文学鑑賞

島崎藤村「破戒」秘密を抱えて生きる青年教師の苦悩と葛藤の日々

島崎藤村「破戒」秘密を抱えて生きる青年教師の苦悩と葛藤の日々

島崎藤村「破戒」読了。

本作「破戒」は、1906年(明治39年)3月に「緑陰叢書」第一編として自費出版された、書き下ろしの長篇小説である。

この年、著者は34歳だった。

詩人として活動していた島崎藤村にとって、初めての長篇小説。

「破戒」は、終わりではなく、新たな始まり

本作「破戒」は、被差別部落出身の青年教師<瀬川丑松(24)>が、出自の秘密を抱えながら生きる苦悩と葛藤の日々を描いた長編小説である。

タイトルの「破戒」は「戒めを破ること」で、丑松にとっての戒めとは、父から言い聞かされていた「自分の素性を隠し通せ」という教えであった。

父はまた添付(つけた)して、世に出て身を立てる穢多の子の秘訣――唯一つの希望、唯一つの方法、それは身の素性を隠すより外に無い、「たとえいかなる目を見ようと、いかなる人に邂逅(めぐり)あおうと決してそれとは自白(うちあ)けるな、一旦の憤怒(いかり)悲哀(かなしみ)にこの戒を忘れたら、その時こそ社会(よのなか)から捨てられたものと思え」そう父は教えたのである。(島崎藤村「破戒」)

丑松は、父の戒めに忠実に生きるが、穢多へ寄せる思いは隠しようがない。

新平民の思想家<猪子蓮太郎>の著作を愛読したり、新平民の生徒<仙太>をあえてかばってみせたり、<大日向>という大尽が新平民だと知れて下宿屋を追放されたことに憤慨して、自分も下宿を変えてみたり。

もちろん、同僚教員たちが穢多の噂をしているときにも、仲間に加わったりしなかったから、いったん「瀬川丑松は新平民らしい」という噂が流布されるや、その勢いは止めるべくもなかった。

丑松は、敬愛する先輩・猪子蓮太郎が「我は穢多なり」と宣言して活動している姿に勇気を得て、幾度となく「自分も穢多の子である」と告白しようと決意するが、父の戒めを破ることは恐ろしい。

ついに、丑松が真実を明らかにするのは、猪子蓮太郎が殉死したとき(賊に襲撃されて殺害された)で、自殺を思いとどまった末に、生徒の前ですべてを懺悔する丑松の姿は感動的でさえある。

急に丑松は新しい勇気を掴んだ。どうせ最早今までの自分は死んだものだ。恋も捨てた、名も捨てた――ああ、多くの青年が寝食を忘れる程にあこがれている現世の歓楽、それも穢多の身には何の用が有ろう。一新平民――先輩がそれだ――自分もまたそれで沢山だ。(島崎藤村「破戒」)

丑松にとって「破戒」は、終わりではなく、新たな始まりだった。

人生をどのように生きていくべきかという苦悩

本作「破戒」は、島崎藤村の処女長篇作品だが、個性豊かな登場人物など、物語として読んで面白い小説となっている。

教師が主人公で、学校が舞台となっているだけに、学園小説としての味わいもある。

保守的で自己顕示欲の強い校長は、夏目漱石『坊っちゃん』に出てくる校長と同類の管理職だし、熱血漢の親友<土屋銀之助>は、さながら『坊っちゃん』の<山嵐>の系統に属する人物と思われる。

興味深いのは、丑松が穢多であることを告白した後も、丑松を強く支持した人たちの存在である。

「して見ると、貴方も瀬川君を気の毒だと思って下さるんですかなあ」「でも、そうじゃ御座ませんか――新平民だって何だって毅然(しっかり)りした方の方が、あんな口先ばかりの方よりは余程好いじゃ御座ませんか」(島崎藤村「破戒」)

とりわけ、丑松が秘かに思いを寄せる若き女性<お志保>は、恐れることなく丑松への思いを鮮明にしてみせる。

青春小説としての要素を持つ本作の、クライマックスの一つだろう。

もとより、『破戒』は、近代日本の差別思想を糾弾する社会小説だが、差別がまん延する社会で生きる丑松の孤独と情熱は、血の通ったこの物語の大きな柱と言えるかもしれない。

思えば今までの生涯は虚偽(いつわり)の生涯であった。自分で自分を欺いていた。ああ――何を思い、何を煩う。「我は穢多なり」と男らしく社会に告白するが好いではないか。こう蓮太郎の死が丑松に教えたのである。(島崎藤村「破戒」)

時代は変わり、社会は変化した。

しかし、人生をどのように生きていくべきかという青春の苦悩は、今も共感できる永遠のテーマである。

その意味で、この作品が、新潮文庫から消えることは永遠にない。

なお、巻末には、平野謙による「島崎藤村 人と文学」「『破戒』について」のほか、北小路健「『破戒』と差別問題」が収録されていて、作品理解を深める資料となっている。

巻頭の「千曲川流域之図」と併せて参照したい。

作品名:破戒
著者:島崎藤村
発行:2005/07/30
出版社:新潮文庫

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。