F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャッツビー」読了。
本作「グレート・ギャッツビー」は、1925年(大正14年)4月に出版された長篇小説である。
原題は「The Great Gatsby」。
この年、著者は29歳だった。
時間を巻き戻そうとした男
夏になると読みたくなる小説というものがある。
自分にとって『グレート・ギャツビー』は、その一冊だ。
毎年読んで飽きないのかと言われるかもしれないが、一年に一回読んだくらいで『ギャツビー』が飽きることはない。
そもそも、『ギャツビー』には、いくつもの日本語訳があって、文庫になったものだけでも、次のとおりとなっている。
・大貫三郎訳『夢淡き青春』角川文庫/1957年
・野崎孝訳『グレート・ギャツビー』新潮文庫/1974年
・佐藤亮一訳『華麗なるギャツビー』講談社文庫/1974年
・橋本福夫訳『華麗なるギャツビー』ハヤカワ文庫/1974年
・守屋陽一訳『華麗なるギャツビー』旺文社文庫/1978年
・野崎孝訳『偉大なギャツビー』集英社文庫/1994年
・村上春樹訳『グレート・ギャツビー』中央公論社/2006年
・小川高義訳『グレート・ギャッツビー』光文社古典新訳文庫/2009年
1970年代出版のものが多いのは、1974年(昭和49年)に公開されたロバート・レッドフォード主演映画『華麗なるギャツビー』の影響である。
このうち、日本のスタンダードは、もちろん「野崎孝・訳」で、近年では、村上春樹翻訳ライブラリーに入っている「村上春樹・訳」も人気がある。
現時点での最新版は、光文社古典新訳文庫の「小川高義・訳」で、この3冊が、最も入手しやすい『ギャツビー』ということになる。
外国文学というのは、翻訳によって小説の雰囲気がガラリと変わるので、同じ小説を毎年読むにしても、訳者を変えるだけで違う小説を読んでいるのと同じような効果がある。
それに『ギャツビー』のような長篇小説というのは、何度も何度も繰り返し読むことで、新しい発見というものが必ずあるものである。
特に『ギャツビー』の場合、「文学的伏線」とでも言うべき巧妙な小技が随所に仕掛けられているので、何度読んでも新鮮な驚きがある。
本作『グレート・ギャツビー』は、過ぎ去った時間を巻き戻すことに挑戦した男の物語だ。
「奥さんは、あなたを愛したことなどない。この私を愛している」「何を馬鹿な!」トムは思わず口走った。ギャッツビーは高ぶった精神もあらわに、すっくと立った。「あなたを愛してはいなかった。そういうことだ」(F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャッツビー」小川高義・訳)
主人公(ギャッツビー)は、既に人妻となっていた最愛の女性(デイジー)と再会し、かつての愛を確かめ合う。
夫(トム)との夫婦生活に満ち足りていなかったデイジーは、再び元カレ(ギャッツビー)と愛し合うが、ギャッツビーは、トムとデイジーとの夫婦生活を全否定するよう、デイジーに求める。
五年間の夫婦生活の中で、デイジーがトムを愛したことなどなかった。
デイジーが愛していたのは、常にギャッツビーだけだったのだ。
そう宣言することをギャッツビーは求める(「だから愛した過去はないんだ」)。
「デイジーに無理な注文をするのもどうだろうね」と、私はあえて口出しめいたことを言った。「過去を繰り返すことはできない」「できない?」ギャッツビーには心外のようだ。「できるに決まってるじゃないか──」(F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャッツビー」小川高義・訳)
ギャッツビーは「時を巻き戻す」ことに挑戦している。
「いや、そういうことは終わったんだよ」と真剣に話しかけている。「もういいじゃないか。はっきり言ってやってくれ。愛していなかったと言うんだ。それで一切なかったことになる」(F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャッツビー」小川高義・訳)
しかし、嘘をつくことのできないデイジーに、ギャッツビーの要求は重い負担だった(「そこまで言ったら嘘になるもの」)。
「もう、欲張りなんだから!」と、今度はギャッツビーに向けて声を大きくした。「いまのわたしは、あなたを愛してる。それだけじゃだめなの? いまさら過去は変えられないのよ」(F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャッツビー」小川高義・訳)
「いまさら過去は変えられないのよ」というデイジーの言葉に、この物語の主題が象徴されている。
つまり、どんなに「偉大な男」であっても、時間を巻き戻すことはできない、ということだ(「ギャッツビーの幻想があまりに大きく息づいたということだ」)。
「時間」に関しては、ギャッツビーとデイジーが再会する場面に、興味深い描写がある。
隣人(ニック)の家で、五年ぶりにデイジーと再会したギャッツビーは、緊張のあまり「暖炉にある止まったきりの時計」を落としそうになってしまう。
