庄野潤三「イソップとひよどり」読了。
本作「イソップとひよどり」は、1976年(昭和51年)6月に刊行された随筆集である。
この年、著者は55歳だった。
生田の「山の上の家」での暮らし
前回の随筆集『庭の山の木』の刊行が1973年(昭和48年)5月だった。
1973年(昭和48年)から1976年(昭和51年)にかけて、庄野さんの仕事を見ると、1973年(昭和48年)に長篇『野鴨』、1974年(昭和49年)に連作短編集『おもちゃ屋』、1975年(昭和50年)に短篇集『休みのあくる日』、1976年(昭和51年)に連作短編集『鍛冶屋の馬』などを出版している。
1970年(昭和45年)5月に「山の上の家」を出て、黍坂に新居を構えた長女(夏子)が、黍坂の住人として活躍するのが、ちょうど、この時期だった。
『野鴨』『おもちゃ屋』『鍛冶屋の馬』などの作品では、いずれも、黍坂の長女が重要な登場人物となっており、この時期の庄野文学を支えていたことが分かる。
本作『イソップとひよどり』にも、そんな時期の庄野さんの日常が綴られていて、例えば「忙しい夏」では、長女の出産と高校野球とが組み合わせて紹介されている。
一昨年の夏は、娘の出産と長男の母校の甲子園出場とが重なって、忙しかった。出産もはじめてだし、甲子園へ出るのも学校創立以来はじめてで、とにかく、気がもめた。(庄野潤三「忙しい夏」)
長女の初めての出産は、1971年(昭和46年)7月のことで(長男・和雄)、この年、長男(龍也)の母校である桐蔭高校が、夏の甲子園大会に初出場している。
かつて、五人家族の時代に(明夫と良二として)活躍した男の子2人も、それぞれ大きくなっていて、「小綬鶏」では二人とも大学生となっている。
高校を卒業した下の男の子が、四月から大学へ行くようになった。先ずこの子を起さなくてはいけない。通学に三十分よけいにかかる。(庄野潤三「小綬鶏」)
同じ「小綬鶏」には「私たちが多摩丘陵のひとつであるこの山へ引越して来てから、十四年目になる」「新しい公団住宅の町が出来てからでも、八年くらいたった」とある。
小綬鶏は、「山の上の家」が「山の上の家」であることを思い出させてくれる、大切な鳥だったのだろう(昭和49年6月『俳句とエッセイ』所収)。
「一枚のレコード」は、家族でレコード・コンサートを開いて時代の、楽しい思い出を綴った作品だ。
今年の七月に阪田寛夫からいいレコードを送ってもらった。東京少年少女合唱隊が吹き込んだ「新しい少年少女の歌」というので、「塩、ローソク、シャボン」「野山をわたる風」「五年生」「みんなみんなワルツ」「くじらの子守唄」「わたりどり」など、全部で十四の合唱曲が収められている。(庄野潤三「一枚のレコード」)
『新しい少年少女の歌』というレコードのことは、『山田さんの鈴虫』を始めとする晩年の作品群でも繰り返し語られているから、よほど思い入れの強いレコードだったのだろう。
私たちの家族は、一年のうち、夏とそれに近いころだけ、夜のお茶の時間に蓄音機のある部屋に集まって、果物を食べたりしたあとでレコードをきく。手持ちの盤はいくらもないのだが、その都度、何をかけますか」と誰かが聞き、あれにしようとほかの者がいって、あっさりと曲目は決まる。(庄野潤三「一枚のレコード」)
個人個人がスマホでサブスクの音楽を聴いたり、YOU TUBEを視聴したりする現代からは、ちょっと想像が難しい光景だが、日常生活における家族での共同体験こそが、庄野家の重要なテーマだったのだろう。
もっとも、昭和という時代だったからこそ、それが可能だったのかもしれない(日曜日の夜には家族揃って『サザエさん』を観るとか)。
「日を重ねて」は、東京から川崎市多摩区生田(山の上の家)へ引っ越してきた頃を回想したエッセイである。
