文学鑑賞

ジュール・ヴェルヌ「十五少年漂流記」無人島に漂着した少年たちの自立と共生

ジュール・ヴェルヌ「十五少年漂流記」無人島に漂着した少年たちの自立と共生

ジュール・ヴェルヌ「十五少年漂流記」読了。

本作「十五少年漂流記」は、1888年(明治21年)にフランスで発表された長篇小説である。

原題は「Deux Ans de Vacances」(「二年間の休暇」という意味)。

この年、著者は60歳だった。

ロビンソン・クルーソーへのオマージュ

本作『十五少年漂流記』は、イギリスのデフォーが書いた冒険小説『ロビンソン・クルーソー』(1719年)へのオマージュ的な作品である。

『ロビンソン・クルーソー』を先に読んでから、『十五少年漂流記』を読むという順番が理想的だろう。

なにしろ、無人島で暮らす少年たちが、殺人者たちのもとから逃げてきた女性(ケート)を救出したとき、サービスは、こう叫んだものだ。

「今日は、金曜日だ。ロビンソン・クルーソーが土人の男を助けたのも金曜日、それで、クルーソーは男にフライデー(金曜日)と名前をつけた。僕たちも、ケートをフライデーと呼ぶことにしよう」(ジュール・ヴェルヌ「十五少年漂流記」波多野完治・訳)

冒険小説好きのサービスは、ロビンソン・クルーソーへの良き案内役としての働きを担っている。

もともと、この船旅は、夏休みの旅行のために計画されていたものだから、スルギ号の図書室には、サービスの好きな「ロビンソン」ものも並べられていた。

『ロビンソン・クルーソー』と同じくらい、サービスが愛読していた小説として、スイスのヨハン・ダビット・ウィースが書いた『スイスのロビンソン』(1812年)がある。

「僕の大好きな『スイスのロビンソン』にも、主人公のジャックが、やはり駝鳥を乗り回すところがあるよ」(ジュール・ヴェルヌ「十五少年漂流記」波多野完治・訳)

『スイスのロビンソン』もまた、デフォー『ロビンソン・クルーソー』へのオマージュ作品だったから、本作『十五少年漂流記』は、『ロビンソン・クルーソー』『スイスのロビンソン』という系譜の中に位置する冒険小説と位置付けることができる。

ロビンソン好きのサービスは、リーダー格のゴードンから「ウイスが小説に書いたことを、そのまま真実だと思わないことだ」と、たしなめられてもいるが、本作の登場人物の少年たちは(特にサービスは)、『ロビンソン・クルーソー』や『スイスのロビンソン』といった冒険小説の名作を意識しながら、無人島での生活を成功させていくというのが、本書の基本的なコンセプトになっていると言えるようだ。

1860年2月15日、ニュージーランドの首府オークランド市の港から、一隻の船が消えた。

翌日に出航を控えていたスルギ号が、チェアマン学校の少年たちだけを乗せて、漂流してしまったのだ。

当時のニュージーランドは、イギリスの植民地だったから、チェアマン学校の少年たちも、ほとんどがイギリス人で、最年長のゴードン(14)がアメリカの孤児、本作の主人公と言えるブリアン兄弟がフランス人、これに、スルギ号のコックの見習いとして乗船していた黒人のモーコーを加えて、全15人の少年たちというメンバー構成。

この国籍は、物語の中でも重要な意味を持っていて、秀才ドノバンと人気者ブリアンの対立は、そのまま、イギリスとフランスとの対立として描かれている。

「僕のどこが悪いのか、言ってくれたまえ」ブリアンが言った。「何もない。ただ、君は、僕たちの上に立つ権利がないだけだ。この前の大統領はアメリカ人だ。君はフランス人だ。その次は黒人のモーコーの番だろうよ」(ジュール・ヴェルヌ「十五少年漂流記」波多野完治・訳)

少年たちは、大統領を選んで、小さな自治国家(共和国)の安定的な運営を目指すのだが、イギリス人が大統領として選ばれなかったことに、ドノバンは強い不満をあらわにする。

もちろん、最後には、こうした国籍の違いを乗り越えて、少年たちが一致団結するというところにこそ、この物語の大きなドラマがあるのだが。

十五少年の漂流記とは言いながら、実際に活躍するのは、無人島運営に大きな力を持つ年長者たち(ゴードン、ブリアン、ドノバン)で、三人の人間関係を軸として、物語は構成されていると言えるだろう。

そして、少年たちの胸をときめかせるような数々の冒険。

とつぜん、四人は止まった。恐ろしさに、足は一歩も前に進まない。おおきなぶなの、こぶだらけの根の間の土に、人間の骨が散らばっていたのだ──。(ジュール・ヴェルヌ「十五少年漂流記」波多野完治・訳)

かつて、無人島(少年たちは、学校の名前から「チェアマン島」と名付けた)で暮らしていたと思われるフランス人(フランソワ・ボードアン)の痕跡は、少年たちに、大きな衝撃を与える。

さらには、難破船で漂着した殺人者たちとの戦い。

とつぜん、大きな物音が空気を震わせた。モーコーが、ボートをめがけて大砲を放ったのであった。命中! いまや、落とし穴の林に姿を消した二人の悪人を残して、チェアマン島はもとの自由を取り戻した。ワルストンたち三人の死体は、ニュージーランド川を、水草のように浮かんで流れて行った。(ジュール・ヴェルヌ「十五少年漂流記」波多野完治・訳)

