小林多喜二「東倶知安行」読了。
本作「東倶知安行」は、1931年(昭和6年)3月に改造社から発行された『東俱知安行』(新鋭文学叢書)に収録された中篇小説である。
この年、著者は28歳だった。
初出は、1930年(昭和5年)12月『改造』。
左翼活動に従事する若者の精神的な成長
真冬の選挙が始まった。
厳寒期の北海道における真冬の選挙は、候補者にとっても有権者にとっても過酷なもので、誰の利益にもならない。
まさに「誰得(だれとく)」だが、日本最初の男子普通選挙(第16回衆議院議員総選挙)も真冬の選挙だった。
投票日は1928年(昭和3年)2月20日で、左派無産政党「労働農民党」が初めて議席を獲得した選挙として記憶されている。
小林多喜二「東俱知安行」は、この第16回総選挙中における労働農民党の選挙活動を題材に取った、ルポルタージュ風の中篇小説である。
話題は当然選挙のことだった。島田正策が東京からの「輸入」候補者であるために、他の候補者達は「投票するなら、地元候補へ」そう大きく印刷したビラを撒いて、民衆の単純な愛郷心を歪めようとしていた。それに初めての「プロレタリア」候補であるために、滑稽な程おじけついて、彼等は「島正(しませい)」を共産党員であり、ロシアの手先になっている「国賊」であると云いふらしていた。(小林多喜二「東俱知安行」)
物語の語り手である「私」はサラリーマンとして働きながら、共産党活動に関わっている。
私はいつでも自分がにえきらない「裏」の仕事しかできないことをはがゆく思っていた。それは現在の勤めを考顧に置いているかぎり、どうにもできないことだった。(小林多喜二「東俱知安行」)
彼には養わなければならない家族があった。
勤めを離れて、次の日からすぐ食って行ける自信はまるでなかった。私は勝手に飛び廻れる次男坊でもなかった。私の月給には六人の親子がブラ下がっていた。(小林多喜二「東俱知安行」)
共産党活動に関与していることが会社に知られれれば、すぐにも首(クビ)になってしまう。
彼は、家族のために会社員としての地位を維持しながら、共産党活動に関わらなければならなかった。
この小説は、そんな「私」の心理的ジレンマをテーマとしている。
倶知安地方の演説会に派遣された彼は、様々な活動家と出会う。
鈴本は、家族を犠牲にして、党活動に打ちこんでいた。
後で、私はこのことから吉川と話したとき、鈴本には四人も子供がいて、それが彼が運動の方へ入り切っているために、食うや、食わずで瘦せ衰えていることを聞いた。学齢になっても、一人も学校へは通えず、電燈は三ヵ月も前から止められて、夜中真っ暗な家の中に住んでいた。(小林多喜二「東俱知安行」)
候補者である島田正策(しませい)は、自分の健康を犠牲にしていた。
「参った。声ばかりじゃないんだ。僕の横ッ腹は戸板のように堅くなっていて、少し力を入れてしゃべると、ジーンと響くんだ」島正は話しながら、薬瓶を出して何度もうがいをした。「それにねえ、今停車場から此処までどうしても歩けないんだ。息は切れる、足はフラつくで……。いよいよもって、これは討死にらしいよ」(小林多喜二「東俱知安行」)
候補者(島田正策)は、小林多喜二にとって小樽商業高校以来の親友でもある「山本懸蔵(やまけん)」がモデルとなっている。
五区に分けられた北海道では「山懸」と愛称で呼ばれていた山本懸蔵が労働農民党代表で立候補し、小樽の労働団体はもちろん芸術団体もその応援に立ったわけですが、小林多喜二は当時小樽の前衛芸術家同盟を代表して支援活動に参加しています。(土井大助『一九二八年三月十五日・東俱知安行』解説)
当時のことは、小林多喜二のエッセイ『総選挙と「我等の山懸」』(1930)に詳しい。
僕は山懸が道端に小便をしたのを見たことがある。雪が血よりも真赤に染まった。演説会も小樽、札幌ならまだよかった。倶知安や寿都を廻るときには、雨の平原を馬橇に乗って、むしろや茣蓙をかぶったまま何里も行かなければならなかったのだ。「俺はそんな時半分死んでいるんだ」よくそう云った。(小林多喜二「総選挙と「我等の山懸」」)
