『グレート・ギャツビー』の読み方は、時代によって変わるし、読者によっても変わる。
本書『ギャツビー100年 F・スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』を読む』は、2025年(令和8年)12月に三修社から刊行された研究書である。
なぜ名作文学は多様な読まれ方をするのか?
本書『ギャツビー100年』は、名作『グレート・ギャツビー』の読み方についての研究書である。
そこに示されているのは、時代を経た名作文学には様々な読み方がある、という事実だ。
例えば、近年『ギャツビー』は、「戦争PTSD」の視点から深掘りされることがある。
この戦争PTSDの視点から読むと、最高傑作『グレート・ギャツビー』も、これまでにない面白さが読みとれる。というのも『グレート・ギャツビー』は、第一次世界大戦からの帰還兵であるニックが、ニューヨークで出会った同じ帰還兵士のギャツビーが、いかに「グレート」と思えたかを語った作品だからだ。(野間正二「『グレート・ギャツビー』と戦争PTSD」)
J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』を戦争PTSDの視点に立って読んでいく方法は、現在では定着している。
『ギャツビー』も、『ライ麦畑』と同じように戦争PTSDの視点から読んでいくと、新しい発見がある。
ニックは戦争PTSDから回復したいとニューヨークに出てきた。だからギャツビーのそのロマンチックな能力に注目して強調して語っているのだ。その語りの背後には、自分が失ってしまったロマンチックな能力を、自分もふたたび身につけたいという願いがある。(野間正二「『グレート・ギャツビー』と戦争PTSD」)
この読み方によると『ギャツビー』は、戦争PTSDを克服しようとする語り手(ニック・キャラウェイ)の姿を描いた物語、ということになる。
あるいは、ジェンダーや人種問題の視点から『ギャツビー』を読むこともある。
フォーターによれば、ギャツビーの人物造型には女性性と「黒人化」が見られ、それらに対し、社会的に共有されていた白人男性主義を内面化したことによる嫌悪を間接的に向けると同時に、新たなジェンダーや人種の体制における自己のアイデンティティの在り方の可能性を見出すという、ニックないし作者フィッツジェラルドのアンビバレントな態度には、「メランコリー」的な構造が見られるという。(藤生真梨藻「『グレート・ギャツビー』における」ニックの「幼さ」と「メランコリー」)
『グレート・ギャツビー』の解釈において、黒人問題やホモ・セクシュアル観は、マニアックなカテゴリーを形成していると言っていい。
なぜ、文学作品は多様な読まれ方をするのだろうか?
深掘りとパラノイア(妄想)との関係性
逆説的な言い方をすると、名作文学は名作であるが故に多様に読まれていく、という宿命を背負っている。
世代を超えて読まれ続けなければ、時代によって深読みされることもない。
1925年(大正14年)4月10日に出版された『グレート・ギャツビー』は、2025年(令和7年)に出版100年を迎えた。
100年間読まれ続けたことによって『ギャツビー』は多くの読者や研究者を得ることになり、様々に深読みされてきたのである。
そもそも「魅力的な作品」でなければ深読みされないことはもちろんである。
人は好きになった人のことを「すべて知りたい」と思うようになる。
宇佐美りん『推し、燃ゆ』(2020)に描かれた「推し活」は、まさに「推し」のすべてを知るための活動だった。
魅力的な文学作品に出会ったとき、読者は、その作品のすべてを理解したいと思う。
作品に対する激しい情熱こそが、文学作品の深読みへとつながっていくと言っていい。
そういう意味で『グレート・ギャツビー』は、時代や国境を超えて多くの読者に愛されてきた作品である。
さらに「100年」という時間が、『ギャツビー』に特別の魅力を与えている。
100年前に発表された『ギャツビー』は、100年前の社会を知ることができる、貴重な「標本」である。
20世紀初頭のアメリカ社会が、その中には描かれている。
そもそも文学史的な研究とは、西暦年という恣意性と偶然性の背後にある何らかの歴史的必然性を読み取ろうとする、パラノイア的な試みである。(宮本陽一郎「1925 ギャツビーの年」)
読書における深読みとパラノイア(妄想)とは、常に紙一重である。
むしろ、パラノイアこそが、新しい文化を生み続けてきたのではないだろうか。
深読みは推し活に似ている
もちろん、すべての深読みが許されるというわけではないだろう。
私は、そのような「深読み」には疑問を感じてしまう。どんな小説であっても、そこに描かれるあらゆる事物は、それ単独で意味を持つのではなく、他の事物や場面との「関係」の中で機能しているからである。(竹内康浩「ギャツビーの乗り物再訪」)
自分に都合の良い部分だけを切り取った解釈は、「深読み」というよりは「誤読」に近い。
作者の執筆意図を理解したうえで、さらなる解釈を深掘りしていく。
それが、読書における「深読み」というものではなかっただろうか。
「深読み」を成功させるのは、ひとえに作品に対する情熱である。
「推しを推す」ように作品を読みこんでこそ、自分だけの新しい発見が生まれる。
そういう意味で、本書『ギャツビー100年』は、『グレート・ギャツビー』という小説に対する愛情に溢れた「深読み批評集」である。
「浅い」とか「深い」とかいうこと以上に大切なのは、「自分だけの発見」を得ることができるかどうかだ。
フィッツジェラルド作品に見られる最も重要なテーマのひとつは、貧しい男はどれほど頑張っても、彼の夢は夢のままで決して実現しないことにある。(浅川友幸「書き換えられたジェイ・ギャツビー」)
研究者は一人の作家を徹底的に調査・研究することで、自分だけの『グレート・ギャツビー』を獲得することができる(まさに「推し活」だ)。
専門的であること以上に、徹底的であることが「尊い」のだ。
好きな作家の作品は、徹底的に読みこみたい。
好きな作品は、誰よりも理解したい。
新しい発見は、パラノイア(妄想)とも呼ばれる深読みからこそ生まれるのかもしれない。
推し活のように
『グレート・ギャツビー』は、アメリカン・ドリームの物語である。
ギャツビーとその夢は、「力」換言すればこの小説に刻印された社会的力──戦争、人種差別、経済格差──によって阻害され引き裂かれているがゆえにギャツビーは「必然的にアメリカそのもの」を象徴するのである。(杉野健太郎「ニュー・ヒューマンとしてのギャツビー」)
ジェイ・ギャツビーの夢は実現することがなかった。
実現しなかったが故に、『グレート・ギャツビー』は永遠の名作となったのだ。
果たして、ギャツビーの夢は、どこへ行ってしまったのだろうか。
そう考えたとき、新たな妄想の深読みが始まる。
深読みは、すべての読者へ平等に与えられた文学的な特権である。
そして、こうした特権を行使してこそ読者は、小説を読むことの本当の意味を理解できるのかもしれない。
まるで「推し活」のように。
書名:ギャツビー100年 F・スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』を読む
編者:杉野健太郎
発行:2025/12/21
出版社:三修社

