文学鑑賞

中平まみ「ストレイ・シープ」ファザコン女子の不倫と処女喪失

中平まみ「ストレイ・シープ」ファザコン女子の不倫と処女喪失

中平まみ「ストレイ・シープ」は、1980年(昭和55年)12月『文藝』に発表された長篇小説である。

この年、著者は33歳だった。

単行本は、1981年(昭和56年)1月に河出書房新社から刊行されている。

1980年(昭和55年)、文藝賞受賞。

なお、この年の文藝賞は、田中康夫「なんとなく、クリスタル」、青山健司 「囚人のうた」と合わせて、三作同時受賞だった。

1983年(昭和58年)、小林麻美主演ドラマ『ストレイ・シープ』原作小説。

原田康子『挽歌』へのオマージュ

本作「ストレイ・シープ」は、若い女性の内面の葛藤にスポットを当てた成長物語である。

背景となっているのは、複雑だった家庭環境だ。

祖母と母。母娘二代の結婚は、それぞれ恵まれていない。祖母は大きな造り醤油問屋に嫁にいったが、女の子を生んで間もなく夫が死んだ。再婚して、男二人と女一人を生んだが、母の姉になるその赤ん坊をすぐ病気で亡くし、それから母が生まれた。(中平まみ「ストレイ・シープ」)

パパが家を出てから祖母は、頻繁に主人公(七井エム子)の家へと通った。

自分の父親を悪しざまに言う祖母と、主人公は、ことごとくもめた。

あからさまに気に入らない顔をみせるエム子に、「何だろうねその顔つきは!」「この子はあの男にそっくりだよ。わるいところまでみんな同じだ」と、憎々しげに祖母は言い放った。(中平まみ「ストレイ・シープ」)

幼い頃からパパに似ていた母も、エム子より妹の方を可愛がった。

当然、エム子は、いわゆる「お父さんっ子」だったが、映画監督だったパパは、若い映画女優と駆け落ちして、家を出てしまい、そして、52歳のときに死んだ。

この物語の根底にあるのは、大好きだった父親を失った女の子の、深い喪失感である。

その後の、かくも長きにわたる父親の不在。それがエム子のバックボーンとなっていると言っても、多分言い過ぎにはならないだろう。(中平まみ「ストレイ・シープ」)

主人公は、自分の居場所を求めて悪戦苦闘するが、彼女の自分探しの旅は、もしかすると、父親探しの旅だったのかもしれない。

エム子にとってパパは、決して父親らしい父ではなかった。

とにかく、パパはいわゆる父親らしい父親ではなかった。「犬になりたくなかったパパ」ではなく、「パパになりたくなかったパパ」だったのかも知れない。(中平まみ「ストレイ・シープ」)

それでも、パパに対するエム子の愛情が損なわれることはなかった。

父は「パパ」と呼ばれ、母と祖母は「母」と「祖母」と呼ばれる。

名前のない家族の中で、父親である「パパ」にだけ、名前が与えられているのだ。

パパを失った喪失感は、主人公の成長に大きな影響を与える。

彼女の初恋の相手は、パパと一緒にいるときのような安心感を得られる男性だったのだ(つまり、ファザー・コンプレックス)。

RPGTVの朝のニュース番組『モーニング7(セブン)』のアシスタントとして採用された主人公(24歳)は、報道記者(本間ススム・36歳)と不倫の恋に落ちる。

ストーリーとして、本作品の主軸となっているのは、主人公と本間との不倫物語だ。

彼は、意思表明をしたエム子にたいし、さかんに言った。「あなたは僕のこと錯覚してるんですよ」「いい若い娘がこんな中年男好きになることないよ」「だって不自然だよ」「もっとあなたにふさわしい相手がいるよ」「あなたに何もしてあげられないもん」「そうなっちゃいけないんだよ」「あなたのためよ」(中平まみ「ストレイ・シープ」)

