旅行体験

【聖地巡礼】北の港町・小樽は石原裕次郎が少年時代を過ごした故郷の町だった

【聖地巡礼】北の港町・小樽は石原裕次郎が少年時代を過ごした故郷の町だった

石原裕次郎の故郷・小樽。

石原裕次郎記念館は閉館してしまったけれど、小樽の街には今も、石原裕次郎の記憶がある。

昭和の映画スターが少年時代を過ごした街を歩いてみた。

小樽駅から小樽運河へ

石原裕次郎に「おれの小樽」(1983)という歌がある。

夕陽とかした海に染められて
子ども二人が家路を駈けて行く
かえらぬ昔の夢をみるような
おれの小樽は港町
おふくろ おれの名呼んで呉れ

(石原裕次郎「おれの小樽」)

作詞は杉紀彦だが、「おれの小樽」には、石原裕次郎自身の少年時代が投影されている。

「子ども二人が家路を駈けて行く」とあるのは、石原慎太郎・裕次郎兄弟を描いたものだろう。

石原裕次郎『口伝 我が人生の辞』(2003)には、石原裕次郎の小樽に対する思いが綴られている。

神戸、小樽、そして逗子──。山下汽船の重役だった親父の任地の関係で、僕たち家族が暮らした街だ。どこもみな、家から海が見えたけど、なかでも小樽の家からの眺めは素晴らしかったね。(石原裕次郎「口伝 我が人生の辞」)

1934年(昭和9年)12月28日、神戸市須磨区に生まれた石原裕次郎は、1937年(昭和12年)、3歳のときから北海道小樽市で暮らし始める。

山下汽船小樽支店長として着任した父とともに、石原慎太郎・裕次郎兄弟も、小樽の住民となったのだ。

小樽港へ真っ直ぐ続く長い坂の山の手にあってさ。二階の部屋から港が見渡せるんだ。三歳から九歳まで、僕は小樽の海を見ながら暮らした。(石原裕次郎「口伝 我が人生の辞」)

「おれの小樽」に描かれているのは、少年時代の小樽である。

遠い季節を語る運河には
釣りを教えた親父を映す影
レンガの倉庫は変り果てたまま
おれの小樽のとしつきを
辿れば こころに雪がふる

(石原裕次郎「おれの小樽」)

1978年(昭和53年)6月30日(金)の22時から22時29分まで放送された『ふるさとからこんばんは ほっかいどう7:30 「7:30発 “北帰行” 」―石原裕次郎・小樽―』は、石原裕次郎が故郷・小樽を訪れるドキュメンタリー番組である。

『ザ・スーペリア~石原裕次郎17回忌特別企画~』パンフレット『ザ・スーペリア~石原裕次郎17回忌特別企画~』パンフレット

2003年(平成15年)に発売された『ザ・スーペリア~石原裕次郎17回忌特別企画~』(DVD18枚組)には、「石原裕次郎映像ヒストリー」として、『映像伝説 NHK札幌「ほっかいどう7:30新シリーズ」7:30発「北帰行」石原裕次郎・小樽』が収録されている(ディスク17)。

実に「35年ぶり」の帰郷だった。

この番組の撮影に臨んだ石原裕次郎は、1978年(昭和53年)5月15日(月)、(当時は国鉄の)小樽駅に到着。

『石原裕次郎 日本人が最も愛した男』より『石原裕次郎 日本人が最も愛した男』より

裕次郎の降りた「4番ホーム」(当時は「1番ホーム」だった)は、2003年(平成15年)6月17日、小樽駅開業100周年を記念して「裕次郎ホーム」と名付けられた。

小樽駅開業100周年記念「裕次郎ホーム」小樽駅開業100周年記念「裕次郎ホーム」

「裕次郎ホーム」には、現在も、石原裕次郎の等身大パネルを置いたメモリアルオブジェがある。

小樽駅「裕次郎ホーム」にあるメモリアルオブジェ小樽駅「裕次郎ホーム」にあるメモリアルオブジェ

石原裕次郎のパネル写真は、小樽を訪れた1978年(昭和53年)に撮影されたもので(この年44歳となった)、2000年(平成12年)に設置された。

小樽を訪れた旅人が最初に出会う「小樽の石原裕次郎」だ。

石原裕次郎と同い年のJR小樽駅(1934年竣工)石原裕次郎と同い年のJR小樽駅(1934年竣工)

