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ピート・ハミル『ザ・ヴォイス フランク・シナトラの人生』孤独な男の弱さを歌ったスターの人生

ピート・ハミル『ザ・ヴォイス フランク・シナトラの人生』孤独な男の弱さを歌ったスターの人生

ピート・ハミル『ザ・ヴォイス──フランク・シナトラの人生』読了。

本作『ザ・ヴォイス──フランク・シナトラの人生』は、1998年(平成10年)にアメリカで刊行された評伝である。

この年、著者(ピート・ハミル)は63歳だった。

フランク・シナトラは、1998年(平成10年)5月に82歳で他界。

イタリア系移民の子ども

ピート・ハミルは、アメリカの作家である。

日本では、高倉健主演の映画『幸福の黄色いハンカチ』の原作者として知られている(原題は「Going Home」)。

フランク・シナトラと親交のあったピート・ハミルは、シナトラの没後直後に、この回想エッセイ風の評伝を書いた。

まことに彼フランク・シナトラは一筋縄ではいかない複雑な人物であった。「正真正銘の気まぐれ人間、矛盾の塊。それが俺の人生だ。多分ツッパリと寂しがり屋が同居しているんだと思う」多くの死亡記事がこの言葉を引用した。(ピート・ハミル『ザ・ヴォイス』馬場啓一・訳)

全米の大スター(フランク・シナトラ)の人生を描いた伝記は数多い。

ピート・ハミルは、シナトラの人生を、アメリカの歴史という観点からダイジェストに考察している。

ハミルがここで行っているのは、ターン・オブ・ザ・センチュリーと呼ばれた十九世紀から二十世紀の変わり目にかけてヨーロッパから雪崩れ込んだ移民の子供たちの運命と、彼らが現在に至るまでどのような扱いを受けたかの歴史の検証である。(馬場啓一『ザ・ヴォイス』訳者あとがき)

本書において、フランク・シナトラは「イタリア系移民二世」の代表である。

フランク・シナトラがその生涯において成し遂げたことと、近代アメリカの中で最も重要なポイントとは分かち難く結び付く。すなわち移民の叙事詩。シナトラは移民の子であり、彼の築いた業績に声援を送った何百万という人々もまた、同じ過酷な歴史を背負った移民だった。(ピート・ハミル『ザ・ヴォイス』馬場啓一・訳)

フランク・シナトラは、芸術と個性という二つの武器で、イタリア系アメリカ人のイメージを変革させた。

「いつだってだな」シナトラは言う。「どんなに洗練されたパーティでもだ。部屋の隅には俺のことを ”イタ公” という目付きで見ている奴がいるんだ」(ピート・ハミル『ザ・ヴォイス』馬場啓一・訳)

シナトラの父方の祖父(ジョン・シナトラ)はシシリー出身で、母方の祖父母(ガラヴェンツ夫妻)は北イタリア(ジェノア)出身の移民だった。

彼らは、それぞれに子どもたちを伴い、安定した生活を求めてアメリカへと渡った。

一八八〇年代から第一次世界大戦の始まる頃までに二千四百万以上の人々が大西洋を越え、南北のアメリカ大陸にやって来ている。その四百五十万人ほどがイタリア人で、うち八割がイル・メゾジオルノと呼ばれる南イタリアやシシリー島の荒れ果てて打ち捨てられた村々の出身。(ピート・ハミル『ザ・ヴォイス』馬場啓一・訳)

つまり、シナトラの父親(アンソニー・マーチン・シナトラ)はシシリー系移民、シナトラの母親(ドリー・ガラヴェンツ)は北イタリア系移民ということになる。

出身地の異なる彼らの結婚は、両家の家族から強く反対されたため、1913年(大正2年)、二人は駆け落ちして結婚した。

マーティとドリー、中でもドリーはイタリア系アメリカ人の新旧世代を繋ぐ存在である。それは厳密な意味では移民でありながら、古いしきたりを打ち破る自由を行使したという意味で立派なアメリカ人だということだ。(ピート・ハミル『ザ・ヴォイス』馬場啓一・訳)

第一次世界大戦が始まった翌年の1915年(大正4年)12月12日、モンロー・ストリートでシナトラは生まれた。

移民たちの暮らしは、決して夢見ていたように安穏としたものではなかった。

なにしろ、イタリア系移民の中には、母国語であるイタリア語さえ読み書きできない連中が多かったのだから(「大多数のイタリア人移民はシシリー島出身だ」)。

地下鉄建設、建築物建造、床屋、鍛冶屋、修理工、靴磨き、靴職人、料理人、パン職人、野菜や果物の行商。

仕事のない国からやってきた人々にとっては、「仕事がある」ということ、ただそれだけで、移民としての目的を達成していたのかもしれない。

「食い扶持を稼ぐためには何でもした」シナトラは言う。「どんな下らない仕事でもやったんだ。わかるか、どうしてか。それは子供たちにはそんな仕事をさせたくないと思っていたからだ。下らない仕事は絶対子供にやらせたくない。絶対にだ」(ピート・ハミル『ザ・ヴォイス』馬場啓一・訳)

