田家秀樹『陽のあたる場所 浜田省吾ヒストリー』読了。
本作『陽のあたる場所 浜田省吾ヒストリー』は、1988年(昭和63年)2月に角川書店から刊行された音楽評伝である。
この年、浜田省吾は36歳だった。
社会派ロックスターの誕生
1980年代後半というのは、ある意味、浜田省吾が最もマスマーケットで活躍した時代だったかもしれない。
1986年(昭和61年)発売のアルバム『J.Boy』がチャート1位を獲得したことで、浜田省吾は名実ともにトップ・ミュージシャンの仲間入りを果たしていた。
ラジオや音楽雑誌でのインタビューを中心としたプロモーションも盛んだった時代である。
「時代に求められる男」という形で、浜田省吾初めての評伝『陽のあたる場所』は発売された。
それは、「陽のあたらない場所」で歌い続けた不遇のミュージシャンが「陽のあたる場所」へと踊り出た瞬間を書き記したドキュメンタリーでもある。
潮目は6枚目のアルバム『Home Bound』(1980)だった。
「自分の中でロックをやりたいっていうのがはっきりありましたからね。ロックをやりたい、その一点だけでしたから」(田家秀樹「陽のあたる場所 浜田省吾ヒストリー」)
2005年(平成17年)に発売されたアルバム『My First Love』で、次のように歌っている。
迷いと混乱の中沈んでいた 70年代
救ってくれたのは “Bruce Springsteen & Jackson Browne”
鐘が鳴るように蘇る “Old time Rock’n’ Roll”
心の中 叫んだ “Bringing it all back home”
(浜田省吾「初恋」)
10枚目のシングル「明日なき世代」(1980)は、「日本のブルース・スプリングスティーン 浜田省吾」の誕生を象徴する作品となった。
須藤晃は、シングル用にできた曲のイントロで「やった」と思っていた。「これで新しい世代のヒーローになる」と。イントロのフレーズは「♪泣かないで、オレたちの明日、誰にも渡さない……」というものだった。(田家秀樹「陽のあたる場所 浜田省吾ヒストリー」)
(オレたちの)浜田省吾は、80年代のミュージシャンである。
挫折の70年代を振り払うかのように、80年代の浜田省吾は爆発していた。
1980年(昭和55年)1月から9月まで、深夜ラジオ番組『セイ! ヤング』(文化放送)でDJを担当。
第1回は、1月7日からだった。文化放送第2スタジオからの生放送、1曲目は、ブルース・スプリングスティーンの「明日なき暴走」だった。(田家秀樹「陽のあたる場所 浜田省吾ヒストリー」)
新生・浜田省吾は、まさしくブルース・スプリングスティーンから生まれていた。
1982年(昭和57年)1月12日、初めての日本武道館コンサートを開催。
そのとき、彼は決してヒット曲を持つスター・ミュージシャンではなかった。
「冗談でしょ、と思ったの。そんなことできるわけないじゃないって。(略)最初考えさせてくれって言ったんだよね。酔っ払って、冗談言ってんだと思った」(田家秀樹「陽のあたる場所 浜田省吾ヒストリー」)
地方都市を中心にコンサートツアーを行う「ローカルスター」浜田省吾の武道館チケットは、即日完売だった。
ニューアルバム『愛の世代の前に』を引っ提げて、浜田省吾は初めての大舞台「武道館ライブ」を成功させる。
あとは、もう勢いに乗っていくだけだった。
1982年(昭和57年)11月、アルバム『PROMISED LAND 〜約束の地』発売。
『Home Bound』『愛の世代の前に』『PROMISED LAND 〜約束の地』の三部作を通して、浜田省吾は「社会派のロックスター」というイメージを定着させた。
「僕が18の頃っていうのは、ベトナム戦争が盛んなころで……年は僕、30です。ハイ(笑)ちょうどこの頃の季節なんかになると、長崎とか広島の原爆記念日にデモに行ったりなんかして、おまわりさんにこづかれたりなんかしてたんだけど……」(田家秀樹「陽のあたる場所 浜田省吾ヒストリー」)
「浜田省吾が変わった」わけではなかったかもしれない。
時代が、政治を語ることのできる「硬派なヒーロー」の登場を待ち望んでいたのだ。
