読書体験

ゴーゴリ『鼻・外套・査察官』19世紀ロシア小市民の笑いや悲しみを奇想天外な小噺で描く

ゴーゴリ『鼻・外套・査察官』19世紀ロシア小市民の笑いや悲しみを奇想天外な小噺で描く

ゴーゴリ『鼻・外套・査察官』読了。

本作『鼻・外套・査察官』は、2006年(平成18年)11月に、浦雅春の翻訳によって、光文社古典新訳文庫から刊行された作品集である。

収録作品及び初出(発表年)は次のとおり。

「鼻」
1836年『同時代人』第3号(プーシキン編集)

「外套」
1841年版『作品集』第三巻

「査察官」
1836年4月、アレクサンドリスキー劇場にて初演


人道主義的イメージを否定する落語調ゴーゴリ

若き日の庄野潤三は、ゴーゴリを読んでいなかったことが随筆に書かれている。

私はもっと早くからゴーゴリを読めばよかったと思って後悔している。(略)もしあの時分にゴーゴリの「外套」や「鼻」を読めば、きっとこの作家が好きになり、もっと読みたいと思い、その次に「死せる魂」を文庫本で買って来て、ロシアの広大な田園を背景としたチチコフ行状記にすっかり夢中になっただろうと想像する。(庄野潤三「ゴーゴリ」/『自分の羽根』所収)

当時の(作家になる前の)庄野さんは、チェーホフこそ、自分の目標とする作家だと考えていたらしい。

もしゴーゴリを先に読んでいたら、本当に好きになるという点では、チェーホフよりもゴーゴリに惹かれたのではないか、そうして、小説を書くお手本として、私はゴーゴリのあの人物を浮き彫りにしてみせるやり方を真似てみようと思ったかもしれない。(庄野潤三「ゴーゴリ」/『自分の羽根』所収)

なにしろ、「私はおかしみの要素のあるものでないと読みたい気持が起らなかった」という庄野さんである。

奇想天外な珍騒動がストーリーの中心となるゴーゴリの小説は、おそらく、作家の好みにマッチしていたのだろう。

そして、ゴーゴリの作品が持つ「奇想天外な珍騒動」を、おもしろおかしく伝えようとする翻訳が、光文社古典新訳文庫版『鼻・外套・査察官』だった。

本作最大の特徴は、日本語の文章が、噺家による語り調になっているということである(つまり、落語風に訳されている)。

今回この三作は「落語調」に訳してある。(略)今回の訳が世間にどう受け入れられるかは自分でも分からない。まさかこの訳文で、ゴーゴリの文体分析をやろうなんて素っ頓狂な人は出てこまい。原文に当たらず文学研究ができるはずがない。ここは愉しく訳そうと取り組んだのが、今お手許にある作物だ。(浦雅春『鼻・外套・査察官』解説)

以前、落語調に訳されたディケンズを読んで、あまり肌に合わなかった記憶があるので、今回もどうなることかと不安だったが、落語調のゴーゴリは、意外とマッチしていたらしい。

