浜田省吾「君がいるところが My sweet home」は、1996年(平成8年)11月に発売されたアルバム『青空の扉 〜THE DOOR FOR THE BLUE SKY〜』収録曲である。
浜田省吾に慰められた橘いずみ
浜田省吾14枚目のアルバム『青空の扉』が発売されたとき、僕は、まだ浜田省吾の熱心なリスナーだった。
先行シングル「さよならゲーム」は、土曜深夜の音楽番組『COUNT DOWN TV』のエンディングテーマだったし、『J.Boy』(1986年)から時間が経ったとは言え、浜田省吾は、まだまだ自分の生活の中でリアルに活躍していたのだ。
初めてアルバム『青空の扉』を聴いたときのことだ。
8曲目の「君がいるところが My sweet home」のところで、僕は、思わず笑ってしまった。
いかにも浜省らしいこの曲の「♪君の住む街がマイホームタウン~」という歌詞が、僕に、橘いずみを思い出させたからだ。
『月刊カドカワ』1996年(平成8年)4月号に、橘いずみのコラム(「あてのない道を走っていく勇気」)が掲載されている。
それは、東京での暮らしに馴染むことができずに戸惑う、若い女性ミュージシャンの文章だった。
わたしが浜田さんと初めて会ったのは、かれこれ4年ほど前になるだろうか。ファースト・アルバムを作り終えたばかりで、これから何が待っているのか全くわからない、ドキドキと不安でいっぱいの毎日を過ごしていた、そんな頃だ。(橘いずみ「あてのない道を走っていく勇気」)
橘いずみのファースト・アルバム『君なら大丈夫だよ』は、1992年(平成4年)6月発売。
この年、橘いずみは24歳で、浜田省吾は40歳だった(ちなみに、僕は、橘いずみより一つ年上になる)。
自宅の近所まで、浜省の4WDで送ってもらったとき、カーステレオからは、シュレルズの古い曲が流れてきたという。
浜田さんは何も言わずにカーステレオのスイッチを入れた。「Will You Still Love Me Tomorrow」だ。わたしの大好きな曲。浜田さんは曲に合わせて鼻歌を歌ってる。(橘いずみ「あてのない道を走っていく勇気」)
初めての浜田省吾に緊張していた橘いずみの(頑なな)心は、この曲を聴いているうちに少しずつ溶けていき、曲が終わる頃には、すっかりといつもの自分自身に戻ることができていた。
「東京が好きになれない、うまくやれそうにない」いつもの私に戻ると、ずっと溜めていた弱音が噴き出してくる。「街なんて、愛する人が住んでいれば、すぐ好きになるよ」浜田さんはそういって、軽く笑った。(橘いずみ「あてのない道を走っていく勇気」)
街なんて、愛する人が住んでいれば、すぐ好きになるよ──。
浜田省吾は、本気で、そう考えていたのだろうか。
浜田省吾の「君がいるところが My sweet home」
「君がいるところが My sweet home」を聴いたときに、僕が思い出したのは、この橘いずみのコラムだった(橘いずみは兵庫県神戸市出身)。
いろんな国を旅してきた
遠い空の下で
帰るべき場所が
どこかわからなかったよ
愛する人の住むところが
どこだろうが故郷さ
君の住む町が My home town
君のいるところが My sweet home
浜田省吾「君がいるところが My sweet home」
1993年(平成5年)の秋、大学生活を過ごした街(札幌)を離れて、僕は、遠い北の港町へ引っ越しをした。
再就職、結婚、そして、長女の誕生。
たった3年の間に、いろいろなことがあって、ようやく自分も、その街に慣れてきた頃だったように思う。
僕が初めて、アルバム『青空の扉』を聴いたのは。
1990年(平成2年)に大学を卒業して就職し、わずか2年も持たずに退職。
1年半のフリーター時代を含めて、1990年代は、自分なりに「激動の90年代」だったのだ(今から考えると、ちっぽけなことだったんだけれどね)。
今でも、僕は、浜田省吾の『青空の扉』を聴くと(特に「君がいるところが My sweet home」を聴くと)、橘いずみのことを思い出す。
見知らぬ街で「東京が好きになれない、うまくやれそうにない」と戸惑っていた頃の、ピュアだった橘いずみのことを。
その後、橘いずみは、アーティスト名を「榊いずみ」へと改め、現在は「和」(IZUMI)として活動しているが、自分の中の「いずみ」は、もちろん、あの頃の「橘いずみ」のままだ。
生きていけば、いろいろなことがあるよ。
そんなことを学んできた28年間だった。