飯田龍太『飯田龍太文集(第三巻・無名極楽)』読了。
本作『飯田龍太文集(第三巻・無名極楽)』は、1988年(昭和63年)12月に筑摩書房から刊行された随筆集である。
この年、著者は68歳だった。
俳人を巡るエッセイ
俳句と随筆を同時に楽しむ。
句集を読むのとは、また違った楽しみが、そこにはある。
例えば、中村草田男の死を悼んだ「比類なき詩魂のひと」。
その死がもたらされた八月五日は、連日にひきつづいて朝からの猛暑。かつて「わが詩多産の夏」と詠い、あるいは、二百年生きると宣言した、そのひとの行年八十二歳。しかし、氏の生涯は、ひたすらに生き、ひたすらに詠いつづけて、まことに比類なきものであったと思う。(飯田龍太「比類なき詩魂のひと」)
「降る雪や明治は遠くなりにけり」「万緑の中や吾子の歯生え初むる」など、人口に膾炙する作品で知られる中村草田男は、戦後の「第二芸術論」をはじめとする批判の中で、最大唯一とも言える精神的支柱だった。
芥川龍之介は、俳句の世界でも有名な存在で、その忌日は「我鬼忌」や「河童忌」などと呼ばれる。
たましひのたとえば秋のほたるかな(蛇笏)
芥川龍之介仏大暑かな(万太郎)
飯田蛇笏の句は、没年の秋に詠まれたもので、久保田万太郎の句は、昭和3年の忌日に詠まれた。
人事句の得意だった久保田万太郎らしい鮮やかな描写が印象的。
文藝春秋の専務取締役を務めた車谷弘も、俳句で有名な編集者である。
丁度『俳句』に、「わが俳句交遊記」を連載中のこと。私は『俳句』がくると、まず第一にこれを読んでいたのでそのことに触れると、車谷さんは、「いや、それが全然反響がないんですよ。感想をいってくれるのは貴君ひとり。どういうんでしょ。このひとなんか」といいさして、隣の永井さんに背を向けながら、片眼をつむって「全く知らんふり」といった。(飯田龍太「車谷さんの俳句」)
後に『わが俳句交遊記』が書籍化された際、帯には「井伏鱒二・永井龍男氏推賞!」と記されていた。
長谷川かな女の思い出を綴った「長谷川かな女さんのこと」もいい。
青柿落ちる女が堕ちるところまで(かな女)
男性俳人にとって、女性俳人は、いつでも気になる存在だったのかもしれない。
「ふたりの女流俳人」では、橋本多佳子と長谷川秋子を採りあげている。
それはそれとして、最後の病床に書き遺した短冊には、「雪の日の浴身一指一趾愛し(多佳子)」という一句が書き記されていたそうである。(飯田龍太「ふたりの女流俳人」)
中里恒子は、『銀座百点』忘年俳句界の先輩だった。
「あのひとも歳だと言ひて障子はる(恒子)」こんな愉快な句がある。このときは生憎、永井龍男さんは風邪のため欠席されたようだが、それでも、狩野近雄、車谷弘、宮田重雄などといった口の悪い顔ぶれが見える。席上、さて、どんな批評がとび出したろう。(飯田龍太「中里恒子さんの俳句」)
西島麦南は、「校正の神様」と言われた岩波書店の社員である。
秋風や殺すにたらぬ人ひとり(麦南)
簡単に、人を殺してしまう世の中だが、本当の激情というのは、このような俳句を言うのかもしれない。
古い作品だが、山本健吉を綴った「芭蕉のことなど」に、松尾芭蕉の俳句が出てくる。
秋十とせ却て江戸を指ス故郷(芭蕉)
普段、芭蕉を読む機会も少ないので、こういうときに、古典の名句に触れておくのもいい。
父・飯田蛇笏のことは「晩年の蛇笏」で読むことができる。
蛇笏は微笑をうかべながら即座に、「法名がいいな。法名にしてくれ。オレは椿の花が好きだから椿花がいい。椿花蛇笏居士。あとは、お前らと坊さんに適当に頼む」といった。(飯田龍太「晩年の蛇笏」)
「ある印象」は、石田波郷を回想した文章。
角川源義を主賓とする祝賀会で、会場から「波郷コール」がかかったときも、波郷はまったく動じなかったという。
会場は再び騒然として来た。波郷氏の左隣り、ひとり置いた席の中村草田男氏が、たまりかねたように身を乗り出し、「波郷さん、ひと言、ねえ、ひと言でいいんだ」懇願するような、必死の面持ちである。(飯田龍太「ある印象」)
それでも、石田波郷は、じっと瞑想したまま、動じることはなかったというから凄い。
「真冬の一夜」は、戦後間もないころ、加藤楸邨を迎えた夜のことを綴った作品である。
客人を玄関に迎え、招じ入れようとして、ふと脱いだ靴に目を止めたとき、蛇笏は一瞬ハッと目をみはった。楸邨氏の大きな靴の片方が、パックリと口を開いている。まるでボンネットを開けた古自動車のような塩梅。(略)だが、楸邨氏はそのことに一言も触れない。蛇笏も口をつぐんだ。(飯田龍太「真冬の一夜」)
