庄野潤三「秋の日」読了。
「秋の日」は、学生時代の満州旅行を素材にした短篇小説で、「文芸」1969年(昭和44年)1月号に掲載された。
この年、庄野さんは48歳だった。
なお、作品集では『小えびの群れ』に収録されている。
鏡泊湖から東京城へ、そして徴兵猶予撤廃のニュース
「秋の日」は、「曠野」(『丘の明り』)の続編として位置付けることができる短篇小説である。
「曠野」では、物語の語り手である「私」(庄野さん自身だろう)が、鏡泊湖で写生する場面で終わっているが、本作「秋の日」は、庄野さんが写生を終えた場面から物語が始まっている。
登場人物も共通しており、「曠野」と「秋の日」は、ひとつの物語の「前編」「後編」と言っても差し支えない作品なのだ。
鏡泊湖で、庄野さんは、東京城の牛島老人に紹介された「学園の向井先生」を訪ねる。
鏡泊学園は、満州開拓移民の指導を行っている団体で、昭和九年に創立された。
学園へ到着した日の昼、満人の塾生が湖で大きな鯉を釣りあげてきて、庄野さんは、岡村夫妻の家で、刺身とおつゆの鯉料理を御馳走になる。
さらに、夕飯も鯉の入った味噌汁だったが、夕食後に庄野さんは体調をひどく崩してしまう。
鯉の刺身がいけなかったのか。ひょっとして自分はコレラにかかったのだろうか。(略)ここで死ぬのはいやだ。ここで死んで行くのはいやだ。くそ、死ぬものかと、私は神様に祈った。眠れないままに夜が明けた。(庄野潤三「秋の日」)
翌朝も嘔吐した庄野さんは、鏡泊湖を立って東京城へ戻りたいと考えるが、対岸へ向かう船が、なかなかつかまらない。
夕方には、ようやく普通の食事を摂ることができるまでに回復して、その夜は、学園の人たちから鬼(クイ)の伝説などを聞いて過ごした。
三日目には体調もすっかり良くなっていて、庄野さんは旅行の支度を整えるが、期待していた船は来なかった。
さらに四日目も約束していた船が寄らず、庄野さんは長い時間をかけて「俊寛」という詩を作った。
「がっかりしたでしょう」「ええ、がっかりしました。俊寛の気持がはじめて分りましたよ。僕は船に置いてきぼりを食ってもみんないるからいいけど、俊寛はひとりぼっちでしょう。僕は二、三日うちには船がまた来るけど、俊寛はもう一生来ないかも知れなかったですものね。辛かったろうなあと思いました」(庄野潤三「秋の日」)
五日目の朝、庄野さんは義勇隊の船に乗って対岸まで移動し、そこからトラックで東京城へ戻った。
帰りは、東京城に用事のある向井先生が一緒だった。
富士屋旅館に戻ると、京城帝大の鳥山教授に紹介されていた、上京学校の小倉先生が来ていることを知り、挨拶を交わしたところ、法文系の学生の徴兵猶予が撤廃になったことを知らされる。
それは、庄野さんを含めた法文系の学生が、年内にはそれぞれ陸海軍に入隊することを意味していた。
日本もいよいよ最後のところまで来たのだという気持である。ともかく、早く帰らなくてはいけない。鏡泊湖の鯉を食べておなかをこわした時には、行くのをやめようと思い、調子がよくなるともう一度行く気持になりかけていた熱河も、やめることに決めた。私の胸は、沸いて来る思いにいっぱいになり、次から次へと話しかける小倉先生の言葉を半ば上の空に聞きながら歩いていた。(庄野潤三「秋の日」)
翌日の夕方、庄野さんは、向井先生に見送られて、東京城の駅から汽車に乗った。
寧安を過ぎてしばらく経った頃、満員の牡丹江行き列車からは、野に立つ虹が見えたという。
学生生活の終わりと軍隊への入隊
満州旅行編の短編小説の後半に当たる「秋の日」では、旅の目的地である鏡泊湖を訪れた後の出来事が書かれているが、それは、あまり楽しい旅行ではなかった。
鯉料理に体調を崩して「ここで死にたくない」と考えたり、対岸へ向かう船がなかなか来ないので俊寛のような気持ちになったりと、鏡泊湖での庄野さんは、最初から最後までネガティブだった。
そして、東京城へ戻った庄野さんを待ちうけていたのは、法文系の学生の徴兵猶予撤廃を決めたという閣議決定の知らせである。
庄野さんたちの学生生活は間もなく終わり、年内には軍隊での生活が始まるのだ。
「秋の日」という短篇小説全体を流れている不吉な通奏低音は、この「徴兵猶予撤廃」という悪い知らせへと繋がるものであっただろう。
もちろん、軍隊に入りたくないという気持ちなど、どこにも書かれていない。
書かれているのは、満州で過ごした昭和十八年の秋の日の出来事ばかりである。
しかし、京城へ向かう汽車の中で見た日没は、日本の未来を暗示してはいなかっただろうか。
作品名:秋の日
書名:小えびの群れ
著者:庄野潤三
発行:1970/10/20
出版社:新潮社