JR小樽駅は、1934年(昭和9年)12月25日竣工の歴史的建造物である。

つまり、石原裕次郎と同い年の、モダンな駅舎なのだ(石原裕次郎は1934年12月28日生まれ)。

JRで小樽に到着した観光客は、駅から海へと下って小樽運河に向かう。

小樽運河は、都はるみ「小樽運河」でも有名小樽運河は、都はるみ「小樽運河」でも有名

都はるみの歌った「小樽運河」(1990)でも有名な観光名所だ。

精進おとしの酒をのみ
別の生き方あったねと…

四十路半ばの 秋が逝き
セピア色した 雨が降る

イエスタデイを聴きながら
ふたり歩いた あァ 小樽運河

(都はるみ「小樽運河」)

作詞は吉岡治、作曲は「おれの小樽」と同じ、弦哲也だった。

小樽運河には、2007年(平成19年)に設置された「おれの小樽」の音楽碑(オルゴール付き歌詞プレート)がある。

小樽運河にある「おれの小樽」の音楽碑(オルゴール付き歌詞プレート)小樽運河にある「おれの小樽」の音楽碑(オルゴール付き歌詞プレート)

赤レンガの前のベンチが目印になっている。

新たに設置された「おれの小樽」の歌詞プレートは、小樽らしい歌を残そうと活動している「小樽・後志ハエヌキ音楽祭」2007実行委員会(米谷祐司実行委員長)の手によって、全国の協賛者の協力を得て作られた。すでに昨年8月には、第1号の「小樽のひとよ」の歌詞プレートが、同じ運河散策路に設置されている。第2号となる「おれの小樽」の歌詞プレートは、第1号と約50m離れて設置された。(「小樽ジャーナル」2007/11/03)

小樽運河プロムナードを散策するときは、(運河とは反対側の)壁に埋めこまれたレリーフにも注目したい。

横138cm・高さ70cm・縦2.5cmのブロンズの歌詞プレートには、裕次郎さんの横顔とサインとともに、「おれの小樽」の歌詞が刻まれている。その傍らに、協賛者の名前が刻まれたブロンズ板とアナログ式の手巻きのオルゴールが付けられている。(「小樽ジャーナル」2007/11/03)

手巻きのオルゴールは、随分前から壊れていて、現在は撤去されてしまった(残念!)。

「おれの小樽」歌詞プレートのある小樽運河プロムナード「おれの小樽」歌詞プレートのある小樽運河プロムナード

小樽駅の「裕次郎ホーム」と、小樽運河の「おれの小樽」歌詞プレートは、小樽観光の定番ルートと言っていい。

小樽商科大学から稲穂小学校へ

石原裕次郎の小樽の自宅は、最初「松ヶ枝町」にあったことが、兄・石原慎太郎の『弟』(1996)に書かれている。

小樽の松ヶ枝町に住んでいた頃、家の近くに駄菓子屋があって、低級だろうと子供にとっては魅力的な品物が数々並べられていた。(石原慎太郎「弟」)

松ヶ枝町は、かつて遊郭のあった街として知られている。

小樽での最初の家のあった松ヶ枝町近辺にはいくつか聖域があって、一般の家庭の子供たちはそこへの出入りを禁じられていたものだ。一つはルンペン村と呼ばれる失業者と怠け者の吹き溜まりで、住人の中には大学の卒業者までいるという噂だったが、全体が饐えたような匂いのする一角だった。(石原慎太郎「弟」)

松ヶ枝町の自宅前には、馬車や馬橇を業として馬を飼育している一族が住んでいて、母親に禁止されながらも、幼い裕次郎は、この家にも出入りしていたという。

この頃、裕次郎少年は、兄・慎太郎の通うマリア幼稚園へ入園している。

父は私たちのために小樽で一番施設の完備し教育内容のいいという幼稚園をみつけてきて、まず私が当時は珍しかった三年保育の組に入れられた。カソリック系のドイツ人の尼さんたちが経営する幼稚園で、家からはバスで通うかなりの距離にあったが私はいわれるままに通園した。(石原慎太郎「弟」)