本書のタイトルにもなった名曲バラード「陽のあたる場所」は、アメリカの文学作品に由来している。
彼がその本のことを知ったのは、映画を見てからだった。映画に感激して読んでみたいと思った原作だった。「陽のあたる場所」──これが映画のタイトルだった。主演は、モンゴメリー・クリフトとエリザベス・テーラーという顔合わせ。1951年に製作されたアメリカ映画だった。原作は『アメリカの悲劇』といった。セオドア・ドライサーの作で、初めて出版されたのは1925年のことだった。(田家秀樹「陽のあたる場所 浜田省吾ヒストリー」)
それは、特権階級に牛耳られているアメリカ社会の貧富の矛盾を背景とした恋愛小説だった。
格差社会の中で恋人たちは焦燥し、やがて、狂気の悲劇へと発展していく。
アルバム『DOWN BY THE MAINSTREET』(1984)で浜田省吾は、少年時代の自分を歌った。
「拓郎さんたちがブルドーザーで、オフコースとかあの世代の人たちが舗装して、僕たちが定着させたっていう感じがしたんですね。フォロー(後をついていく)というのではなくてね」(田家秀樹「陽のあたる場所 浜田省吾ヒストリー」)
そして、1986年(昭和61年)9月4日、ついに伝説のアルバム『J.Boy』が発売される。
浜田省吾にとっては「ヒットチャート1位」を記録した、初めてのアルバムだった。
『DOWN BY THE MAINSTREET』で「10代の少年」を歌った浜田省吾は、『J.Boy』で「大人になった少年」を歌った。
「J.Boy」とは、1945年(昭和20年)から歩き始めた「戦後の日本」のことでもある。
バブル景気で沸き立つ中、日本は「経済大国」としての道を歩み始めていた。
「その当時は1967,8年で、学園紛争の真っ只中で、オレたちも呉の弾薬庫反対のデモなんていうのに行ってて……」「今の時代も、あの当時とあんまり変わっていないような気がすることがある。みんなは、あの時代から多くのことを学んだのだから、もっと先へ進んでほしいと、34になった少年は、今思ってる……」(田家秀樹「陽のあたる場所 浜田省吾ヒストリー」)
1988年(昭和63年)3月、第二次「三部作」の完結編となる『FATHER’S SON』が発売され、その翌月(4月)、浜田省吾は父を失った。
「日本は強姦されたんだと思うんですね。しかも原爆投下という人類史上かつてない形で。ボクらは、そこから生まれた私生児だと思うんです」(田家秀樹「陽のあたる場所 浜田省吾ヒストリー」)
アメリカによって生み出された日本の戦後民主主義とアメリカ追従型の日本経済に、「J.Boy」が疑問を持ち始めていた。
つまり、それが「80年代という時代」だったのだ。
浜田省吾は、時代の寵児だった。
そして、そんな浜田省吾に、多感な少年たちは夢中になった(それが僕たちだ)。
本書『陽のあたる場所 浜田省吾ヒストリー』は、そんな時代に発表された、浜田省吾のバイオグラフィーである。
ある意味で、それは、浜田省吾にとって「80年代の総決算」だったかもしれない。
「傷つきやすい少年」からの脱却
当時、浜田省吾を語るときには「売れなかった時代のエピソード」が、必ずと言っていいほど添えられていた(この本ももちろんそうだ)。
どん底時代を象徴する作品が、4枚目のアルバム『MIND SCREEN』(1979)に収録された「悪い夢」だった。
「もう、何にも歌いたいことがない気がするって言ったのを覚えてる。何歌ったらいいのかわかんなくなって、何だか徒労感というのか、虚無感みたいなものにとりつかれていたんだろうね」(田家秀樹「陽のあたる場所 浜田省吾ヒストリー」)
盟友(町支寛二)も、当時のことを覚えている。
「バンドでやりたいっていう気持ちは、ボクも浜田もあるわけですよね。でもバンドでやるだけの力がなくて二人だけでやってたわけでしょう。やるたびに消耗するんですよね」(田家秀樹「陽のあたる場所 浜田省吾ヒストリー」)
苦難の1970年代だった。
浜田省吾のソロデビューアルバム『生まれたところを遠く離れて』が発売された1976年(昭和51年)、友部正人はアルバム『どうして旅に出なかったんだ』を発表している。