四月の四日、次の日が始業式という、ぎりぎりの日に引越した。向うを出る時は何ともなかったのに、風が次第に強くなり、生田に着くと、土ぼこりをまき上げて吹きつけて来る。(庄野潤三「日を重ねて」)
「トラックからおろした荷物を家の中へ運び込んでいたら、私の仕事机が、風にあおられて、浄水場の金網の向うまで飛んで行った」とあるから、相当に風の強い場所だったのだろう(『夕べの雲』にそんなエピソードがあった)。
しかも、井戸からモーターで組み上げる工事が完了していなかったらしく、水道の水が出ない。
プロパン・ガスも入っていなかったので、下の家で夕食のご飯を炊かせてもらい、水はバケツで貰い水をした。
あくる日は雨。中学校も小学校も同じ日に始まるから、手分けをしなくてはいけない。中学二年になる長女には妻がついて行き、小学四年になる上の男の子には、私がついて行く。二、三日遅れて西生田の幼稚園へ通うようになった下の男の子が、留守番である。(庄野潤三「日を重ねて」)
「山の上の家」の暮らしは、スタートから大変なものであったが、「私たちは、越して来た最初からこの生田という土地が気に入っていた」と、庄野さんは綴っている。
ちなみに、庄野さんが第二回川崎市文化賞を受賞したのは、1973年(昭和48年)11月のこと。
生田で暮らし始めた時期のことを書いた長編小説『夕べの雲』は、今や、庄野潤三を代表する名作となった。
──以前、小説の中でこういうふうに書いたことがある。百貨店で電気スタンドを買って来た父親が、迎えに出た小学三年生の男の子に、それ、なにと聞かれて、「これか。何でもない」と答える。(庄野潤三「母国語について」)
「以前、小説の中で」とあるのは、『夕べの雲』の「金木犀」のことで、土曜日に夫婦でデパートへ出かけたときの話が元になっている。
大浦が電気スタンドの箱を持って、家の中へ入ろうとすると、正次郎が、「それ、なに?」「これか。何でもない」まだ聞きたそうにするのを、「お父さんのものだ」といって、大浦は急いで自分の部屋へ入った。(庄野潤三「夕べの雲」)
「これか。何でもない」という咄嗟のごまかしは、父親である庄野さんにとって、大きなトラウマとなったようだ。
同じく『夕べの雲』でお馴染みの「大きな甕」について書かれた文章もある。
この備前の大甕は、今から十五年前に井伏(鱒二)さんの紹介によって手に入れた。持ち主は福山の小林旅館で、通運便で送って貰った。(庄野潤三「古備前の水甕」)
室町末期から桃山の古備前というのもすごいが、井伏さんの紹介によって入手したという来歴の方に、庄野さんとしては思い入れがあったのではないだろうか。
この水甕の話は、井伏鱒二のエッセイ「庄野君と古備前」にも詳しく書かれている。
水甕つながりでは、青柳瑞穂について綴った「硯・オノト・小皿」もいい。
私たちが多摩丘陵のひとつである生田の丘へ引越して来てから三年ほどたった頃に、東京の阿佐ヶ谷にいる青柳さんをお招きしたことがある。青柳さんとは若い時からの友人である井伏(鱒二)さんの紹介で手に入れた備前の水甕を見て頂くというのが口実であったが、幸いそれは気に入ってもらえたらしい。(庄野潤三「硯・オノト・小皿」)
水甕の鑑賞が終わると、あとは酒盛りとなって「夜ふけに妻と高校一年の長女がハイヤーで駅まで青柳さんを送り、電車が来るまでそばについていた」とある。
庄野潤三の書評から読書の世界が広がる
井伏鱒二の作品について、井伏さんから直接聞いた話を綴った「井伏鱒二聞き書」は、本作『イソップとひよどり』で大きく目立つ作品となっている。
河出書房新社『カラー版日本文学全集』の解説として書かれたもので、全集収録の『厄よけ詩集』の詩について、井伏さん本人のコメントが紹介されている。