1934年(昭和9年)に開園した「マリア幼稚園」は、カトリック小樽教会富岡聖堂に隣接する幼稚園で、現在は「北海道カトリック学園・認定こども園 小樽藤幼稚園」となっている。

カトリック小樽教会富岡聖堂と小樽藤幼稚園カトリック小樽教会富岡聖堂と小樽藤幼稚園

カトリック富岡教会は、1929年(昭和4年)建築の歴史的建造物である。

切妻屋根の正面中央に十字架をかかげた尖塔が、青空にくっきりと浮かぶその姿は、まさに絵画そのもの。(略)錆色の軟石積みは、長い年月、静かに伝道にはげまれた教会の祈りと奉仕の日々を思わしめる。(小樽再生フォーラム「小樽の建築探訪」)

教会堂に向かって左側に、パステルカラーの藤幼稚園(旧・マリア幼稚園)がある。

兄・石原慎太郎の通ったマリア幼稚園(現・藤幼稚園)兄・石原慎太郎の通ったマリア幼稚園(現・藤幼稚園)

もっとも、石原裕次郎が幼稚園へ通うことはなかった。

「だってあの子のいうことに道理があるんだもの。家にちゃんとブランコや滑り台があるのに、なんで幼稚園にまでいって順番を待って遊ばなくてはならないんだって」(石原慎太郎「弟」)

入園三日目の昼前、裕次郎少年は勝手に幼稚園を抜け出して、一人でバスに乗って帰宅。

無銭のままバスに乗った弟は車掌に父の会社の名を告げて、いつも家でタクシーを使って出かける時のようにつけておいてくれと言ったそうな。(石原慎太郎「弟」)

自己主張の強いことで知られる石原慎太郎以上に、石原裕次郎は、自分の意思を貫き通す強い信念を、少年時代から持っていたのかもしれない。

石原一家が、松ヶ枝町から緑町一丁目へ移転したのは、裕次郎が小学一年生の時だった。

小学校一年の時、松ヶ枝町から小学校に近い小樽高商下の台地の緑町に移ったが、新しい家の前に小川が流れていて、夏の前にはなによりの遊びで、川底の石をはがしては下に潜んだ北海道ではサルカニと呼ばれたザリ蟹をとった。(石原慎太郎「弟」)

裕次郎の思い出の中で語られる小樽は、緑町の小樽である。

『石原裕次郎 日本人が最も愛した男』より『石原裕次郎 日本人が最も愛した男』より

石原まき子監修『石原裕次郎 日本人が最も愛した男』(1991)には、少年時代の石原裕次郎が住んだ住宅が、写真入りで紹介されている(キャプションは「緑町1丁目。3歳から9歳までをこの家で過ごした裕次郎。佇まいはいまも当時と変っていない」)。

NHK『7:30発「北帰行」石原裕次郎・小樽』(1978)でも、裕次郎がかつての自宅を訪問する様子が写されている。

石原裕次郎が少年時代を過ごした緑町の風景石原裕次郎が少年時代を過ごした緑町の風景

緑町の自宅には、北海道では「オンコ」と呼ばれるイチイの生け垣があった。

小樽の家には、オンコの木の生け垣があってね。すぐ裏には、きれいな小川が流れていた。(石原裕次郎「口伝 我が人生の辞」)

自宅の裏を流れる「きれいな小川」は、やがて小樽運河へと流れこむ「於古発川」(おこばちがわ)の、さらに支流らしい。

石原裕次郎の自宅近くを流れていた小川石原裕次郎の自宅近くを流れていた小川

『石原裕次郎 日本人が最も愛した男』にも、小川に掛かった木の橋にしゃがむ石原裕次郎のスナップ写真が収録されている(キャプションは「昭和53年、自宅近くの小川で。幼い頃兄と遊んだ川」)。

『石原裕次郎 日本人が最も愛した男』より『石原裕次郎 日本人が最も愛した男』より

小樽における少年時代の思い出は「アカシヤ」に象徴されていた。

僕が住んでいた緑町一丁目から、坂を上に歩いていくと、小樽高商があるんだけど、その途中に大きなアカシアの木があってね。そこからは小樽港が一望できた。(石原裕次郎「口伝 我が人生の辞」)

裕次郎の自宅近くにあった「小樽高等商業学校(小樽高商)」は、現在の小樽商科大学のことで、小林多喜二や伊藤整が学んだことでも知られている。

詳細は、伊藤整の自伝的長編小説『若い詩人の肖像』(1956)に詳しい。

伊藤整「若い詩人の肖像」青春の日の苦悩と詩人への道のりを描いた自叙伝的青春小説
伊藤整「若い詩人の肖像」青春の日の苦悩と詩人への道のりを描いた自叙伝的青春小説伊藤整「若い詩人の肖像」読了。 本作「若い詩人の肖像」は、1954年(昭和29年)3月から1955年(昭和30年)12月まで、『新...

