(水)『北の旅人』と『想い出はアカシア』の2曲を吹き込み、裕さんホッとする。帰宅後、腰痛を訴える。

(石原裕次郎・石原まき子「死をみるとき」)

このとき、レコーディングされた4曲のうち、「わが人生に悔いなし」と「俺の人生」は、1987年(昭和62年)4月に発売され(生前最後のシングル)、「北の旅人」と「想い出はアカシア」は、1987年(昭和62年)8月に発売された(死後の追悼盤)。

桜の花の下で見る
夢にも似てる人生さ

純で行こうぜ 愛で行こうぜ
生きてるかぎりは青春だ

夢だろうと現実(うつつ)だろうと
わが人生に悔いはない
わが人生に悔いはない

(石原裕次郎「わが人生に悔いなし」)

そこで聴くことができるのは、長い闘病生活にあった石原裕次郎の、生涯最後のレコーディングの記録である。

哀惜のラストソング「北の旅人」

石原裕次郎『THE SUPER STAR』25(1987-1993)石原裕次郎『THE SUPER STAR』25(1987-1993)

闘病中の石原裕次郎に付き添っていた石原プロモーションのカメラマン(金宇満司)は、『社長、命。』(2006)の中で、レコーディングの打ちあわせをしたときの様子を綴っている。

「四曲を予定していますが、大丈夫でしょうか?」スタッフが体調を気づかって社長に訊く。「うん、大丈夫だ」「ありがとうございます。曲はこれです──」と新譜を差し出した。その中の一曲の題名を見て、私は嫌な感じがした。『わが人生に悔いなし』──。(金宇満司「社長、命。」)

現在では、石原裕次郎を代表する名曲として知られている「わが人生に悔いなし」は、石原裕次郎が信頼する作詞家(なかにし礼)の作品だった。

なかにし礼は「三十周年にふさわしいもの」という高柳の発注を受けて、裕次郎の人生、裕次郎と共に歩んできた、昭和を生きてきた人々への人生讃歌として「わが人生に悔いなし」「俺の人生」の二曲が、早速上がってきた。(佐藤利明「石坂洋次郎昭和太陽伝」)

「たまには、若い作曲家とやらないか? ニューミュージック畑の人たちに頼んで、それでアルバムを作ってみないか?」という石原裕次郎の提案もあって、作曲は加藤登紀子が担当した。

その詞を読んだ後藤武久、中村進、高柳六郎は「加藤登紀子さんに曲を頼もう」ということで意見が一致した。加藤登紀子はすぐに作曲をして、オーケストラ録音も終わっていた。(佐藤利明「石坂洋次郎昭和太陽伝」)

本来、それは、石原裕次郎三十周年記念アルバム『石原裕次郎 30年の軌跡そして…』(1986)に収録の上、シングルカットされる予定だったが、歌手の体調は、かなり厳しい状態だったらしい。

デジタル録音を終えた数日後、「わが人生に悔いなし」の録音をすることになった。しかしレコーディングの予定日、裕次郎の体調が思わしくなく、十一月二十四日、裕次郎は静養のためハワイへ向かうことになり、レコーディングは「来年にしよう」ということになった。(佐藤利明「石坂洋次郎昭和太陽伝」)

「デジタル録音を終えた」とあるのは、昔のオリジナル曲を歌い直した『石原裕次郎SPECIAL─ニューレコーディング30th.アニバーサリィ(第一集)』(1986/10)と『石原裕次郎SPECIAL─ニューレコーディング30th.アニバーサリィ(第二集)』(1987/03)のこと。

延期になっていた「わが人生に悔いなし」や「北の旅人」は、静養中のハワイで録音されることになった。

付き添いの金宇満司がラインナップを見たのは、このときである。

『わが人生に悔いなし』──。人生を振り返ったような題名ではないか。(こんな時、こんな詞を書きやがって)腹が立ってきた。奥さんも思いは同じようで、顔を強張らせているが、テイチクのスタッフは事情を知らないから、「とってもいい詞ですね」とノンキなことを言っている。(金宇満司「社長、命。」)

石原裕次郎が「がん」であることを知っているのは、まき子夫人と金宇満司の二人だけである。

もっとも、自分が肝臓ガンであることを知らない社長は平気な顔で、「この曲、何年か前に話があったよな」「そうなんですよ。延び延びになってしまいまして」と、テイチクのスタッフと話をしている。(金宇満司「社長、命。」)

金宇満司は、「わが人生に悔いなし」の録音を避けようと試みるが、結局は石原裕次郎本人の判断で、全四曲がレコーディングされることとなった。

「この『北の旅人』っていいね、内容が。『わが人生に悔いなし』は……、まっ、人間なんていうのはそうだからな、いいんじゃねえか」(金宇満司「社長、命。」)

奇しくも「わが人生に悔いなし」は、石原裕次郎の人生を総括する作品となった。

万感の思いを込めた歌唱だったが、作品としては、必ずしも成功したわけではない。

石原裕次郎の逝去翌年に刊行された『愛蔵版 石原裕次郎』(1988)の中で、音楽評論家(伊藤強)は、「わが人生に悔いなし」が、タフガイ・石原裕次郎としては、イマイチの作品であったことを指摘している。

だが、率直に書こう。最後の吹き込みとなった『わが人生に悔いなし』はいただけない。コンディションも悪かったに違いない。あの歌での裕次郎の声は、あまりにも弱々しい。彼には最後まで ”イカス” 男であって欲しかったのに。(伊藤強「ワイングラス片手に」/朝日新聞社「愛蔵版 石原裕次郎」)

あまりにも求められるものが、石原裕次郎には多かったのだ。

死亡直後に発売された追悼盤「北の旅人」は、「わが人生に悔いなし」と同じように、晩年の石原裕次郎を代表する人気曲となった。

たどりついたら 岬のはずれ
赤い灯が点く ぽつりとひとつ
いまでもあなたを待ってると
いとしい おまえの 呼ぶ声が
俺の背中で 潮風(かぜ)になる
夜の釧路は 雨になるだろう

(石原裕次郎「北の旅人」)

「たどりついたら、岬のはずれ──」と、彼は歌った。

昭和を代表する映画スター・石原裕次郎は、52歳の人生で、いったい、どこへたどりついたというのだろうか。

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MAS@ZIN
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。