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小沼丹「同級生交歓」玉井乾介や石川隆士、有木勉、山脇百合子などの学生時代

「同級生交歓2」あらすじと感想と考察

あすなろ社「同級生交歓(第2集)」読了。

本作「同級生交歓(第2集)」は、1968年(昭和43年)6月にあすなろ社から刊行されたエッセイ集である。

小沼丹「昔の仲間(早稲田大学英文科)」

「同級生交歓(第2集)」という本を読んでいたら、小沼丹が出てきた。

「昔の仲間(早稲田大学英文科)」という題名で、短文を寄せている。

スナップ写真のキャプションには、「左より庄野潤三・玉井乾介・小沼丹」とあった。

玉井は新潟に家があったが、目白にも家があった。その家で、僕らは早い将棋を何十番も指して、夜が明けると雑司ヶ谷墓地を散歩したりした。一度は伊東、玉井と三人で佐渡に弥次喜多旅行して、新潟の玉井の家に泊めて貰ったこともある。玉井は現在岩波書店の幹部になっていて、先年は庄野潤三と僕を熱海の惜櫟荘に招んでくれた。(小沼丹「昔の仲間」)

年譜を見ると、1964年(昭和39年)1月のところに「庄野潤三と熱海に玉井乾介を訪ねる」とあるから、写真はそのときのものかもしれない。

もっとも、玉井乾介は同学年ではあるが、国文科の学生だったので、厳密に言うと同級生ではないが。

同じ国文科には石川隆士もいた。

石川隆士は現在、名古屋の毎日新聞本社にいる。整理部長をしていたが、いまはもうやめたかもしれない。石川は学生のころ、いい詩を書いていた。井伏鱒二氏もその詩を讃めていた。石川も伊東と同様酒が強かった。だから、僕ら三人で一緒に飲むことも多かった。(小沼丹「昔の仲間」)

正しい意味での同級生としては有木勉がいる。

有木は戦後暫く「群像」の編集長をやってから、いろいろ要職らしきものを経て、いまは講談社の重役かなにかおさまっている。「──ゴルフばかりやっているのか?」と訊くと、冗談いうな、忙しくてかなわねえよ、という。多分酒を飲むのにも忙しいのだろう、と思う。(小沼丹「昔の仲間」)

絵本作家の山脇百合子も同級生だった。

当時は、女子大生というものが珍しい時代で、「早稲田の第一回の女子学生は、僕らのときに許可された」とある。

山脇百合子は、早大女子学生の草分けだったらしい。

山脇さんは、学生のころ、横山といった。なかなかの美人なので、女子学生のいない他学部の学生が羨しがって、常に文学部の前を遊弋していた。卒業のとき、彼女は一番で男子学生は面目を失墜した。彼女は現在実践女子大の先生をしていて、母校の早稲田でも教えている。(小沼丹「昔の仲間」)

小沼丹が、早稲田の英文科を卒業したのは、1942年(昭和17年)で、学生数もかなり少なかったらしい。

英文科には四十人くらいいたが、独文科や仏文科では五、六名しかいなかった。

しかも、卒業と同時に兵隊にとられる者も多く、小沼さんの親しかった友人でも、矢島静男、伊東保次郎、秋山明の三人が戦死している。

矢島は神楽坂の裏手に長屋を数軒持っていて、その長屋の一軒に母親と二人で住んでいた。

伊東は酒田の産で、温和しい男だったが、酒は強く、一緒に新宿や阿佐ヶ谷を飲み歩き、阿佐ヶ谷の伊東の下宿に泊まったりした。

秋山は色の白い大きな男で、図体に似合わず繊細な神経の行き届いた小説を書いていた。

「──なあに、俺は絶対死なないよ」といっていたが、戦場では彼の思い通りには行かなかった。真暗な長いトンネルがあって、トンネルを出て見たら親しい顔がいつの間にか見当らぬ。戦争の終ったころ、そんな気がして、何ともやり切れなかった。(小沼丹「昔の仲間」)

この「やりきれなさ」は、小沼さんの文学のバックボーンの一つとなっているものではないかと思う。

学生時代を回想する小説を、小沼さんはいくつか書いている。

多くの文学者の名前が登場

『同級生交歓(第2集)』には、結構いろいろな文学者の名前が登場して楽しい。

波多野完治(お茶の水女子大学教授)は、東京神田の金錦小学校で一緒だった永井龍男のことを書いている。

三年生のときに山梨から赴任してきた市川(のちに上島)金太郎先生の話などは、永井龍男の小説を読んだとおりである。

わたしのおぼろげな記憶では、十五歳のころから、永井はまめに筆をとっており、自分でとじた「個人雑誌」のようなものを出していた。それには小説のほか、文芸時評や雑報から、一口笑話のようなものまであって、一冊の全体がじつにたのしいよみものであった。(波多野完治「関東大震災前後の永井龍男」)

後年の『文芸春秋』名編集長の実力は、少年時代から現れ始めていたと、波多野完治は述懐している。

ちなみに、永井龍男が小林秀雄と知り合ったのは、波多野完治の自宅が初めてだった。

白洲次郎が書いているのは、吉川幸次郎と今日出海の思い出。

吉川幸次郎とは神戸一中の同窓で、「名うての不良が、光りかがやく秀才少年を遠くから眺めていたという感じ」とある。

今日出海については「私の親友の一人だと思っている」「じょうだん云うなと云いそうだから先に断っておくが、御迷惑は御互様である」と綴った。

本書が出版された1968年(昭和43年)、今日出海は、佐藤栄作内閣のもとで、文化庁の初代長官に就任している。

鍋井克之(画家)は宇野浩二、皆吉爽雨(俳人)は中野重治、河竹登志夫(演劇評論家)は、安部公房のことを書いた。

河内桃子(女優)の「平岩弓枝さんのことなど」や、金沢覚太郎(日本民間放送連盟参与)「石川達三君のことなど」、佐藤喜一郎(元産経新聞編集局長・評論家)「若き日の中山義秀」など、同級生に後の作家を持った人たちの思い出話は、いずれも楽しいものである。

諸井三郎(作曲家)は「美濃部亮吉と中島健蔵」として、東京高師附属中学時代を回想しているが、「大学時代には、私は小林秀雄や河上徹太郎などと遊んでいたため、中島とはあまり会うチャンスがなかった」とある。

秋月康夫(群馬大学長)の「岡潔君のことなど」には、梶井基次郎の名前が出てくる。

第三高等学校時代の回想で、「オデンやのおばさんが梶井の分まで秋月に入れていて身におぼえもない巨額のツケを申しつけられた覚えがある」とあるのが楽しい。

いつか文芸春秋の同級生交歓のグラビアで何十年振りかで神田の学士会館で再会した。逢った途端に、どちらからともなく、相抱き合って感激した。頭こそ、真白になったがその溢れるような情熱と温いまなざしの中に、昔の秀才の面影を見出した。(服部良一「安井郁君のこと」)

こういう文章を読むと、同じ学校で学んだ同級生というのは、やはりいいものだなと思う。

書名:同級生交歓(第二集)
著者:広津和郎ほか
発行:1968/06/30
出版社:あすなろ社

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。