年上の男性に対し、積極的にアプローチする主人公の姿は、原田康子『挽歌』(1956)の影響を強く感じさせる。

ヴィヴァルディの四季がドラマティックに随所に流れていたTVドラマ『挽歌』。どこか自分に近しい感じのある、いかにも感受性の鋭そうな木村夏江という女優の扮する玲子が、ポエティックな北海道を舞台に、かげのある中年の建築家、桂木とくりひろげる、陰影に富み、悲劇的で背徳的なにおいのする、起伏に富んだ物語は、エム子をすっかりとらえた。(中平まみ「ストレイ・シープ」)

主人公は、「さっそくレコードと新潮社の文庫本を買い、エム子はその世界に浸りながら、いつかは自分も、「あたしの桂木さん」と出会い、どこか退廃的で熱っぽい、そんな恋愛をしたい」と願うようになる。

エム子にとって、その相手が、本間ススムだった。

何度も繰り返しドラマ化されている『挽歌』だが、木村夏江が主人公(兵藤怜子)を演じたのは、1971年(昭和46年)放映のNHK「銀河ドラマ」である。

もっとも、『挽歌』が、不倫相手(桂木)の家庭にフォーカスしているのに対し、本作『ストレイ・シープ』では、本間の家庭が描かれることはない。

この物語で描かれているのは、不倫の恋に溺れる主人公の葛藤であるからだ。

エム子は、ずっと年上の男との恋愛模様にひかれた。エム子は、じたばた暴れまわる自分をすっぽりと包みこみ、可愛がり、時には、目の前がまっ赤になるほどいやらしく愛してくれる、若くない男を望んでいた。(中平まみ「ストレイ・シープ」)

その根底にあるのは、もちろん、足りなかった父親からの愛情だろう。

一方で、母親との確執は深まった。

「あんたは、あたしの信頼を裏切ったのよ」「昔、パパが香水のにおいプンプンさせて帰ってきたことがあったけど、あんたはそれとおんなじよ」母は険悪な顔でエム子をなじり、きたならしいと言わんばかりににらみつけ、しばらくのあいだエム子と口をきかなかった。(中平まみ「ストレイ・シープ」)

『挽歌』のように、不倫相手の家庭が描かれていないのは、主人公の家庭内に「母」がいたからだ。

かつて、若い女に夫を寝取られた妻としての母。

主人公の不倫は、まるで、本間の妻の苦しみを映す鏡のように、母をも傷付けていたのだ(もっとも、本間の妻が、夫の不倫に気付いていたかどうかは触れられていない)。

亡き父に捧げる追悼の物語

主人公の成長は、エム子の処女喪失を象徴として描かれている。

本間は言った。数ある小説のその場面で、男たちが口にするセリフを。うめくように。「すべてを知りたい」(中平まみ「ストレイ・シープ」)

それは、処女喪失が、女性にとっても男性にとっても、重要な意味を持つ時代だった。

「甘くて少し苦い」と続くコピーは、男がいかに処女を珍重するか、また処女好きであるかという印象をエム子に与えた。カンパリのあかい色が、初めての時流すという血のイメージとだぶった。その時、処女の味って、カンパリっていったいどんなのだろうと思ったけれど、何となくそれは、男が愛で味わうお酒のように思っていた。(中平まみ「ストレイ・シープ」)

エム子の処女喪失は、この物語のクライマックスとして、これでもかというくらい丁寧に描かれている。

本間はエム子に「僕たちとうとう一つになったんだね」と言った。またしてもそんな言葉をきくと、エム子は「ワッ」と言って、シーツを顔まで引き上げたくなる。他人でなくなる。深い仲になる。結ばれる。関係をもつ。情を通じる。女にしてもらう。既成の言葉は、どうしてこうもいやらしいのだろう。(中平まみ「ストレイ・シープ」)

そして、深い愛と反動的にやってくる突然の別れ。

二人の不倫は、職場の知るところとなり、本間は、海外勤務を命ぜられる。

エム子を待っていたのは、アシスタント起用の終了という「失職」だった。

失意の二人が、不倫の恋を続けていくことはできない。

結局のところ、不倫の恋が、主人公に何かをもたらすということはなかったのだ。

数時間後に、彼はその両腕に妻と三人の子供を抱え、海を渡っていってしまう。いったい、どうしたらいいの。もう自分たちのあいだは、電話線一本でしかつながっていない。エム子は落ち着きをなくした。「抱いて欲しいのよ!」(中平まみ「ストレイ・シープ」)