彼らにとって政治活動は「生命」よりも大切なものだったのかもしれない。
東倶知安の「老人」は、実の娘の「肉体」を犠牲にしていた。
色は浅黒いけれども、その栗色がいかにも健康そうで、無口な、物腰の静かな女だった。そんなことがあったとは思えない女だった。しかし、その女がS──村の工場で、色々な男に身体を売って金をとっていたことは、もっと考えられないことだった。(小林多喜二「東俱知安行」)
老人の娘は、函館の日魯漁業会社で女工として働いていたときに、缶詰罐の倉庫で工場長に強姦されて以来、組合運動に取り組んでいるという話だった。
目も耳も不自由な「老人」は、かつて幸徳秋水の同士だったという。
「俺は幸徳秋水を知っているんだ。幸徳はねえ、いつでも巻煙草をこんなふうにくわえて、なア、水沢、お前寒くないかッて云ったもんだ。俺がいつでも貧相で、カサカサしていたもんだからさ」(小林多喜二「東俱知安行」)
18歳のときから運動に取り組んできた「老人」は、誰に知られるともなく、家族を犠牲にしながら活動を続けていた。
窓を開けさえすれば、マツカリヌプリが魔物のように眼をさえぎって聳えているこの置き忘れられた──雪にうずもれている蝦夷の一寒村に、我々の運動が、こんなにも大きな真剣さで行われているのかと思うと、私はじッくりと眼に涙がにじみ出てくる感激を覚えた。(小林多喜二「東俱知安行」)
そのとき、主人公(「私」)は、自分の中のヒロイズムに気づく。
「お前はレーニンのように「あがめられたい」と思っているのだ」「お前はただ無産階級運動の「大立物」になりためばかりに一生ケン命なのだ」(略)そうでないとは云わせない。お前の心の何処かがそればかり望んでいたのだ。私は白状しよう。──私は、そうだった!(小林多喜二「東俱知安行」)
自分の保身を優先しながら、自分の中の英雄主義を成功させようと考えていた、彼の自己欺瞞が明らかにされる。
それが「東俱知安行」という選挙活動における、彼の成長だった。
本作「東俱知安行」は、左翼活動に従事する若者の精神的な成長を描いたプロレタリア小説である。
大きな自己犠牲を伴わなければ実現不可能なほど、当時のプロレタリア活動は過酷なものだった。
彼らの運動は、やがて『一九二八年三月十五日』という作品へと展開されていく。
真冬の倶知安・京極を訪ねる
本作『東俱知安行』は、真冬の北海道における選挙活動の過酷さをリアルに描いた作品である。
「東俱知安」とは、現在の「京極町」のことで、労働農民党小樽支部の活動家たちは、小樽から俱知安へと遊説の旅に出かける。
私達は街路燈が雪にまばゆく反射している広い通りを横切って、小路に入った。少し斜めの狭い、薄暗い小路だった。「即席御料理」ののれんのかかった淫売屋が二、三十軒も軒を並べていた。(小林多喜二「東俱知安行」)
「淫売屋が二、三十軒も軒を並べている」のは、昭和初期の小樽風景である。
郊外の、小さい築港停車場は、置き捨てられた棺桶のように寒さに縮まって、じいとしていた。(略)木のベンチには、土工部屋から追い出されてきた(一見してそうと分かる)垢だらけの乞食のような男が、口を仰向けに大きく開いて寝ていた。(小林多喜二「東俱知安行」)
「小さい築港停車場」は、現在の「小樽築港駅」のことで、彼は小樽駅で仲間と合流して、倶知安へと向かう。
列車がプラットフォームに地響きをたてて入ってきた。(略)列車の窓硝子は皆スティムが花模様にギラギラと凍えて、内は見えなかった。(小林多喜二「東俱知安行」)
列車には、20人ばかりの「朝鮮人」が同乗していた。
「あすこに監督らしい日本人がいるんだがね、どこかへ売り渡しに引張っていくところらしいよ。朝鮮人がなんでも、女が死にそうだから、なんとかしてくれ、と云ってるらしいんだ」(小林多喜二「東俱知安行」)
