ロバート・リンド「髭剃りの教訓」読了。
本作「髭剃りの教訓」は、1933年(昭和8年)にイギリスで発表されたエッセイである。
原題は「A Sermon on Shaving」。
この年、著者は54歳だった。
ロバート・リンド「髭剃りの教訓」
福原麟太郎の随筆を読んでいると、「リンド」というエッセイストの名前を見かけることが多い。
いま古い「英語青年」をひっくり返してみると、私は大正十四年にミルンとガーディナーの随筆を、十五年にリンドの随筆を訳出して居り、昭和二年ボウイスの短篇、昭和三年にハックスレーの「半休日」を訳している。(福原麟太郎「一九二〇年代」)
「1926年(大正15年)にリンドの随筆を訳出している」とあるのは、『英語青年』に発表された「食べる」のことで、この後も、福原さんは、折に触れて、ロバート・リンドのエッセイを日本へ紹介している。
近年では、モーム研究家の行方昭夫編訳による『たいした問題じゃないが(イギリス・コラム傑作選)』(2009)に、リンドの作品が収録されている。
この『たいした問題じゃないが』には、リンドのほか、福原さんの文章にあったミルンやガードナーに加え、ルーカスのエッセイも収録されていて、往年のイギリスエッセイを満喫するに最適の一冊だ。
これらは日本の旧制高校の英語テキストとしてよく読まれた。大学受験にも頻繁に出題された。旺文社の原仙作著『英文標準問題精講』には、この四人からの出題が非常に多い。(略)第二次大戦後、新制大学の教養課程の英文講読のテキストとして、短篇はモーム、エッセイはこの四名が定番であった。(行方昭夫『たいした問題じゃないが』解説)
大阪外国語学校英語部に在籍した庄野潤三は、『現代英国随筆選』を教科書に英文を学んだという。
ロバート・リンドがいた。これは「シャイ・ファーザー」。恥ずかしがりやのお父さんの話である。(庄野潤三「文学交友録」)
庄野さんの名作短篇「相客」が、ガーディナーの「ア・フェロー・トラヴェラー」にインスパイアされて生まれた作品であることは有名な逸話となっている。
日本語訳で読みたい人には『英国現代随筆集』(1935)がいい。
『英国現代随筆集』には、庄野さんの『文学交友録』で紹介されている、ガーディナーの「ア・フェロー・トラヴェラー(同乗者)」や、リンドの「恥ずかしがり屋の父親」、ルーカス「或る葬儀」などが収録されている。
行方昭夫『たいした問題じゃないが』解説に「第二次大戦後、新制大学の教養課程の英文講読のテキストとして、短篇はモーム、エッセイはこの四名が定番であった」とあるとおり、戦後の英文講読のテキストには、リンドやミルンのエッセイが必ずと言っていいほど含まれている。
1963年(昭和38年)に評論社から刊行された『現代随筆論文選(ニュー・メソッド英文対訳シリーズ)』(龍口直太郎)にも、リンドとミルンのエッセイは含まれている。
つまり、昭和以降に英文学を勉強した人たちにとって、ロバート・リンドは、懐かしい名前として記憶されているだろう、ということだ。
『世界』2020年7月号(no.934)には、ロバート・リンドの「髭剃りの教訓」というエッセイが掲載されている(行方昭夫「お許しいただければ」)。
毎朝二十年間も髭を剃っていれば、誰だって何かを学ぶことになる。(ロバート・リンド「髭剃りの教訓」行方昭夫・訳)
人は、髭剃りから何を学ぶことができるのだろうか。
怠惰で不器用なので自分で剃らずに床屋に剃ってもらう人でも、中年になるまでには、人間性について何かしら学ぶものだ。というのは、どの階級の床屋でも人間性のさまざまな面を示しているからだ。(ロバート・リンド「髭剃りの教訓」行方昭夫・訳)
どうやら、著者(ロバート・リンド)は、髭剃りがあまり好きではないらしい。
三日間剃らないのは不潔で、三十年剃らないのは清潔だというのは、私には理解できない。(ロバート・リンド「髭剃りの教訓」行方昭夫・訳)
毎朝、鏡の前で髭を剃る習慣は時間の無駄だと、著者は主張している。
それでも、著者が髭剃りの習慣をやめないのは、そうしなければ社会から除け者にされてしまうからだ。
しかし私が髭剃りに関して伝えたいと思う教訓は、偽善行為をやめよう、ということではない。完璧さに必要なものだとして、ある一つのものだけ信じるのをやめようということだ。(ロバート・リンド「髭剃りの教訓」行方昭夫・訳)
完璧な髭剃りには、完璧な剃刀が必要だ。
完璧な剃刀には、完璧な石鹸の泡が必要となり、完璧な石鹸の泡には、完璧な髭ブラシが必要となる。
何かがひとつ完璧であれば、完璧な髭剃りを行うことができる、というものではない。
そして、それは、人生や社会にも通じることなのだ。
完璧な人生、あるいは、完璧な国家は、完璧な髭剃りより多分ずっと達成が困難であろう。そのためか、達成するための方法に考えを巡らすことになる。その際、一つの方法の重要性を強調するあまり他の方法の重要性を見逃してしまう。(ロバート・リンド「髭剃りの教訓」行方昭夫・訳)
要は、広い視点を持たなければならない、ということだ。