だがギャッツビーの後頭部を受けていた時計が、ちょうどよく倒れそうになってくれたので、ギャッツビーは振り向きざまに手を伸ばし、おぼつかない手先で時計を押さえていた。(略)「うかつでした。時計があぶないところだった」(F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャッツビー」小川高義・訳)
「止まったきりの時計」は、ギャッツビー自身の中に潜む「空白の五年間」を象徴していると読んでいい。
時計は暖炉から落ちて壊れるところだったが、ギャッツビーがそれを防いだ。
つまり、「止まったままの時間」を壊すことができなかったのは、ギャッツビー自身だったのだ。
もちろん、そんなことを匂わすような文章はどこにもないから、これは「深読み」である。
しかし、『ギャッツビー』には、そのような「深読み」を誘うような表現が随所にあって、それが『ギャッツビー』という小説の「奥の深さ」になっている。
物語の筋(ストーリー)だけを追いかけていては、この文学を楽しむことはできない。
一つ一つの文章に(文学的伏線とも言うべき)微妙な謎かけがあるのだ。
この長い物語は、物語の語り手(ニック・キャラウェイ)の父親の言葉から始まる。
まだ大人になりきれなかった私が父に言われて、ずっと心の中で思い返していることがある。「人のことをあれこれ言いたくなったら、ちょっと考えてみるがいい。この世の中、みんながみんな恵まれてるわけじゃなかろう」(F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャッツビー」小川高義・訳)
一連の事件が終わったとき、ニックはギャッツビーに、こう呼びかける。
「あいつら、腐りきってる」と、私は芝生に大声を発した。「あんた一人でも、あいつら全部引っくるめたのと、いい勝負だ」こう言っておいてよかった。いまでもそう思っている。(F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャッツビー」小川高義・訳)
「あいつら、腐りきってる」「あんた一人でも、あいつら全部引っくるめたのと、いい勝負だ」というニックの言葉は、彼の中で「ギャッツビー」が「グレート・ギャッツビー」になったことを意味している。
もし人間のありようが外からでも見える行動の連鎖でわかるなら、ギャッツビーは華麗なる人物だったと言えよう。(略)いや、結局まともだったのはギャッツビーだ。私があきれたのはギャッツビーに食らいついた側である。(F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャッツビー」小川高義・訳)
ギャッツビーが殺された後の葬式に、かつてギャッツビーのパーティーに出席した人々は、誰も参列しなかった(フクロウ眼鏡の男を除いて)。
「そんな!」びっくりしたようだった。「なんてこった。何百と押しかけた家だってのに」そう言うと、ふたたび眼鏡をはずし、レンズの表と裏を拭いていた。「あいつも馬鹿を見たもんだ」(F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャッツビー」小川高義・訳)
本作『グレート・ギャッツビー』が伝えているものは、現代を生きている人々のつまらなさである。
要領よく生きる現代社会の中で、ギャッツビーだけがただ一人、古い夢を追いかけ続けた。
そこに、ギャッツビーという青年の悲劇があり、喜劇とも呼ぶべき滑稽さが含まれている。
だからこそ、フクロウ眼鏡の男は「あいつも馬鹿を見たもんだ」をつぶやいたのだ。
そして、「もう一人の主人公」とも言うべき語り手(ニック・キャラウェイ)もまた、(ジェイ・ギャッツビーと同じように)都会の生活には順応できない若者の一人だった(「金をうさんくさいとも思わず、金で願いごとをかなえた街──」)。
本作『グレート・ギャッツビー』は、都会を追われた敗者が、現代社会を謳歌する勝者を嘲笑うかのような物語である。
敗者の美学こそ、この物語の本質だったと言っていいのかもしれない。
容赦なく進行する季節
今回、読んだのは、光文社古典新訳文庫の小川高義・訳『グレート・ギャッツビー』である。
「ギャッツビー」と小さな「ャ」が含まれているところに、クラシックな匂いを感じるが、訳文は読みやすくて、スイスイと読み進めることができる。
本作『グレート・ギャッツビー』は、ひと夏の物語、いわゆる「サマー・ストーリー」である。
この夏の物語は、私がトム・ブキャナン邸の夕食に呼ばれて、そちら側へ車を走らせた晩に始まる。(F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャッツビー」小川高義・訳)
それは、六月の初めころだったかもしれない。
「あと二週間で夏至なのよね」と、光り輝く顔をした。「いよいよ日が長くなるって思いながら、その日をうっかり忘れてばかりなの。いつだって、そう思ってて忘れちゃう、なんてことある?」(F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャッツビー」小川高義・訳)
夏至を目前にした頃、悲劇のヒロイン(デイジー)の顔は光り輝いていた。
間もなく、真夏が訪れる。