至るところに、現代日本の「闇」がある。
汽車を降りると、そこが倶知安の町だった。
汽車から下りると、すぐ眼の前にぶッつかるようにマツカリヌプリが晴れた冬空に浮かんでいるのが見えた。そのだだッ広い裾野にある倶知安の町並は、雪の中から屋根だけを出してうずまっていた。(小林多喜二「東俱知安行」)
本作において、俱知安は(京極町と並んで)重要な舞台のひとつである。
通りの雪道は、山の峰と峰の連続のようになって、歩いていると、両側の屋根より私達の方が高いところさえあった。そして薄暗い家の中の畳が、窓から真直ぐ見下ろされた。前の日かに吹雪いたらしく、どの家も北に向いた側だけ雪をあびていた。(小林多喜二「東俱知安行」)
さらに、彼らは馬橇に乗って、東俱知安(京極町)へと向かう。
私達の予定が急に変わった。電報が来て、本隊がここでやり、私達はここから四里ほど支線に入った(いわゆる山麓)東俱知安でやることになった。しかしもう汽車がなかった。私達は大忙ぎに忙いで馬橇を一台用意してもらった。(小林多喜二「東俱知安行」)
倶知安から東俱知安まで馬橇の移動は、命懸けのものだった(「まったく、伊達や道楽で、この運動なんかできないや」)。
馬橇はすぐ町の外へ出てしまった。右手は広漠とした裾野で、マツカリヌプリがペンキ絵の富士山のように聳えている。右手には茅ぶきの百姓家が所々にあるだけで、一面の雪の平原が大海原のように、ゆるくうねって広がっていた。(小林多喜二「東俱知安行」)
東俱知安(京極町)では、お寺が遊説会場になっている。
会場のお寺の近くになると、二人、三人と並んで出かけてゆくのと私達は一緒になった。その人達は古ぼけた裾のよれよれになった二重廻しや、タコのダルマや、色のさめた兵隊の外套や、ラシャの筒砲の外套を着ていた。(小林多喜二「東俱知安行」)
当時、遊説会場となった京極町の寺は、現在も実在している「光寿寺」のことで、後志管内における「小林多喜二」聖地巡礼スポットの一つとなっている。
東俱知安での演説会を終えた彼らは、汽車に乗って倶知安駅まで戻っていく(俱知安駅で小樽行きの汽車に乗り換えた)。
演説会が終わって、雪の狭い一本道を皆が一列に帰っていった。道に掘らさっている馬の蹄や馬橇の窪みに足を落とさないように、私達も汽車に乗るために、その列に入っていた。雪の、しばれた夜道は皆の足駄や下駄の歯の下でギュンギュンと鳴った。(小林多喜二「東俱知安行」)
東俱知安から俱知安までは、小さな客車だった。
客車は北海道の支線によくあるマッチ箱のような小さい、入口が両側にいくつも取り付けてある型で、真ん中に円い西瓜のようなストーヴ一つきりだった。それに電燈が煤けたように薄暗く、時々消えそうになったりした。(小林多喜二「東俱知安行」)
真冬の選挙活動は厳しく、候補者のポスターを貼る作業さえ重労働となる。
暗い階段をガタガタいわせて、ゴムの深靴をはいたまま、ボロ外套を着て、片手に糊のバケツをさげた労働者がニ、三人上がってきた。「ひでえしばれだ」顔が寒さで酒を飲んだような真赤になっている。「あんまりの寒さで、糊が効かねえで弱った」(小林多喜二「東俱知安行」)
彼らを支えていたものは、時代を(社会を)変えなければならないという、若い熱気だった。
「勝ツウーぞオーッ! 畜生!」両腕を労農党のポスターのように、二本平行に天井に突きのばして、あくびをしながら、誰かが、とてつもなく大きな声で云った。(小林多喜二「東俱知安行」)
本作「東俱知安行」は、真冬の北海道文学として読んでおもしろいし、昭和初期の選挙小説として読んでも楽しい。
そこにあるのは、真冬の北海道で生きる人々のたくましい生命力である。
北海道の小さな寒村にも、新しい時代は確かに訪れつつあったのだ。
作品名:東俱知安行
著者:小林多喜二
書名:一九二八年三月十五日・東俱知安行
発行:1974/12/20
出版社:新日本文庫