ロビンソン・クルーソーと同じように、少年たちもまた、悪人たちとの戦いに勝利したのだ。

夏休みに夢を与えるような冒険が満載で、この物語が、児童文学の定番として読み継がれてきたことも、納得という感じがする。

もっとも、訳者解説によると、『十五少年漂流記』は、イギリスやアメリカでは、さほどの評判とはならなかったらしい。

主人公ブリアンがフランスの少年だったということが、そんなところにも影響していたのだろうか。

勤勉・勇気・思慮・熱心という教訓

無人島に漂着した少年たちの「自立」と「共生」が、本作の大きなテーマだが、物語に大きな深みを与えているのが、ブリアン兄弟のエピソードである。

スルギ号は、ヤンチャな少年ジャックの、ふとしたイタズラで漂流することになってしまうのだが、誰にも言えない罪の意識を背負ったジャックは、寡黙な少年になってしまう。

弟の変化に気付いたブリアンは、ジャックの告白を聞いて激怒するが、二人の兄弟が、仲間たちの前で罪を告白する場面は、この物語で最大のクライマックスとなっている。

ジャックは、胸も張り裂けんばかりに泣き伏した。ケートが、優しく抱きかかえて慰めたが、ジャックは「許して、許して」と泣き叫ぶばかりだ。ブリアンはきっぱりと言った。「ジャック、お前は自分の罪を打ち明けた。いまお前は、自分の罪の償いをするんだ」(ジュール・ヴェルヌ「十五少年漂流記」波多野完治・訳)

殺人者たちの様子を把握するため、大凧に乗って上空から島を偵察するという危険な役割を、ジャックは進んで引き受けようと名乗り上げる。

「兄さん、僕が乗ります」という言葉で、弟の罪を許した兄は、続いて、弟の罪を自ら引き受ける。

「兄さんが」ジャックが叫んだ。「君が」ドノバンとサービスが叫んだ。「そうだ。僕だ。弟の罪を、兄の僕が償うのは当然だ。だいたい僕が思いついたのだから、他人にやらせるわけにはいかないよ」(ジュール・ヴェルヌ「十五少年漂流記」波多野完治・訳)

兄は弟を許し、仲間たちはフランス人兄弟を許す。

兄弟愛を包むような美しい友情が、そこにはある。

この寛大な許しの精神こそが、本作『十五少年漂流記』の伝えたかったところではないだろうか。

デフォーの『ロビンソン・クルーソー』は、神との対話(自己対話)で、キリスト教の重要性を訴えたが、『十五少年漂流記』では、子どもたちにも分かりやすい形で、罪と許しが描かれている。

島からの脱出が不可能であることを知ったとき、ブリアンは大きな絶望にとらわれる。

「それは、僕らの力を越えた仕事だ」それを聞くと、ブリアンは悲しそうに言った。「なぜ、僕たちは子供なんだろう。大人でなければならない時に」(ジュール・ヴェルヌ「十五少年漂流記」波多野完治・訳)

「なぜ、僕たちは子供なんだろう。大人でなければならない時に」は、この小説で最大の名言だが、少年であるからこそ、許せた罪もあったのではないだろうか。

イギリスとフランスとの対立があるとは言え、子どもたちは寛大で爽やかだ。

大人の世界のようなドロドロ感が、この物語にはない。

そこに、この物語の魅力がある(児童文学だから当たり前なのだが)。

物語の最後に、著者は『十五少年漂流記』の教訓を導き出している。

もちろん、今後、いかなる小中学生も、このような夏休みを送ることはあり得ない。だが、なんであれ困難に直面した時に、勤勉、勇気、思慮、熱心の四つがあれば、少年たちでも、必ずそれに打ち勝つことができるということだ。(ジュール・ヴェルヌ「十五少年漂流記」波多野完治・訳)

勤勉、勇気、思慮、熱心。

その四つは、『十五少年漂流記』の教訓であるとともに、多くの大人たちにとって戒めの言葉でもある。

勤勉、勇気、思慮、熱心の四つを備えて生きることは、決して簡単なことではないからだ。

そもそも、少年たちは、自分たちの生活を、自ら厳しく律した。

・一度行おうときめたことは、必ずやりぬくこと

・機会(チャンス)を失ってはならない

・疲れることを恐れるな。疲れることなしには、値うちのある仕事はなしとげられない

少年たちは、日課を定めて、午前午後の二時間を勉強の時間に充てる。

自主・自立とは、自らを律することのできる人間だからこそ成立する精神だったのだろう。

あるいは、ヴェルヌは、これから大人になろうとしている少年たちに、ちゃんとした大人になってほしいという祈りを込めて、この物語を書いたのかもしれない。

冒険小説と言えば、「勇気」という言葉が最初に思い浮かぶが、ヴェルヌは「勤勉」という言葉を最初に置いた。

「思慮」「熱心」という言葉が、「勇気」に続いている。

どうやら、我々も、時には『十五少年漂流記』の教訓を、思い出してみる必要がありそうだ。

書名:十五少年漂流記
著者:ジュール・ヴェルヌ
訳者:波多野完治
発行:1990/05/25 改版
出版社:新潮文庫

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。