すっかり夏になっていた。道筋の宿屋の屋上にも、赤い新型のガソリンポンプが照明を浴びている修理屋の正面にも、夏の色がある。(F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャッツビー」小川高義・訳)
「時を止めよう」と願うギャッツビーを無視するかのように、季節は容赦なく進行していく。
この夏、どういう顔ぶれがギャッツビー邸の客となったのか、その名前を時刻表の余白に書きつけたことがある。(略)「一九二二年七月五日改訂」という表記がある。(F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャッツビー」小川高義・訳)
物語は「1922年(日本では大正11年)」の夏が舞台となっている。
この頃、物語の語り手(ニック・キャラウェイ)も、まだ、都会に夢を見る若者だった(「この橋を抜けてしまえば、もう何があってもおかしくない」)。
このニューヨークを好ましいと思うようになった。あやしく色めく夜の街も、目の前をひっきりなしに行き交う男や女や自動車も、こうであってよいのだと思えた。五番街の雑踏を歩きながらロマンのある女をさがしては、空想をたくましくした。(F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャッツビー」小川高義・訳)
物語が進展するのは、七月も後半になってからのことだ。
七月下旬、ある朝九時。わが家の玄関前のがたごと道にギャッツビーの高級車が乗り入れ、三音階のクラクションを鳴らした。(F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャッツビー」小川高義・訳)
やがて、夏の終わりがやってきて、彼らは悲しい終末を迎える。
すべては、季節が司っていたのだ。
翌日は、ひどく暑かった。季節の最後になって、この夏一番の暑さだったのではないか。ニューヨークから乗った帰りの電車がトンネルを抜けて明るい地上へ出ると、ナビスコ社の正午のサイレンが、じりじりと暑い空気を破った。(F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャッツビー」小川高義・訳)
最悪の事件(デイジーの自動車事故)が起こった後も、ギャッツビーは夏にしがみつこうとしている。
「そろそろプールの水抜きをさせてもらいますよ」と言った庭師に、ギャッツビーはストップをかけた。
「きょうは待ってくれ」と、ギャッツビーは言った。それから弁解するような顔を私に向けて、「いや、まあ、この夏ずっと使いませんでしたのでね」(F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャッツビー」小川高義・訳)
プールには、秋の落ち葉が落ち始めようとしている。
夏は、既に過ぎ去ってしまったのだ。
しかし、ギャッツビーは、どこまでも「時の流れ」に抗い続ける男だった。
季節の進行とギャッツビーの人生がリンクしているところに、この物語の面白さがある。
ギャッツビーの悲劇は、「時間を巻き戻すことができる」と、本気で信じていたことだ。
このときギャッツビーは、金の力をつくづく思い知らされた。財産があれば、青春と神秘をつかまえて保存しておける。(F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャッツビー」小川高義・訳)
すべては、現代社会が見せた幻想に過ぎなかった。
都会という幻想の中でギャッツビーは、都会という現代社会に抗い続けていたのだ。
どこまでも滑稽なギャッツビーの姿は、ある意味で純粋無垢と言ってもいい。
サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』の主人公(ホールデン・コールフィールド)は、だからこそ、ギャッツビーに共感していたのだろう。
僕は『グレート・ギャツビー』に夢中になってしまった。ギャツビーくん。オールド・スポート。あれには参っちゃったね。(J.D.サリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」村上春樹・訳)
そして、現代読者がギャッツビーに共感するのも、やはり、少年のようなギャッツビーの(独りよがりな)幻想にあったのではないだろうか。
ジェイ・ギャッツビーは、少年の日の夢を抱えたまま大人になったような男だった。
人は誰も、少年のままでいることはできない。
時間を巻き戻すことは、誰にもできないのだ。
ギャッツビーは緑の灯を信じた。(略)だから夢中で漕いでいる。流れに逆らう舟である。そしていつでも過去へ戻される。(F・スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャッツビー」小川高義・訳)
過去という亡霊に憑りつかれ、未来へと進むことができなかった男、ジェイ・ギャッツビー。
そして、僕もまた、やはり、この夏も『ギャツビー』を忘れることはできなかった。
既に『ギャツビー』は、夏の読書の風物詩なのかもしれない。
書名:グレート・ギャッツビー
著者:F・スコット・フィッツジェラルド
訳者:小川高義
発行:2009/09/20
出版社:光文社古典新訳文庫