梅崎春生「悪酒の時代・猫のことなど」読了。
本書『悪酒の時代・猫のことなど』は、1974年(昭和49年)に五月書房から刊行された、梅崎春生随筆集である。
戦中から戦後にかけての酒飲みの事情を回想
梅崎春生というと、酒の話を思い出す。
本書の題名にもなっている「悪酒の時代」なんていうのが、その好例だろう。
外国の山登りの言葉に、何故山に登るかと問われて、そこに山があるからだと言うのがあるが、現在の私の心境もややそれに近い。何故酒を飲むか。そこに酒があるからである。ところが当時、つまり戦争中(昭和十七年以降)の私の心境は、今の心境と正反対であった。すなわち、何故酒を飲むか。そこに酒がなかったからである。(梅崎春生「悪酒の時代」)
この「悪酒の時代」は、戦中から戦後にかけての酒飲みの事情を回想したものだが、「飯塚酒場」という居酒屋に行列が並んだ話などが、懐かしく紹介されている。
もちろん、それは悲惨な時代であったのだが、昭和31年に発表されたこの随筆の中で、困窮の酒飲みたちの姿が、実に生き生きと描かれていて楽しい。
そうした酒飲み事情の中には、もちろん文壇のエピソードも含まれている。
何の会合の流れであったか記憶にないが、そこいらでいっぱいやろうというわけで、椎名(麟三)、野間(宏)、埴谷雄高その他二、三名で新宿のとある飲み屋に入ったところ、先客が五、六人いて、河盛好藏、井伏鱒二、その他中央線沿線在住の作家評論家が、ずらりと並んでカストリか何かを飲んでいた。私たちはその傍で、一杯ずつぐらい飲み、すぐに飛び出して他の店に行った。他の店に行って、異口同音に発したのは、「あいつら、肥ってやがるなあ」という意味の嘆声であった。(梅崎春生「悪酒の時代」)
戦後派の目には、戦前派の文士たちは、いかにも豊かに見えたものだろうか。
「とにかくあの頃は、肥っているということはうしろめたいことであり、あるいは悪徳ですらあった」という言葉の中に、戦時中の日本の姿が見えてくるような気がする。
長編小説の登場人物は友だちのようなもの
文学に対する雑文も興味深い。
「署名本『砂時計』のこと」では、上製本を同時に刊行した著作『砂時計』に、著者の直筆書名を入れる話である。
たかが千部の本に四文字の名前を記入するくらい、すぐに終わるだろうと考えていたのが、実際に取りかかってみると、なかなか大変な作業だった。
「毎晩二時間ずつ、五日か六日の日時を要して、最後の方ではもう少々自分の名前に食傷した」とある。
この随筆の最後に、長編小説『砂時計』に対する著者の愛情が吐露されている文章があった。
連載中は、いままで書いた部分に対する自己嫌悪、いまからどう書き続けていくかという不安定な危惧で、毎月毎月が重苦しかったけれども、書き終るとほっとして、またたくさんの登場人物と別れるのがつらいような気もした。いまでも彼らは私にとってなつかしい友達のような感じがする。(梅崎春生「署名本『砂時計』のこと」)
「短編ではこういうことはありえない」と、続けて著者は綴っているように、長く連載した作品には、自分が作り出した登場人物さえ、友だちのようになってしまうのかもしれない。
小説家の書く随筆というのは、私生活や文壇の様子のみならず、小説の裏側まで紹介してくれるところが楽しい。
戦前から戦後にかけて、文士が最も人間らしく生きていた時代の物語である。
書名:悪酒の時代・猫のことなど(梅崎春生随筆集)
著者:梅崎春生
発行:2015/11/10
出版社:講談社文芸文庫