6月の札幌は、アカシヤの季節である。
札幌まつりの頃、札幌の街では、アカシヤの白い花が満開になる。
アカシヤの花の季節は、札幌の街が一年で最も美しい季節なのだ。
札幌駅前通りのアカシヤ並木
札幌市の花は「すずらん」で、札幌市の木は「ライラック」。
それでも、札幌を象徴する木は(花は)、アカシヤ(の白い花)と思いたい。
札幌出身の女流作家(森田たま)も「アカシヤの町札幌」という題名の随筆を書いている。
仕合せなことに、「札幌」は自分が愛しているばかりでなく、他国の人からも愛されることが多いようである。(略)外国人の手で定規がひかれ、当時としては珍しいアカシヤやポプラの並樹みちがつくられたせいであろう。(森田たま「アカシヤの町札幌」)
室蘭生まれで、北大水産専門部に学んだ八木義徳も、札幌市民だった。
札幌はアカシヤの花盛りであった。街全体が芳烈な匂いに噎せていた。(八木義徳「旅の音色」)
札幌市民にとって、アカシヤの花は特別な花であり、アカシヤの白い花が咲く季節は、特別な季節だったのかもしれない。
札幌のアカシヤに注目した旅の詩人に、石川啄木がいる。
改札口から広場に出ると、私はちょっと立停って見たいように思った。道幅のばかに広い停車場通りの、両側のアカシヤの街樾は、蕭条たる秋の雨に遠く遠く煙っている。(略)「この通りは僕等がアカシヤ街と呼ぶのだ。あそこに大きい煉瓦造りが見える。あれは五号館というのだ。……どうだ、気に入らないかね?」「いい! いつまでも住んでいたい――」(石川啄木「札幌」)
啄木の札幌滞在は、1907年(明治40年)の秋だったから、もちろん、アカシヤの白い花は咲いていない。
それでも、札幌停車場通り(現在の札幌駅前通り)のアカシヤ並木は、啄木に強い印象を与えたのだろう。
代表作『一握の砂』(1910)にも、札幌のアカシヤ並木を詠んだ作品が収録されている。
アカシアの街樾(なみき)にポプラに
秋の風
吹くがかなしと日記に残れり
(石川啄木「一握の砂」)
札幌駅前通り(かつての停車場通り)に、初めてアカシヤ並木が整備されたのは、1885年(明治18年)5月のことで、1888年(明治21年)、1896年(明治29年)にも植栽が続けられて、アカシヤ並木としての形が完成した。
その後も、1991年(明治44年)の大正天皇(皇太子時代)の行啓や、1917年(大正5年)の街路樹の大量植栽、1928年(昭和5年)の舗装整備などに伴って、アカシヤ並木は適宜整備されてきた。
札幌名物となった停車場通りのアカシヤ並木のことは、堺利彦も『当なし行脚』(1928)の中で触れている。
三日午前、私は小樽にも寄らず、直ちに札幌に来て居た。札幌駅前の大通りは素晴らしいと思った。殊にアカシヤの街路樹を美しいと思った。(堺利彦「当なし行脚」)
堺利彦が北海道旅行をしたのは8月だったから、やはり、アカシヤの白い花は咲いていなかっただろう。
九州の作家(火野葦平)も、『活火山』(1954)で札幌を描いた。
札幌の街は、アカシヤのみどりがうつくしく、並木道を、鈴を鳴らして行く古風な辻馬車も珍しかった。(火野葦平「活火山」)
三浦綾子『ひつじが丘』(1966)では、主人公(奈緒美)が、恋人(良一)と、アカシヤ並木を歩いている。
二人は駅前通りを出た。「あら、アカシヤの花が咲いているわ」「ほんとうだ、もう咲いているんだね。今年は早いんじゃないかな」二人は人の波にもまれながら、白いアカシヤの花を見上げていた。(三浦綾子「ひつじが丘」)
舞台は、戦後間もない昭和20年代の札幌だった。