一つの壁では家は建てられないのと同じく、完璧な国家はたった一つの原理のみで打ち立てることなどできない。少なくとも私はそう思った。(ロバート・リンド「髭剃りの教訓」行方昭夫・訳)
「産児制限」も「共和主義」も「共産主義」も、それだけで完璧な国家が生まれるわけではない。
産児制限を実施しても、共和国を樹立しても、プロレタリアの独裁主義を実現しても、それだけでは人類は、まだ悲惨であり得るのだ。
毎朝の髭剃りから、著者が学んだことは、「完璧な国家は、たった一つの原理のみで打ち立てることなどできない」ということだった。
さらにもう一つの独断的な考えは、一つを無視する者は全部を無視する、というものだった。(ロバート・リンド「髭剃りの教訓」行方昭夫・訳)
このエッセイのポイントは、髭剃りという習慣的な行為からでさえも、人は何かしら教訓を得ることができる、ということだ。
髭剃りの話が、世の中の原理主義者たちに対する具体的な批判になっている。
原理主義の盲点を、髭剃りをメタファーに説いているとも言えるが、このエッセイは、髭剃りの話から始まっているところがいい。
深読みすると、「髭剃りが嫌いだ」というエピソードも、原理主義に対するアイロニーと解釈することもできる。
短いエッセイなのに、読みどころが多くて、イギリスのエッセイ文学というのは、本当に贅沢なものだと思う。
村上春樹「どんな髭剃りにも哲学がある」
「毎朝二十年間も髭を剃っていれば、誰だって何かを学ぶことになる」という一文から思い出されるのが、「どんな髭剃りにも哲学がある」という言葉だ。
村上春樹の作品の中に、初めて「どんな髭剃りにも哲学はある」という言葉が登場したのは、1980年(昭和55年)『群像』に掲載された長編小説『1973年のピンボール』だった。
あたしは四十五年かけてひとつのことしかわからなかったよ。こういうことさ。人はどんなことからでも努力さえすれば何かを学べるってね。どんなに月波みで平凡なことからでも必ず何かを学べる。どんな髭剃りにも哲学はあるってね。どこかで読んだよ。実際、そうしなければ誰も生き残ってなんかいけないのさ。(村上春樹「1973年のピンボール」)
バーのマスター(ジェイ)は、「どこかで読んだよ」と言って、この言葉を引用している。
次に、この言葉が登場するのは、女性ファッション誌「CLASSY」に掲載されたエッセイ「哲学としてのオン・ザ・ロック」だ。
エッセイ集『ランゲルハンス島の午後』として書籍化もされている。
その頃に覚えた例文は今でもいくつか覚えている。たとえばサマセット・モームの「どんな髭剃りにも哲学はある」という言葉もそのひとつである。(略)要するにどんな些細なことでも毎日つづけていれば、そこにおのずから哲学は生まれるという趣旨の文章である。女の人向けに言うと、「どんな口紅にも哲学はある」ということになる。(「哲学としてのオン・ザ・ロック」)
学生時代、勉強嫌いだった村上春樹だが、「例文がいっぱい載っているから」という理由で「英文和訳」の参考書を読むのだけは例外的に好きだったという。
その頃に覚えた例文のひとつが、サマセット・モームの「どんな髭剃りにも哲学はある」という言葉だった。
エッセイ集『走ることについて語るときに僕の語ること』にも、この言葉は登場する。
サマセット・モームは「どんな髭剃りにも哲学がある」と書いている。どんなつまらないことでも、日々続けていれば、そこには何かしらの観照のようなものが生まれるということなのだろう。僕もモーム氏の説に心から賛同したい。(村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」)
つまり、「どんな髭剃りにも哲学はある」という言葉は、村上春樹にとって、ある意味で人生規範のようになっている、ということだろう。
ただし、サマセット・モームの作品を探しても、「どんな髭剃りにも哲学はある」という言葉は見つからない。
ちなみに、1963年(昭和38年)に評論社から刊行された『現代随筆論文選(ニュー・メソッド英文対訳シリーズ)』(龍口直太郎)には、リンドの「ひげ剃り談義」が収録されている。
誰だって20年も30年も毎朝ひげを剃っていれば、何か得るところがあるものだ。(ロバート・リンド「ひげ剃り談義」龍口直太郎・訳)
抄訳につき、エッセイ全体を読むことができないので、「完璧な国家は、たった一つの原理のみで打ち立てることなどできない」という結論までは掲載されていないが、「髭剃りから何かを得る」という教訓は、ここからも読みとることができる。
つまり、「どんな髭剃りにも哲学はある」という教訓は、ロバート・リンドの「髭剃り談義」からも得ることができる、ということだ。
あるいは、モームの文章にも、同じようなものがあったのかもしれないが、現在のところ、それらしい情報は見つからないようである。
ちなみに、『現代随筆論文選』には、リンドのほか、モームやミルン、ハクスリー、ギッシングなどのエッセイが多数収録されている。
古い英国エッセイを好きな人には、読み物としてお勧めしたい。