「鼻」や「外套」は、滑稽なストーリーの中に、人間の悲しさを感じ取ることができる作品だ。

物語を滑稽に話せば話すほど、その底を流れている人間の悲しさが、むしろ、浮き彫りにされているように感じた。

ただし、落語調というのは、つまり、東京弁なので、ゴーゴリの作品が持つ「ロシア感」というのは、あまり伝わってこない(登場人物の名前がロシアっぽいくらい)。

東京弁は、ロシアの冬の寒さを伝えるための言葉ではなかったのかもしれない。

凍りつくペテルブルグの街には、やはり、ソリッドな文章の方が似合う。

特に、ロシア文学に慣れていない読者は、落語調の言葉から、19世紀ロシアの世界観をイメージすることは難しいのではないだろうか(自分を含めて)。

つまり、光文社古典新訳文庫『鼻・外套・査察官』は、ロシア文学に精通している人が読んでこそ、その真価をしっかりと理解できる、ということだ。

ゴーゴリが忠実にロシアの社会を反映したというのは、とんでもない誤解だ。社会の底辺に位置する哀れな小官吏に注ぐゴーゴリの眼差しを人道的なものと思いこみ、そこから作家の社会的抗議の姿勢を読み取り、リアリズム(写実主義)こそ新しい社会に必要な文学だと主張したのは、一九世紀ロシア批評界を牽引したベリンスキーだったが、この批評界の大御所の言説は抗しがたい感染力で人々の目を狂わせた。(浦雅春『鼻・外套・査察官』解説)

人道主義的なゴーゴリ像を否定する立場から生まれたものが、落語調の『鼻・外套・査察官』である。

ゴーゴリ文学の歴史に通じている人にとっては、純粋にゴーゴリ作品を読む以上の楽しさが、落語調『鼻・外套・査察官』にはあるのではないだろうか。

鼻│朝起きたら自分の<鼻>が偉い役人になっていた話

床屋の主人が、朝食のパンを食べようとしたところ、パンの中から、人間の「鼻」が出てきた。

「どこで、ちょんぎったんだい?」おかみさんは怒りにまかせて怒鳴りだす始末。「このろくでなし! 酔っぱらい! 警察に訴えてやるからね」(ニコライ・ゴーゴリ「鼻」浦雅春・訳)

慌てた床屋さんは、人間の「鼻」を川へ捨てる。

同じころ、主人公が目を覚ましたとき、昨夜まではあったはずの、自分の「鼻」がないことに気が付いた。

ところがあァた、驚くまいことか、鼻のあるべきところが何にもなくて、つんつるてん!(ニコライ・ゴーゴリ「鼻」浦雅春・訳)

やむなく、主人公は、ハンカチで顔をおおって出かけるが、あるお屋敷の前で、自分の「鼻」を発見する。

車寄せの前に一台の立派な箱馬車が停車しまして、ドアが開きますと、制服を着た一人の紳士が背中をこごめて出てきて、階段をトットットッと駆け上っていった。コワリョフが驚いたのなんのって、なにしろそれって、ほかならぬご自分の鼻なんですから!(ニコライ・ゴーゴリ「鼻」浦雅春・訳)

なくなった自分の「鼻」が、自分より階級の高い役人となって現れるところに、この物語のアイロニーがある。

自分の従属物だと信じていた「鼻」が、突然に独立をして、自分よりも偉い立場になってしまった。

主人公(コワリョフ)には、腹心の部下が、ある日、突然抜擢されて、自分の上司になってしまったかのような戸惑いと混乱がある(まるで『課長 島耕作』みたいな)。

「お言葉を返すようですが……」コワリョフは威厳を持ってこう申します。「あなたのお言葉をどう理解すればいいのか計りかねますな……。何もかも明らかじゃございませんか……。それともなんですか……。あなたはぼくの鼻なんですよ!」(ニコライ・ゴーゴリ「鼻」浦雅春・訳)