本来であれば、札幌駅前通りのアカシヤ並木こそ、札幌を代表するアカシヤの名所と言いたいところだが、駅前通りのアカシヤ並木は、1958年(昭和33年)の秋、道路拡張工事の際に伐採されてしまった。
このとき、1885年(明治18年)に植えたアカシヤで残っていたものは、わずか2~3本にすぎなかったという。
現在の札幌市民は、札幌名物として知られた駅前通りのアカシヤ並木を知らないのだ。
大通公園のアカシヤ
札幌生まれの女流作家(森田たま)のアカシヤは、大通公園にあった。
それはアカシヤの花の甘く匂う六月の夕ぐれであった。悠紀子が大通のひろい道を、西へ向いて歩いていると、うしろから近づいてきて声をかけた人があった。(森田たま「石狩少女」)
創成川イーストに自宅のあった主人公(悠紀子)は、富貴堂(後のパルコブックセンター)という書店へ向かって歩いているところだった。
札幌市民にとって、札幌の6月を表現するのにアカシヤの花は、欠くことのできない存在だったのだ。
現在も、大通公園にはアカシヤの樹があるが、背の高いアカシヤは、頭上高いところに白い花を咲かせている。
北一条通りのアカシヤ並木
停車場通りと並んで、北一条通りのアカシヤ並木も、札幌名物のひとつだった。
三浦綾子『ひつじが丘』(1966)には、北一条通りのアカシヤ並木も登場している。
二人はだまってアカシヤの並木通りを歩いて行った。アメリカ兵が街にあふれていた。アメリカ兵のまわりだけが、陽気で活気に満ちているように見えた。(三浦綾子「ひつじが丘」)
北原白秋が作詞した童謡「この道」は、札幌の北一条通りがモデルだと言われている。
詩人・北原白秋(1885年~1942年)は、1925(大正14)年8月に札幌を訪れ、その時の印象を童謡「この道」に描きました。(札幌市「広報さっぽろ」2022年12月)
白秋の「この道」には「時計台」も登場する。
この道は いつかきた道
ああ、そうだよ
アカシヤの花が さいてる
この丘は いつか見た丘
ああ、そうだよ
ほら 白いとけい台だよ
(北原白秋「この道」)
さっぽろ時計台に「丘」はない。
「この道」は、作者(北原白秋)の心に残った、札幌の印象を再現したものだったのかもしれない。
六月の札幌の町を歩いているとアカシヤの花の匂いが降ってくる。駅の前から北一條通りへ、そこから西の方へその並木は道行く人々を緑色に包んでくれる。(更科源蔵「北海道絵本」)
更科源蔵『北海道絵本』によると、北一条通りのアカシヤ並木は、津田梅子の父(津田仙)が、明治10年代にアメリカから苗木を取り寄せて、札幌市に寄付したものだという。
後に、津田塾を創設する津田梅子は、開拓使の留学生としてアメリカに学んでいる(父・仙は津田仙は開拓使の嘱託だった)。
古い絵葉書セットなどには、北一条通りのアカシヤ並木の写真が含まれていることが多い。
アカシヤ並木は、札幌が誇る北の街の景観だったのだ。
北一条通りのアカシヤ並木も、今はもうない。
地域住民にとって、アカシヤは決して美しいだけの樹ではなかったらしい。
さっぽろ時計台のアカシヤ
アカシヤを最も愛した男が、昭和の大スター(石原裕次郎)である。
実際、石原裕次郎にはアカシヤを歌った作品が多い。
石原裕次郎の没後直後、1987年(昭和62年)8月に発売されたシングル「北の旅人」のカップリング「想い出はアカシア」も札幌の歌だった。
きっといまごろ 札幌は
夢も色づく 日昏れ刻
想い出はアカシア
瞼の白い花
(石原裕次郎「想い出はアカシア」)
「想い出はアカシア」は、「北の旅人」のほか、「わが人生に悔いなし」「俺の人生」と一緒に、ハワイでレコーディングされた。
