山本周五郎「青べか物語」読了。
本作「青べか物語」は、昭和36年に文藝春秋社から刊行された長編小説である。
ユーモアとペーソスが複雑に絡み合ったゴシップ
浦粕町は根戸川のもっとも下流にある漁師町だ。
「私」は、地元の人たちから「蒸気河岸の先生」と呼ばれながら、この町で三年あまり独りで暮らした。
本作「青べか物語」は、「私」が浦粕町で過ごした日々の断片的なスケッチを回想したものである。
ちなみに「青べか」とは、とある「べか舟」の愛称のこと。
「べか舟」というのは、一人乗りの平底舟で、多くは貝や海苔採りに使われていた。
「青べか」は、胴がふくれていて、形が悪く、外側が青いペンキで塗装されていたので「青べか」と呼ばれるようになったらしい。
狡猾な老人に騙されるようにして「青べか」を購入したところから、「私」の浦粕物語は始まる。
浦粕で「私」は、多くの個性的な人々と交流を持ち、この小さな漁師町のゴシップをノートに書き留めておくようになった。
例えば「蜜柑の木」は、<助なあこ>と呼ばれる男性が、人妻<お兼>に恋をした話だが、お兼が夫以外に多くの男性と寝ることを、助なあこは我慢できない。
「そうじゃねえ、そうじぇねえ」彼はふるえながら云った。「男と女の仲は蜜柑の木を育てるようなもんだ。ふたりでいっしん同躰になって育てるから蜜柑がなるんだ。お兼さんのようにあっちの男と寝たりこっちの男と寝たりすれば、せっかくの木になすびが生ったりかぼちゃが生ったり、さつまいもが生ったりするようになっちまう、おらそんなこたあいやだ」(山本周五郎「青べか物語」)
こうして二人は別れるが、二人の陰で登場するお兼の夫<しっつあん>が、いい味を出している。
町で変わり者と噂の<幸山船長>を描いた「芦の中の一夜」もいい。
息子も娘もいるのに、幸山船長は、古い船の中で一人暮らしをしていた。
ある夜、「わたし」は幸山船長から、その風変わりな身の上話を聞かされてしまう。
「——そうさな、あのこは死んでおらのとけへ戻って来た、っていうふうな気持ちだな、長えこと人に貸しといたものが返って来た、そんな気持だっけだ、おらそれから、人形箱の埃を払っただよ」彼女は嫁にゆくが、心はその人形に込めてあると云った。彼はいまこそそれが現実になった、というように感じられたのだ。(山本周五郎「青べか物語」)
こうして「青べか物語」には、浦粕町で生きる様々な庶民が登場する。
噂好きな町の人たちのゴシップの中には、ユーモアとペーソスが複雑に絡み合っていた。
苦しみつつ、なおはたらけ、安住を求めるな、この世は巡礼である
山本周五郎が、千葉県浦安で暮らしたのは、1928年(昭和3年)夏から1929年(昭和4年)秋にかけてのことである。
「青べか物語」の舞台である「浦粕」は「浦安」であり、「根戸川」は「利根川」であろう。
当然、フィクションとして様々な工夫が凝らされていると思うが、小説としての素材は、多くが著者自身の体験に求められていると言っていい。
作中の<浦粕町>には独特の文化が息づいているが、「青べか物語」は、この独特の文化を背景として生きる市井の人々を、実に生き生きと描き出している。
東京の暮らしでは感じることのできなかった人間の生命力を、著者は、この浦粕町で感じたはずだ。
大きな作品テーマは、物語の最終場面(「留めさんと女」)で顕著に姿を現す。
「巡礼だ、巡礼だ」暗い土堤を家のほうへ歩きながら、私は昂奮をしずめるために、声にだして呟いた、「苦しみつつはたらけ」それはそのころ私の絶望や失意を救ってくれた唯一の本、ストリンドベリイの「青巻」に書かれている章句の一つであった、「苦しみつつ、なおはたらけ、安住を求めるな、この世は巡礼である」(山本周五郎「青べか物語」)
著者にとって、浦粕町で生きる人々との出会いと別れが、そのまま人生の巡礼であったのかもしれない。
書名:青べか物語
著者:山本周五郎
発行:1964/8/10(2002/12/20改版)
出版社:新潮文庫