小官吏コワリョフ(主人公)が、慌てふためく(そして、必死で取り繕う)姿は、あまりに滑稽すぎて、むしろ悲しい。

それにしても、人間の「鼻」が、制服を着て馬車に乗っている姿を想像することは、あまり容易ではない(というか、ほとんど無理だ)。

自分の「鼻」が独立するという発想が、この物語のすべてなんだろうな。

外套│ロシアの<のび太>が社会に復讐する話

主人公(アカーキー・アカーキエヴィチ)は、冴えない小役人。

風采も上がらず、同僚からも小馬鹿にされるアカーキーは、まるで、19世紀ロシアの<のび太>だ。

貧しいアカーキーは、厳寒のペテルブルグを過ごすため、なけなしのお金をはたいて、素晴らしい外套を手に入れる。

ところが、<不運な男>に生まれついているアカーキーは、買ったばかりの外套を、強盗に奪われてしまった。

なんとか、外套を取り戻してもらおうと、警察や上司に相談するが、社会は冷たい。

ショックで高熱を出したアカーキーは、そのまま死んでしまった。

それから、ほどなく、夜の街に幽霊が現れて、人々の外套を奪うようになった。

もちろん、この幽霊は、無念の死を遂げた主人公(アカーキー)の怨念である。

「ああ、とうとう出くわしたぞ! おれは、お前の、そのー、襟をつかまえたぞ! おれにはお前の外套が要るんだ! よくぞおれの外套を鼻であしらってくれたな。よくぞ叱りとばしてくれたな。さあ、今度はお前の外套をよこせ!」(ニコライ・ゴーゴリ「外套」浦雅春・訳)

主人公の怒りは、外套を奪った強盗ではなく、相談に訪れたアカーキーを冷たくあしらった上司に向いている。

つまり、外套は、ひとつのトリガーであって、根底にあるのは、自分の境遇に納得できずに生き続けていた、アカーキーの不満である。

ただの外套が、主人公の生命を左右し、しかも、主人公の境遇を象徴していたというプロットは、おかしくも悲しい(いじめられて死んだ<のび太>が幽霊になって現れて、ジャイアンやスネ夫に復讐していると考えてみてください)。

復讐のあり方が、外套を奪うだけというのも、いかにも小役人だったアカーキーらしい(せめて、呪い殺せよ、と思う)。

この作品のポイントは、真冬のペテルブルグの寒さを、いかに読み取るかというところにある(と、北海道生まれの自分は考えている)。

このペテルブルグには、年に四百ルーブルやそこらの棒給をもらっている人たちにとって手強い敵というのがございます。その敵というのは、この北国の寒さです。それも並大抵の寒さじゃあない。ここではそれを「どえりゃー寒さ」と申すんだそうで。(ニコライ・ゴーゴリ「外套」浦雅春・訳)

ちなみに、旧ゴーゴリ像に基づくと思われる、横田瑞穂の訳では「北方の酷寒(マロース)」という言葉が使われている(早稲田大学のロシア文学者である横田瑞穂は、庄野潤三や小沼丹とも飲み友だちだった)。

身分の高い役人連中でさえ、このマロース(酷寒)には額のあたりが痛くなり、目からは泪がぽろぽろこぼれだすほどなのだから、貧乏な九等官など、ときには身の防ぎようがなくなる始末である。(ニコライ・ゴーゴリ「外套」横田瑞穂・訳)

もっとも理想的なのは、真冬のロシアまで行って、この小説を読むことかもしれない(一生無理だと思うけれど)。

査察官│人違いにドタバタする愚民どもの話

古い訳では「検察官」として知られている(米川正夫・訳)。

不正が横行する町に、お忍びで査察官がやってくるという。

愚かな役人連中は、関係のない若者を査察官と勘違いし、町を挙げて歓待する。

「ここはやけに役人の多い町だなあ。ところで、連中はおれのことを政府の役人と取り違えているらしい。たしかに、きのう散々駄法螺をかましてやったからな。まったくおめでたい連中だ!」(ニコライ・ゴーゴリ「査察官」浦雅春・訳)

ほとんど、クレージーキャッツの映画みたいなドタバタ喜劇なので、今回の落語調が最もマッチしている。

この作品は、腐敗した役人世界を告発する批判的な戯曲として理解されたらしいが、これが告発だとしたら、当時のロシア社会は、相当にヤバかったということになるのではないだろうか(かなり、盛ってあるのではないかと思うけれど)。

本書に収録された三作品は、いずれも、ゴーゴリの代表作として知られている。

かなり、クセのある翻訳であることは間違いないので、旧訳と読み比べてみることで、新しい発見もあるのではないだろうか。

書名:鼻/外套/査察官
著者:ニコライ・ゴーゴリ
訳者:浦雅春
発行:2006/11/20
出版社:光文社古典新訳文庫

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。