もちろん、家族を有する本間が、主人公のもとへと戻ってくることはない。

不倫の恋は、安定した生活があるからこそ、維持できるものだったのだ。

本間との会話の中で、主人公は家庭の話に触れたことがある。

本間とお茶を飲んでいた時、「女三人の生活ってさびしいのよ」。つい出てしまった自分のそんな言葉により、エム子は、パパがいないあいだにつちかわれてきた飢えや、長年にわたって積もり積もってきたさびしさの厚み、重みを、みずから知らされた。(中平まみ「ストレイ・シープ」)

主人公が、不倫相手に求めたもの──それは、「自分の心の隙間を埋めてもらいたい」という祈りだった。

本間との不倫は、父親を失った喪失感を癒すための恋愛だったのだ。

ここに、主人公の不幸がある。

でも、本当はそんなことはどうでもよかったのだ。ただ、いてくれさえすればよかった。生きていてくれたら、もうそれでよかった。パパに死なれてみて、エム子にはそれが分ったのだった。(中平まみ「ストレイ・シープ」)

作品タイトル「ストレイ・シープ」は、「迷える羊」を意味する新約聖書の言葉だ。

夏目漱石『三四郎』で有名なこの言葉を、主人公は、自分になぞらえたのだろう。

そもそも、この作品は、閉塞感を抱えた若い女性の、心身の成長を描いた物語である。

昔も今も、エム子が女優にならないのは、なれないからなのだ。しかしそれなら、エム子はいったい何になればいいのかあるいはなれるのか。何をすればいいのかあるいは出来るのか。(中平まみ「ストレイ・シープ」)

大学を中退し、熱心に職探しをすることもなく、ブラブラと暮らしていた二十歳の日々。

「何か」になりたいという漠然とした希望を抱えながら、彼女は、自分のやりたい「何か」が何なのかということを、知ることができなかった。

テレビニュースのアシスタント起用や、報道記者との不倫は、彼女にとっては青春の突破口だったに過ぎない。

しかし、明日こそ明日こそと念じつつ、エム子の閉塞状況はいつまでたっても変らなかった。いくつもの朝と夜がおとずれたが、それはただエム子のブランクを、一日一日と増やしていくだけだった。(中平まみ「ストレイ・シープ」)

不倫の代償として失職した主人公は、精神的に追い込まれていく。

そして、主人公の閉塞感は、世を生きる現代女性の閉塞感でもあっただろう。

夫や子供の世話が、自分の生きている主目的、人生にすらなっている「誰々さんの奥さん」や「何々ちゃんのお母さん」でしかない、固有名詞のあってなきが如き女たち。専業主婦という名の、料理人、掃除婦、洗濯女、雑役係、夜の相手もつとめる住みこみの家政婦。(中平まみ「ストレイ・シープ」)

母は「この世の中で、自分の好きなことをして暮している、そんな恵まれた人が、どれだけいると思ってるの?」と言った。

女性だからという理由だけで、生きにくい(と信じられていた)時代。

不倫と失職、父親の死という経験を乗り越えて、彼女は、とうとう自分の居場所を見つける。

それが「文学」だった。

エム子にとって、「書くこと」は向うに立ちはだかっている、ハードルのようなものになっていた。それを越さねば、前にはゆけぬ。あるいはまた「書くこと」はエム子にとって、最後の砦、切り札ともいえた。(中平まみ「ストレイ・シープ」)

かつて「小説でも書こうか」と漠然と考えていた主人公は、「小説を書くしかない」というところまで追い込まれる。

その結果、生まれた作品が、つまり、『ストレイ・シープ』だった。

この物語は、一人の若い女性が、小説を書くに至った経過を綴った「メイキング・オブ・『ストレイ・シープ』」の物語だったのである。

そして、巻頭に掲げられた「パパへ──」の献辞。

主人公にとって、小説を書くことは、亡きパパに捧げる追悼の行為でもあったのかもしれない。

書名:ストレイ・シープ
著者:中平まみ
発行:1981/01/20
出版社:河出書房新社

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。