76年の10月、同じCBSソニーから出た友部正人のアルバムは、『どうして旅に出なかったんだ』という題名だった。「♪どうして旅に、出なかったんだ、坊や~」という歌詞で始まるタイトル曲があった。省吾は、その曲を、胸に刺さるような想いで聞いていた。(田家秀樹「陽のあたる場所 浜田省吾ヒストリー」)
試行錯誤の70年代に、誰もが振り回されていたのかもしれない。
浜田省吾は、自分の「旅」を見つけることができない自分自身に苦悩していた。
帯広では、居酒屋で歌ったりもしている。福祉センターのステージを終えた後で、市内の80坪ある居酒屋で、30分のライブを2回行うというスケジュールをこなしたこともあった。(田家秀樹「陽のあたる場所 浜田省吾ヒストリー」)
ファンの温かい支援は、遠く北海道の地でも経験した。
「釧路で、下着の替えがなくなって困ったこともあったよ」「通りがかりの女の子が、アタシが洗濯してあげるって言ってくれて、次の日、その子の家に下着の洗濯物をとりに行ったりしてたんだ……。あの子、どうしてるだろう?」(田家秀樹「陽のあたる場所 浜田省吾ヒストリー」)
決して多くはないけれど、熱心なファンが応援してくれた。
十数人しかいないステージの最前列に座り、ラジカセを目の前に置きながら聞いていた少女が、突然手を挙げて「あと何曲やるのですか?」と省吾に真顔で聞いた。退屈させてしまったのかと心配した省吾が「もう少しだけど」と答えると、彼女は、こらえ切れなくなったようにトイレに走り、省吾はギターにまつわるそんな話をしながら、チューニングをして、彼女が戻るまで曲に入るのを待っていたというエピソードは、初期の頃のステージを知っている人の間では、語り草になっている。(田家秀樹「陽のあたる場所 浜田省吾ヒストリー」)
繰り返される地方ツアーの日々(これが「演奏旅行」になった)。
焦る仲間たちと厳しい音楽業界の現実の狭間で、誰よりも傷ついていたのが浜田省吾だった。
鈴木幹治は、そんな地方でのプロモーションの中で、インタビュアーの横柄な応対に黙りこくってしまった省吾が、足もとに置いてあったギター・ケースに貼ってあった「こわれもの」というシールを剥がして、いきなり自分の胸に貼りつけてうつむいたままスタジオを出ていくのを見て、胸を痛めていた。(田家秀樹「陽のあたる場所 浜田省吾ヒストリー」)
胸に貼られた「こわれもの」のシールは、傷つきやすい少年のまま大人になろうとしている浜田省吾を象徴するメッセージだったのかもしれない。
浜田省吾を変えたのは、新しいディレクター(須藤晃)だった。
半分は売り言葉に買い言葉という雰囲気もあった。須藤晃は彼にこう言ったのだ。「性格変わらなきゃ、売れないよ」(略)省吾はそのまま沈黙した。(田家秀樹「陽のあたる場所 浜田省吾ヒストリー」)
「ロック・アーティストとしてスターになるには、内省的に過ぎるような気がする」と、浜田省吾は自分と向き合い、やがて、ロック・スターらしさを身に付けていくようになる。
本書『陽のあたる場所 浜田省吾ヒストリー』は、傷つきやすい少年(浜田省吾)が、ロック・スターになるまでの軌跡を綴ったサクセス・ストーリーである。
2001年(平成13年)、NHK BSのテレビ番組で「自分の夢はかなったけれど」と発言する浜田省吾は、既に「傷つきやすい少年」でも「路地裏の少年」でもなかった。
彼は、日本を代表するロック・ミュージシャンであり、日本有数のスーパースターだったのだ。
浜田省吾を変えたのは「栄光の80年代」である。
『Home Bound』(1980)をきっかけとして、『愛の世代の前に』(1981)、『PROMISED LAND 〜約束の地』(1982)、『DOWN BY THE MAINSTREET』(1984)、そして『J.BOY』(1986)へと、浜田省吾は栄光の階段を駆け上っていった。
そこに、僕たちの青春もある。
ロックスターへの階段を昇っていく浜田省吾の背中を追いかけながら、大人になった僕たちの青春。
だから、僕たちにとって浜田省吾は、今でも「80年代のミュージシャン」だ。
書名:陽のあたる場所 浜田省吾ヒストリー
著者:田家秀樹
発行:1988/02/25
出版社:角川書店