東京のテイチクでは、裕次郎の帰国、三十周年記念曲「わが人生に悔いなし」のレコーディングを、今や遅しと待ち構えていた。しかし「ハワイの裕さんは、快適な療養生活を送っている」との知らせが届いていた。療養が続けば、レコーディングの予定は立たないことになる。「ならば、ハワイで録音しよう」(佐藤利明「石原裕次郎 昭和太陽伝」)
石原裕次郎が札幌を歌った作品で、最も有名なものは「恋の町札幌」(1972)である。
時計台の下で逢って
私の恋は はじまりました
だまってあなたに ついてくだけで
私はとても 幸せだった
夢のような 恋のはじめ
忘れはしない 恋の町札幌
はじめて恋を 知った私
やさしい空を 見上げて泣いたの
女になる日 だれかの愛が
見知らぬ夜の 扉を開く
私だけの 心の町
アカシヤも散った 恋の町札幌
(石原裕次郎「恋の町札幌」)
さっぽろ時計台とアカシヤのマッチングが、ぴたりとハマった、札幌を代表する名曲である。
映画での完全復活に続いて、テイチクでは裕次郎の新曲プロジェクトが進行していた。浜口庫之助が裕次郎のために作詞・作曲した「恋の町札幌」は、発売に先立ち四月に放送開始されたNHK「歌のグランドショー」で五月二日に初披露。(佐藤利明「石原裕次郎 昭和太陽伝」)
当時、札幌は「札幌オリンピック」(1972)で異常に盛り上がった時代で、ご当地ソングブームとも相まって、この曲は大ヒットを記録した。
裕次郎は小樽に生まれた。父親は、船会社勤め。小学校二年まで過ごす。わんぱく時代を送った北海道は、郷愁の地だ。「この歌は、最も好きな歌の一つです」彼は言い切る。(読売新聞北海道支社「北海道のうた(2)」)
石原裕次郎だけではない。
札幌市民にとっても、「恋の町札幌」は大切な故郷の歌となった。
さっぽろ羊ヶ丘展望台にある「石原裕次郎歌碑」には、「恋の町札幌」の歌詞と譜面が刻まれている(なぜ、羊ヶ丘にあるのかは不明)。
古い観光ガイド『旅と温泉 北海道』(1956)によると、かつて、さっぽろ時計台は、アカシヤの樹に囲まれていたらしい。
旧札幌農学校の演武場で、市内では珍しいロシヤ式建物である。(略)アカシヤに包まれた姿は、エキゾチックな感じを抱かせる。(日本旅行協会「旅と温泉 北海道」)
1950年(昭和25年)に来道した宇野浩二も、『北海道遊記』で時計台で見たアカシヤの印象を綴っている。
階下は図書館になっているが、上に塔があって、その塔が時計になっているのである。これは明治十四年に装置されたもので、自鳴鐘がついている。私が、その緑色のアカシヤにつつまれた、ロシア風の建物の前に、しばらく見とれて立っていた時、ちょうど、その時計の鐘がカラン、カランというように聞こえる音をたてて、鳴りだした。(宇野浩二「北海道遊記」)
戦後、さっぽろ時計台は、市立図書館として利用されていた時代がある。
その頃、時計台の鐘は、アカシヤの白い花に包まれていたのだ。
さっぽろ時計台の前には、現在もアカシヤの白い花が咲いている(包まれているというほどではないが)。
さっぽろ時計台のテーマソングとも言える「時計台の鐘」にも、アカシヤは登場している。
時計台の鐘が鳴る
アカシヤの樹に日は落ちて
静かに街も暮れて行く
(「時計台の鐘」)
6月の札幌を旅するときは、忘れずにさっぽろ時計台を訪れたい。
思うに、札幌の魅力は、グルメやイベントではなく、札幌でしか体感することのできない「季節感」なのではないだろうか。
明治以来、札幌の人々は、アカシヤの白い花に初夏を感じて生きてきた。
6月の札幌を訪ねる意味は、まさしく、そこにあると思うのだけれど。