写真好きの父は、太陽の昇る小樽港をバックにして、アカシヤの樹の近くに兄弟を立たせ、写真を撮ったという。

小樽商科大学へ続く地獄坂小樽商科大学へ続く地獄坂

小樽高商へ上る坂道(いわゆる「地獄坂」)にあったアカシヤは、アカシヤを愛した歌手(石原裕次郎)にとって、アカシヤの原風景と言っていい。

ちなみに、石原裕次郎の自宅があった緑町1丁目には小樽緑町郵便局がある。

緑町郵便局の隣にある「写真のたかはし」は、山田洋次監督・渥美清主演『男はつらいよ 寅次郎相合い傘』(1975)に登場する喫茶店「ポケット」のあった場所だ。

『男はつらいよ 寅次郎相合い傘』(1975)に登場する喫茶店「ポケット」は緑町1丁目にあった『男はつらいよ 寅次郎相合い傘』(1975)に登場する喫茶店「ポケット」は緑町1丁目にあった

東京のサラリーマン・パパ兵頭(船越英二)は、初恋の女性を探して小樽までやってくる。

夫を亡くし、現在はシングルマザーの信子(岩崎加根子)が、一人で切り盛りしているお店が「軽食喫茶ポケット」だった。

石原裕次郎が故郷の緑町を訪ねるのは、『男はつらいよ 寅次郎相合い傘』から3年後の、1978年(昭和53年)のことである。

裕次郎の母校とも言える小樽市立稲穂小学校にも、アカシヤの並木があった。

小樽市立稲穂小学校にある「石原裕次郎メモリアルアベニュー 裕次郎の小径」小樽市立稲穂小学校にある「石原裕次郎メモリアルアベニュー 裕次郎の小径」

1985年(昭和60年)、稲穂小学校の開校90周年に寄せられた石原裕次郎の文章を、『石原裕次郎 日本人が最も愛した男』(1991)で読むことができる。

”アカシヤの花の下で”──と言う私の今ではもう古い唄がありますが、3本の大きなアカシヤの木が母校稲穂小学校にありました。昭和53年、”北帰行” と言うNHKの番組で4日程取材に行った時、稲穂小学校でも撮影を致しましたが、その時一番最初に目に入ったのが位置こそ変れ3本のアカシヤの大木でした。(石原裕次郎「再びアカシヤを抱きしめに」/『石原裕次郎 日本人が最も愛した男』所収)

「昭和53年、”北帰行” と言うNHKの番組」とあるのは、NHK『7:30発「北帰行」石原裕次郎・小樽』(1978)のこと。

石原裕次郎の母校・稲穂小学校は、1896年(明治28年)開校(当初は稲穂尋常高等小学校だった)の伝統校だ。

1896年(明治28年)開校の稲穂小学校1896年(明治28年)開校の稲穂小学校

サカナクションの山口一郎が通った学校としても有名。

NHK『「7:30発 “北帰行” 」―石原裕次郎・小樽―』では、元気な子どもたちと触れ合う石原裕次郎の姿を観ることができる。

稲穂小学校のアカシヤ並木は今も健在で、一帯は2007年(平成19年)11月3日に「石原裕次郎メモリアルアベニュー 裕次郎の小径」として整備された。

稲穂小脇のアカシアの木は、「裕次郎の木」と呼ばれている。稲穂小で学んだ裕次郎さんが、小樽に寄った際に、校舎や周辺の家々の姿は一変していたが、このアカシアの木だけは変わらず残っており、稲穂小90周年に、その時の思いをつづった手紙を寄せたことで知られる。(「小樽ジャーナル」2007/12/01)