「逸題」その時分、僕らの飲みに行くのは「はせ川」とここと二つだけだった。小林(秀雄)、三好(達治)、牧野信一、それから坂口安吾の若いころ、永井(龍男)なんかが常連だった。蛸のぶつ切りをしたのはここでしょう。永井がここで、「ぶつ切りにしてくれ」といった。(庄野潤三「井伏鱒二聞き書」)
「逸題」は『厄よけ詩集』の中でも、特に有名な作品。
今宵は仲秋明月
恋を偲ぶ夜
われら万障くりあはせ
よしの屋で独り酒をのむ
春さん蛸のぶつ切りをくれえ
それも塩でくれえ
(井伏鱒二「逸題」)
「永井がここで、「ぶつ切りにしてくれ」といった」あるのは、つまり「よしの屋」という飲み屋だった。
河上徹太郎が飲み始めたのも、この頃からで、小林秀雄の「アルチュール・ランボウの会」も、この店が会場となっていたらしい(永井龍男は「アル中が乱暴する会」と言っていた)。
井伏さんのコメントを挟みながら、庄野さん自身の述懐が綴られていて、すごく充実した解説となっている。
庄野さんは、やはり書評がおもしろい。
「読書の生活」という見出しの下に集められたエッセイの中に、こんな箇所がある。本というものはなかなか二度読むものではない。だから、どんな本でも、読む時は、これがおなごりというつもりで読むべきであると。「これがおなごり」何といい言葉だろう。(庄野潤三「福原麟太郎著作集『人生・読書』」)
庄野さんは、英文学者・福原麟太郎のことを、心から尊敬していたのだと思う(人間としても、エッセイストとしても)。
「これがおなごり」という言葉は、1971年(昭和46年)6月に研究社から刊行された『福原麟太郎著作集7(随筆Ⅲ 人生・読書)』に収録されている「夏に読みたい本」というエッセイに登場する。
本というものはなかなか二度読むものではないのである。一ぺん読んだら、それで一生のおわかれだと覚悟した方がいい。だから、どんな本でも、読む時は、その時に、それは電車の中であろうが、寝床のまくら元であろうが、あるいは、人を待つ間の客間の十分間であろうが、注意を集中し、これがおなごりというつもりで読むべきである。(福原麟太郎「夏に読みたい本」)
井伏鱒二と福原麟太郎という二人の年上の知人が、庄野文学に与えた影響は、言葉では言い尽せないほど大きい。
それは、もはや、庄野文学の土壌の中に含まれているものなのではないだろうか。
福原さんと庄野さんとのつながりを深めたものに、チャールズ・ラムの『エリア随筆』がある。
ラムの文章はなかなか厄介なのだが、「夢の子供たち」は素直で、そんなに難しくなかった。それは一度読むと忘れられない、しみじみとしたエッセイであった。このあと、私は苦労しながら一編ずつ字引をひいて読んで行った。(庄野潤三「わが青春の一冊」)
それは、岩波文庫の戸川秋骨の訳も、新潮文庫の平田禿木の訳も、まだ、この世に出ていない頃であった。
ラムの『エリア随筆』は、庄野文学に永遠の影響を与える文学作品となった。
同じく、作家としての庄野さんに大きな影響を与えた外国文学に、ロシアのチェーホフがある。
チェーホフの短編に「精進祭前夜」というのがある。極く短いもので、読むのにそんなに手間はかからない。四百字詰の原稿用紙にして二十枚あるだろうか。私の大ざっぱな見当では、十五枚前後のように見える。(略)小説に限らず、短く書かれたものというのは、こういう時に都合がいい。少しも億劫にならずに、本棚からその本を取り出せる。(庄野潤三「燈下雑記──チェーホフ」)
チェーホフの「精進祭前夜」は、後に『エイヴォン記』でも詳しく取り上げられることになるが、庄野さんは、この短篇作品を、「六冊揃いの中村白葉訳『アントン・パーヴロヴィッチ・チェーホフ著作集』によって知った」「海軍から復員して、旧制中学の歴史の先生になってから、二度目に迎えた夏休みに、他の多くの短編とともに読んだ」という。
