文学鑑賞

井伏鱒二「取材旅行」おちょろ船、葛原勾当、有本芳水から骨董屋の買い出しまで

井伏鱒二「取材旅行」あらすじと感想と考察

井伏鱒二「取材旅行」読了。

本作「取材旅行」は、1961年(昭和35年)に新潮社から刊行された作品集である。

この年、著者は63歳だった。

紀行文で文壇史を読む

井伏さんの随筆には、旅について書いた、いわゆる紀行文が多い。

本書もそうした紀行文の類ではあるが、単に旅の所感を綴ったものではない。

旅を目的とする旅行ではなく、取材を目的とした旅行をテーマとすることで、紀行文に厚みを持たせている。

例えば「消えたオチヨロ船」は、瀬戸内の大崎島までオチヨロ船の取材に行ったときの様子を綴った紀行文である。

オチヨロ船というのは、港に碇泊している船に遊女を配ってまわる船のことで、古いものでは慶長年間からの歴史があったそうだが、1956年(昭和31年)の売春防止法の導入によって一挙に廃絶したものだという。

井伏さんは同行の編集者とともに、オチヨロ船に詳しい土地の人を訪ねて、その実態を詳細に報告しているが、その意味では、この随筆は単なる旅行記ではなく、オチヨロ船についての考察ということにもなって、庶民史的にも民俗学的にも興味深い。

「ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む」から始まる童謡「夕日」で知られる童謡詩人・葛原しげるの祖父に葛原勾当という人があった。

葛原勾当は盲目ながら琴の名手で、地元の広島県福山市では「勾当さん」と呼ばれて親しまれている人だが、「葛原勾当」はまさにこの「勾当さん」を詳しく取材した際の記録である。

福山は井伏さんの郷里でもあるから、勾当さんの取材の中には、井伏さんの幼少時代の思い出話も含まれてくる。

特に印象深いのは、井伏さんが子どものときに、千枝という瞽女から片目の歌を教わったというエピソードで、子どもたちが千枝を「ゴザさ、ゴザさ」とからかったとき、千枝はびくともしないで「♪てんがらがつた てんがらがつた テツつあ、めくら、、、」という歌詞から始まる「片目の歌」を教えてくれたという。

この千枝という瞽女は、件の勾当さんから琴を学んだ女性で、戦争中に再会したときに井伏さんは、病床で葛原勾当さんの思い出を話す瞽女声を聞いていたと綴っている。

文学史的に興味深いのは、岡山在住の詩人・有本芳水に取材した「吉備の旅」だろう。

芳水は、早稲田大学時代の交友のあった文学者たちとして、飯田蛇笏や若山牧水、北原白秋、三木露風、前田夕暮などの名前を挙げて、当時の活動を懐かしく思い出している。

牧水が「幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく」の歌を書いたのは、芳水と一緒に芳水の故郷である岡山を訪ねたときに作ったものだし、石川啄木の「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」は、与謝野鉄幹のうちの一夜百首会で作ったもので、啄木は「あれは与謝野さんにいい点をもらった」と言っていた。

もともと貧乏だった啄木は、その晩年にはさらに貧乏になっていて、友人たちも遠慮して訪ねるのを避けていたが、たまたま若山牧水が近くへ行ったついでに訪ねてみると、ちょうど啄木の臨終の時だった。

末期の水を取ってやった牧水は、葬式を出す金もないことから、詩人・土岐哀果の兄(浅草の寺の僧職にある人だった)に頼んで、無料でお経を済ませた。

棺は友人たちが日暮里まで担いでいったという。

どこの雑誌も引き受けてくれなかった国木田独歩の「牛肉と馬鈴薯」を、自身の「小天地」の巻頭で紹介したのが薄田泣菫である。

泣菫は「藤十郎の恋」の菊池寛や、「生まれ出づる悩み」の有島武郎などを発掘した人でもあった。

「泣菫」という筆名は、泣菫が失恋したときの話に由来している。

恋しく思っていた女性が他の男のところへ嫁入りしたとき、失意の泣菫が、その女性の家の前で佇んでいると、堤に菫が咲いていた。

菫を見ていると涙がこぼれてきた。

それで「泣菫」という名前ができたのだという。

紀行文というよりも、ちょっとした文壇史を読むような、濃密な取材旅行記だと思った。

骨董屋の買い出しに付いて能登半島まで

「能登半島」は、骨董屋の買い出しに付いて能登半島まで行ったときの話である。

旅の前に、この骨董屋は「私は強引に買います。そこを見といてください。人間が素直なだけじゃあ骨董はわかりません。品物を見るときの、私の腹黒そうな顔つきをよく見て下さい。らんらんと光る目を見て下さい」と言った。

実際、骨董屋の買い出しは、非常に強引だった。

良い品物があると「このぐい吞みは、しかし、とも繕いしてありますね。君はいい若い目でわからんかね」などとケチをつける。

鼠志野の深向附が出たとき、井伏さんが「これでビールを飲むといいでしょうね」と言うと、骨董屋は「あなたの識りあいの、青山二郎さんはこれで飲んでますよ」と言った。

「瑕があれば、無ければいいと思うし、無ければ、もっと古ければいいと思う。いつだってそれだ」という骨董屋の言葉は、けだし名言であろう。

名作『珍品堂主人』と合わせて読みたい、そんな取材旅行の記録である。

書名:取材旅行
著者:井伏鱒二
発行:1961/9/10
出版社:新潮社

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。