1891年(明治24年)3月14日には、イタリア系移民のリンチ殺人事件も起こっている。

警視デビッド・ヘネシー殺害事件の容疑者として検挙されたイタリア系移民たちが「無罪判決」を受けたことに、ニューオリンズ市民が激昂したのだ。

アメリカ人の群衆は監獄を襲い、獄舎からイタリア人たちを引きずり出し、そして殺した。二人が灯柱から叫びながら吊された。うち一人は吊されたロープをよじ登ろうともがいたが、銃で蜂の巣にされた。(ピート・ハミル『ザ・ヴォイス』馬場啓一・訳)

合計11名のイタリア人が虐殺されたこの事件は、アメリカにおける「リンチの歴史」として、史上最大規模のものだったという。

マイノリティーな移民社会の中で、シナトラは孤独な少年時代を過ごした。

歌手は誰でもそれぞれに歌い上げたいテーマを持っている。シナトラの場合、それは孤独そのものであった。(ピート・ハミル『ザ・ヴォイス』馬場啓一・訳)

イタリア系移民の一人っ子。

母親(ドリー・シナトラ)はチョコレート・ショップで働きながら、政治活動にも参加している(「もちろん民主党支持」)。

無口な父親(マーチン・シナトラ)は、「マーティ・オブライエン」を名乗って、アイルランド系移民を装っていた。

「親父はいい人間だった」ずっと後の彼の言葉。「好きだったよ、とても。でもあれほど孤独な男はいなかった」(ピート・ハミル『ザ・ヴォイス』馬場啓一・訳)

1920年(大正9年)、禁酒法の時代が到来し、ドリー・シナトラは “スピーク・イージー”(潜り酒場)『マーティ・オブライエン』を開店する。

そして、フランク・シナトラは歌い始めた。

「子供の頃、しょっちゅう歌ってた」彼は言う。「でも真面目に歌ってたわけじゃない。ドリーが歌えって言うんで、酒場で歌っていたんだ」(ピート・ハミル『ザ・ヴォイス』馬場啓一・訳)

15歳のとき、フランク・シナトラはプロの歌手になることに決めた。

どん底から復活した男

歌手としてのシナトラは、第二次世界大戦の中で頭角を現わしている。

スタッグ・ターケルが ”良い戦争” と呼んだ第二次世界大戦は、女性の性意識にも変革をもたらし、男が欲しいという直接的な要求を満たすため、彼女たちはシナトラを利用した。さよう、アンチオやガダルカナルで戦いに挑んでいる恋人たちを故国で待つ全ての女性たちのために、彼は歌ったのだ。(ピート・ハミル『ザ・ヴォイス』馬場啓一・訳)

若い男たちが戦場へ行っている間、シナトラは、故国に残された女性たちのヒーローとなった。

シナトラの魅力は、声や発声、歌い方、さらには趣味の良さなどといったものによってもたらされる「シナトラ・サウンド」にある。

それは、アメリカ北部の町に住む移民の歌声であり、世紀の変わり目に移民としてやって来たすべての人々の子どもたちを代表する歌声でもあった。

必ずしもシナトラのようには歌えなかったとしても、みんなが彼のように歌いたがった。フランク・シナトラの歌声は二十世紀のアメリカの都会を象徴するものであった。(ピート・ハミル『ザ・ヴォイス』馬場啓一・訳)

「ひ弱な男」を、シナトラは歌った(あくまでも、男らしさを失わない程度に)。

そうして生まれたものが「優しいタフ・ガイ」とも言うべき、フランク・シナトラというスタイルだった。

シナトラ以前、そのようなスタイルはアメリカの大衆文化に存在しなかった。これこそ今もフランク・シナトラが重要性を失わない理由の一つだ。彼はアメリカの男性像に全く新しいタイプを生み出したのである。(ピート・ハミル『ザ・ヴォイス』馬場啓一・訳)

自分の孤独を癒すため、シナトラは自分の内面に潜む痛みや苦悩を歌った。

人生を歌った多くのジャズ・ミュージシャンたちと同じように。

「最初の頃、自分の楽器は声かなと思ったがそうではなかった」私にかつてこう言ったことがある。「マイクロフォンだったんだ」(ピート・ハミル『ザ・ヴォイス』馬場啓一・訳)