これは、昭和十八年の春に全十九巻の予定で三学書房から刊行された。第一回配本が「かもめ」「伯父ワーニャ」「三人姉妹」「桜の園」を収めた第十六巻であったが、戦況が著しく悪くなったため、昭和十九年の九月に出た「三年」その他の中篇集を最後として、出版が中止された。(庄野潤三「燈下雑記──チェーホフ」)
三学書房のチェーホフは、戦争の思い出とともに、若き日の庄野さんの中に、大きな影響を残したようで、このエピソードは、『エイヴォン記』をはじめ、いろいろなところで触れられている。
ロシア文学では、十和田操の訳したトルストイの話がある。
学年別童話集の五年生として『トルストイ童話』を十和田操氏が書いています。私はこの本を読んで大好きになりました。(庄野潤三「印象深い本」)
「イワンの馬鹿」「ぬすびと大僧正」「ひとにはどれだけの地面がいるか」「ふたりのおじいさん」と読んだ中で、庄野さんは「ふたりのおじいさん」が特にお気に入りだったらしく、「私は自分が読み終ると、小学六年の長女に、「すぐに読んでごらん」といって渡しました」と綴っている。
十和田操は、庄野さんにとって、個人的にも親交のある作家だった。
古木鉄太郎の『紅いノート』は、浅見淵、中谷孝雄、外村繫、上林暁らの尽力で出版された作品集である。
先日、この作品集の出版を記念して、遺族をかこむ会が行われましたが、前記の友人の他に故人と生前につながりのあった佐藤春夫、井伏鱒二、坪田譲治、伊藤整、尾崎一雄、青柳瑞穂、十和田操氏などが出席して、それぞれ古木氏の思い出を語りました。それがみないい話ばかりで、古木氏の短編小説をひとつ読んだだけの私は「本当に立派な人だったのだなあ」とびっくりしました。(庄野潤三「印象深い本」)
「ここに収められた九つの短編は、多く貧しい生活を背景としていますが、凛乎としたものがひと筋、貫いています」「それは優しく、清らかで、気品のあるものです」などという文章を読むと、古木鉄太郎という作家の作品に触れられずにはいられないだろう。
文芸春秋『現代日本文学館』の解説として書かれた、佐藤春夫に関する文章もいい。
「お絹とその兄弟」は、「田園の憂鬱」の副産物のようにして、同じ年(大正七年)に続いて発表されたものである。私はこの短篇が好きで、もし佐藤春夫の中からひとつだけ選べといわれたら、これにしようと思うくらいであるし、また日本の短篇小説でいちばん好きなものを集めて一冊の本を編むとすれば、その中へ必ず「お絹と兄弟」を入れたいと思っている。(庄野潤三「佐藤春夫」)
「日本の短篇小説でいちばん好きなものを集めて一冊の本を編むとすれば」とあるのは実現しなかったが、庄野文学の読者としては、ぜひ実現してほしい企画だった。
自分は、庄野さんの小説や随筆に登場する文学作品を、ほとんど読んでいるはずだが、入手が容易ではないものも多く、一冊にまとまったものがあれば、とても便利だと思う。
遺された庄野さんの作品を踏まえて、どこかで出版してくれないだろうか。
最後に特筆すべきものとして、三島由紀夫について語った「昔の友」がある。
はじめにSさんが私を引き合わせようとすると、三島由紀夫は、「いや、僕は庄野さんとはずっと以前からの知合いなんです」「おや、おや」「僕がまだ学生の頃です。庄野さんはその時は、海軍少尉でね。隊長だったんだ」(庄野潤三「昔の友」)
それは、『芸術新潮』の対談で、三島由紀夫のほかに山岡久乃(新劇)がいた。
編集部のSさんに、庄野さんとの付き合いを紹介したあと、三島由紀夫は庄野さんに向かって「しかし、太りましたね」と言った。
三島由紀夫とは、師・伊東静雄を通しての知人で、その頃、三島由紀夫は、まだ「平岡君」と呼ばれていたらしい。
林富士馬と一緒に作った同人誌『光耀』に、三島由紀夫が作品を寄せたのも、この頃のことだった。
書名:イソップとひよどり
著者:庄野潤三
発行:1976/06/20
出版社:冬樹社