後に確認すると、靴は、境川の道で転石に当たって破れてしまったものだった。
飯田龍太と金子兜太とは、良い喧嘩友だちだったらしい。
兜太と直接会うことはきわめて稀であるが、会えばたいていケンカをする。この春はなんの前触れもなく、旅のついでだといってひょっくりたずねて来た。時間がないというから挨拶もそこそこにウイスキーを飲みながら早速ケンカを始めた。(飯田龍太「低音のよろしさ」)
歳時記にも採用されている「原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ(兜太)」を失敗作と断じるなど手厳しい。
「晩年の初心」には、年老いた日野草城のスケッチがある。
しばらく戸口に待つ間、やがて咳は止んだ。長い病臥の故か、牀中の草城氏は、髪は薄々として、七十にも近い老人の風貌に思われた。この時齢満五十歳。しかし、牀中の顔は意外なほど明るく、繊いがよく透る声で、丁寧に見舞いを謝し、良くなって是非一度山處にお伺いしたい、と言った。(飯田龍太「晩年の初心」)
それは、1952年(昭和27年)のことで、前年には「右眼の明を失す」と付した句がある。
右眼にて見えざる妻を左眼にて(草城)
日野草城といえば、若き日の「ミヤコホテル」が印象的だが、晩年まで初心を離れぬ人だったのかもしれない。
「晩年の初心」では、引用されている河盛好蔵の文章もいい(『俳句』1975年1月号に掲載された「一つの句を巡って」)。
そのとき座にあった永井龍男さんが、「こんな句があるんだ。なかなかいい句だと思う」といって、「ふる里の太郎に会ひぬ秋祭」という句を披露した。永井さんが選者をしている『俳句とエッセイ』の投稿句だという。(飯田龍太「晩年の初心」)
「ふる里の太郎に会ひぬ秋祭」という句の解釈について、井伏鱒二と永井龍男が、それぞれの解釈を披露するのだが、深読みのできる俳句というのはいい。
野見山朱鳥の著した『忘れ得ぬ俳句』(1952)も興味深い。
このなかで特に感興をおぼえたのは、阿波野青畝の項で、「足音がかたまつてくるねじやかな(青畝)」の一作をとりあげている点である。(飯田龍太「本格と専門」)
「ねじやか」は「寝釈迦」のことで、阿波野青畝には「人つどひ来るを待たるる寝釈迦かな」の有名句もある。
野見山朱鳥の句にも注目したい。
夜の記憶のみの家より雪便り(朱鳥)
少年時代の遠く離れた故郷を思わせる句が印象的だ(作者は「一夜の宿」を連想しているが)。
甲州境川村の俳人を綴った「無名極楽」は、本文集の中でも読み応えのある作品だ。
古い句碑のある北野野良、農俳人の米山煙柳、作者の隣人だった小茅など、興味深い村の俳人たちが登場する。
本名「晶一」をもじった「小茅(しょうち)」は、飯田蛇笏に俳句を学んだらしい。
「何年ごろから俳句をはじめたのかね」と訊くと、「はじめたっちゅうほどのもんじゃあねえさ。蛇笏先生の提灯持ちで、そうさなあ、大正十三年ごろかもしれん」といった。(飯田龍太「無名極楽」)
民俗学の見地からも重要なフィールドワークの仕事として読みたい。
宮城県宮村は、「小野訓導殉職の地」である。
突然の悲鳴におどろいてかみ手を見ると、三人の子が浮きつ沈みつ急流を流されて行く。とっさに先生は着の身着のままで川に飛びこみ、二人までは助けあげたが、三人目を助けようとして力つきた。(飯田龍太「塩釜」)
教師が聖職と言われた、大正時代のエピソードである。
松島芭蕉祭二十周年には、永井龍男と一緒に招かれた。
庫裡で茶が出た。それにセロハン紙で包んだ白いせんべいを添えて。包み紙に「紅蓮せんべい」と書いてある。手にとると、中身があるのかないのかわからぬように軽い。割って口に入れた永井さんは、即座に、「おっ! 浮世を捨てたような味だ」と言った。(飯田龍太「塩釜」)
それを聞いた作者(飯田龍太)が、「秋風や」の上句を付けた。
秋風や浮世捨てたる菓子の味(飯田東門居)
「飯田東門居」は、飯田龍太と永井東門居の合作を意味する。
俳句も、こういう遊びは楽しい。
北海道からは、日高管内の様似町が登場している。
たまたまこの春、桃の花見物かたがた来訪された八木義徳氏夫妻にその話をすると、「様似へ? そりゃあたいへんです。なにもない荒涼としたところです」といった。(飯田龍太「様似の夏」)
室蘭生まれの八木義徳でさえ「なにもない荒涼としたところ」だと言うから、作者(飯田龍太)もひどく驚いたらしい。
吉田拓郎が「♪襟裳の春は、何もない春です~」と歌った襟裳岬までは、様似からわずか1時間弱の距離である。
今となっては、変に観光化されていないので、むしろ好感の持てる土地ではないだろうか。