シナトラの一生は、自らの孤独を如何にして癒すかに費やされた。

数度に渡る結婚や、数限りないロマンス、あるいは深酒すらも、彼を救うことはできなかった。

だが結局彼を救ったのは音楽だった。音楽だけが死ぬまで彼の救いとなった。(ピート・ハミル『ザ・ヴォイス』馬場啓一・訳)

第二次世界大戦が終わったとき、シナトラは「若きスター」としての座を失っている。

戦場から男たちが帰還してきたことにより、もはや、女たちにとってシナトラは重要な存在ではなくなっていたのだ。

マフィアとの黒い交際も、彼の足元をすくった。

シナトラと敵対するマスメディアは、ここぞとばかりシナトラに一斉攻撃を仕掛けた。

さらに、アメリカ政府の赤狩り(レッド・パージ)が、民主党支持者であるシナトラを追いこんだ。

第二次世界大戦がシナトラをスターに押し上げたとするなら、続く五〇年代初頭のもろもろの出来事は転落の要因と言えるだろう。その政治信条は突然うさん臭いものと人々に映り出す。(ピート・ハミル『ザ・ヴォイス』馬場啓一・訳)

映画『ゴッドファーザー』に登場する映画スター(ジョニー・フォンテーン)は、この時期のフランク・シナトラをモデルにしたものだと言われている。

人々の前で、シナトラは打ちのめされて倒れていた。人は時に人生をスポーツになぞらえてとらえる。例えばボクサー。真のボクサーは倒されて初めて一人前のボクサーとなる。倒されたままカウントを耳にするのは二流。偉大なボクサーは再び立ち上がるのだ。そしてシナトラは立ち上がった。(ピート・ハミル『ザ・ヴォイス』馬場啓一・訳)

シナトラの人生は、アメリカの歴史とともにあった。

それは、イタリア系移民の歴史であり、第二次世界大戦を巡るアメリカ国民の歴史でもある。

彼の発するメッセージは歌や物腰、態度、さらには帽子にさえ込められていた。辛い暗黒の時代をくぐり抜け、シナトラはようやく帰って来た。二度と再び闇の中に戻ることはなかった。(ピート・ハミル『ザ・ヴォイス』馬場啓一・訳)

戦後の大きな挫折が、シナトラの成長を促したのかもしれない。

一九五〇年代の半ばにおいてシナトラが表現していたのは、男たちの気持ちと様々な憧れである。彼らはその歌に聴き入った。(ピート・ハミル『ザ・ヴォイス』馬場啓一・訳)

シナトラは、単なる「幸運のスター」ではなかった。

アメリカ人はあがないの物語を好む。だがそれ以上にヒーローの帰還というのも好きだ。戦いによる傷を負って戻ったヒーロー。戻った時にはより強くそして賢くなっているヒーロー。(ピート・ハミル『ザ・ヴォイス』馬場啓一・訳)

シナトラは、どん底から復活した悲劇のヒーローだった。

そして、シナトラは歌い続ける。

おそらくは、自分のために。

自分の孤独を癒すために。

シナトラはジェイ・ギャツビーだったのか。実態を知っているつもりが本当はそうではなかったという謎の男。彼の謎の生涯と芸術を探り出す鍵は、きっと街の奥の闇の空間に広がっている。(ピート・ハミル『ザ・ヴォイス』馬場啓一・訳)

そして、謎を解く鍵を探して、著者(ピート・ハミル)は、イタリア系移民の歴史を紐解くところから、物語を始めた。

そこに、本書『ザ・ヴォイス』の魅力がある。

シナトラは、アーネスト・ヘミングウェイよりも、スコット・フィッツジェラルドの方を高く評価していた。

「ほれ、『グレート・ギャツビー』な、ジミー。ヘミングウェイにああいうの書けるか」「そうだけど、ヘミングウェイには他にいろいろあるよ」とキャノン。「フィッツジェラルドはあれだけだろう?」(ピート・ハミル『ザ・ヴォイス』馬場啓一・訳)

タフな男であり続けようとしたヘミングウェイと、弱さの中にあえて飛びこんでいったフィッツジェラルド。

もしかすると、シナトラは、フィッツジェラルドの弱さが好きだったのではないだろうか。

勇敢なだけの歌よりも、ずっと、フランク・シナトラの歌は、男たちの心を励ましてくれる。

誰よりも孤独を知っているのは、やはり、フランク・シナトラだった。

書名:ピート・ハミル
著者:ザ・ヴォイス──フランク・シナトラの人生
訳者:馬場啓一
発行:1999/08/05
出版社:日之出出版

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懐新堂主人
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。