井伏鱒二や永井龍男との交流
飯田龍太と井伏鱒二との交流は、研究の余地があるテーマだ。
井伏さんの作品は、読むそばから忘れる。実に鮮やかに忘れる。したがって、同じ作品を何遍も読むことになる。それで、別段、損をしたとも、恥ずかしいとも、いちども考えたことがない。(飯田龍太「濃淡」)
二人は釣り仲間でもあったから、井伏鱒二の話は、当然のように釣りの話へと広がっていく。
帰途、身延線の小さな駅前の大衆食堂にはいった。井伏さんはカツ丼を注文し、火をていねいに入れてくれと言った。現われたどんぶりの上のカツを見ると、食堂のオバサンとしてはおそらく渾身の包丁さばきを見せたとおもわれるほどの薄さで、コロモは狐色というより、もう猪色に近い。(飯田龍太「釣りの心境」)
井伏さんは「カツ丼はこれでないといけない」と言いながら、ソースとしょうゆをかけて、揚げすぎた薄いカツを平らげたという。
もはや、俳句とも釣りとも関係ないが、井伏さんのエピソードは、このような周辺談話に楽しいものが多い。
永井龍男を綴った「季節の風味」にも、井伏鱒二が登場している。
それとなく口添えしていただいた井伏先生に、その旨を報告すると、永井君が行くなら、ぼくも一緒に桃の花見物に行こう、永井君が講演している間、ぼくは川原の芝生の上で日向ぼっこをして待っていることにする、と仰言る。(飯田龍太「季節の風味」)
甲州境川の『雲母』俳句大会で、永井龍男が講演したときの話である。
永井龍男は、小説でも俳句でも独自の世界観を構築した。
そんなエキゾチズムではなく、もっと現実的な想念を愉しみたいというなら、「大雪の客に伴ふ女あり」はどうだろう。たしか短篇のなかに、これとそっくりの一場面が描かれていたように思う。(飯田龍太「東門居秀句」)
とにかく描写力という意味で、永井龍男は優れた作家だった。
木下夕爾は、井伏鱒二と同郷の詩人である。
夕爾さんは、最初から真剣に俳句を作り、純粋に俳句を愛した人である。『現代俳句全集』という何冊かの書物が刊行されたとき、その第一巻に、新人作品鑑賞という欄が設けられ、私にも数名のひとが割り当てられた。そのなかに「木下夕爾」という名前があった。(飯田龍太「木下夕爾さんのこと」)
1958年(昭和33年)にみすず書房から刊行された『現代俳句全集(第1巻)』に、「3 新人作品鑑賞」として「木下夕爾(飯田竜太)」の項目を見つけた。
飯田龍太とは関係ないが、「職場の俳句」として「鉱山俳句(西川赤峰)」「電気通信労働の俳句(赤城さかえ)」などがあるのも、当時らしい感じがする。
告別式が済んでから広島から帰られた井伏さんは、夜更けの小さな居酒屋でポツリと言われた。「夕爾さんは、すぐれた才智を、才能にまでたかめた人なんだね」(飯田龍太「木下夕爾さんのこと」)
50歳で没した詩人に捧げる、良きレクイエムとして読みたい。
当然、庄野潤三との交友を綴った文章もある。
「小さな旅」は、1973年(昭和48年)の秋に、小さな旅をしたときの思い出を綴ったもの。
狭苦しい急な階段をのぼっていく。尾長鳥の啼き声のように、大仰な音をたてる。騒々しいいやな音である。すかさず庄野さんは、「おや、これはいい。ウグイス階段だ」といった。(飯田龍太「小さな旅」)
翌日は、ヤマメの養殖場で、庄野さんもヤマメ釣りを楽しんだという。
釣り好きの俳人だけあって、釣りに関する随筆は多い。
渓流釣りの定年は五十歳。それを越えると、必ず魚のタタリがある。戦前はそういわれていた。(飯田龍太「ヤマメと桃の花」)
飯田龍太釣り紀行は、それだけで一冊の名著ができる。
素晴らしい文集というのは、巻末の解説まで楽しいものだ。
おおむね式が終ったころ、悪寒がしてきた。不甲斐ないことである。そしていつか、富沢赤黄男という、前衛俳句の先達のようなひとの句集を読んでいたとき、初期二十代の、まだ伝統的な俳句をつくっていた頃の作品の中に「逢ふたびに風邪引いてゐる男かな」という句を見て、なんだ、これ、俺のことかと、思わず苦笑してしまったことを思い出した。(飯田龍太『飯田龍太文集(第三巻・無名極楽)』解説)
釣りをしなくても、俳句を知らなくても、この文集は楽しむことができる。
むしろ、釣りよりも、俳句よりも、文章を楽しむところに、こういった文集の意義がある。
読むことが釣りであり、読むことが、つまり、俳句なのだ。
飯田龍太と井伏鱒二は、なぜ仲良しだったのか?
この文集を読むと、その理由が理解できるような気がする。
書名:飯田龍太文集(第三巻)
著者:飯田龍太
発行:1988/12/15
出版社:筑摩書房