「小樽・後志ハエヌキ音楽祭」2007実行委員会が、小樽運河散策路に『おれの小樽』のオルゴール付歌詞プレートを設置した際、目標額を上回った協賛金の利活用のため、関連記念事業として整備したものらしい。

稲穂小学校「石原裕次郎メモリアルアベニュー 裕次郎の小径」の説明版稲穂小学校「石原裕次郎メモリアルアベニュー 裕次郎の小径」の説明版

古いアカシヤの並木には、今も、石原裕次郎の想い出がある。

小樽市の佃信雄市民部長は、「裕次郎の思い出がよみがえった。JR小樽駅前の裕次郎ホームから、運河の歌詞プレートを見て、アカシアのもとに来て、裕次郎さんのことを懐かしんでもらう観光ルートになってくれれば」と挨拶した。(「小樽ジャーナル」2007/12/01)

稲穂小学校は、北海道における石原裕次郎の聖地と言っていい。

『西部警察SUPER LOCATION 3 北海道編』より 『西部警察SUPER LOCATION 3 北海道編』より

1982年(昭和57年)10月、『西部警察PART2』の撮影で来札した際も、石原裕次郎は稲穂小学校を訪れている。

56年5月大手術をし九死に一生を得て再び仕事にカムバックし、翌年10月自主製作の ”西部警察” と言うTV番組で札幌にロケをした際、私は一日の休暇を利用し車を飛ばし、再度小樽を訪れる事が出来ました。(石原裕次郎「再びアカシヤを抱きしめに」/『石原裕次郎 日本人が最も愛した男』所収)

「56年5月大手術をし九死に一生を得て再び仕事にカムバック」とあるのは、1981年(昭和56年)4月25日に緊急入院して、5月7日に行われた「解離性大動脈瘤Ⅰ型」の大手術のこと。

「生還率は三%」という6時間30分の緊急手術を乗り越えて、石原裕次郎は「奇跡の生還」を果たす。

昭和五十六年五月七日(木)雨。緊急手術。成功の可能性3パーセント。開始、午後3時40分。神様お助け下さい、神様お助け下さい。手術終了、午後10時13分。専務に成功したと聞く。対面。裕さんの恐怖の顔すごい。(石原まき子「妻の日記」)

リハビリ生活を経て、石原裕次郎が復活するのは、1982年(昭和57年)4月4日放送の『西部警察PARTⅠ』第124話「木暮課長・不死鳥の如く・今」だった。

『西部警察』で完全復活した石原裕次郎は、続く『西部警察PARTⅡ』で全国縦断ロケを敢行。

北海道が舞台となったのは、1982年(昭和57年)12月12日放送の『第26話 北都の叫び カムバックサーモン』と、1983年(昭和58年)1月2日放送の『第29話 燃える原野!オロフレ大戦争』の2話である。

特に、『第29話 燃える原野!オロフレ大戦争』は、新春90分スペシャルバージョンだった。

「おれの小樽」が収録されたアルバム『石原裕次郎オリジナル ’82~おれの心の港町~』は、ちょうど北海道ロケの直後、1982年(昭和57年)11月に発売されている。

「おれの小樽」の作詞を担当した杉紀彦は、『西部警察PART2』では脚本も担当。

重病から「奇跡の生還」を果たした裕次郎にとって、少年時代を過ごした故郷・小樽は、特別の思いで訪れた街だっただろう。

今、小樽に「石原裕次郎記念館」はない(2017年に閉館)。

それでも、小樽市内の各地には、今も石原裕次郎の足跡が残されている。

時がすぎても胸がいたむのは
風の冷たさ恋したあたたかさ
さすらい流れてふと立ち止まる
おれの小樽は坂の町
別れたあの日が 見えかくれ

(石原裕次郎「おれの小樽」)

そして、おれの小樽は、やはり「坂の町」だった。

稲穂小学校も、富岡教会も、裕次郎の自宅跡も、すべては坂の上にある。

小樽運河から小樽駅へと戻る道も、やはり、坂の道だ。

伊藤整や小林多喜二も通った小樽商科大学まで続く地獄坂は、文字どおり「地獄坂」だったに違いない。

そして、この日、稲穂小学校や藤幼稚園では、運動会が開催中だった。

夏の風に吹かれての文学散歩は、やはり楽しい。

小樽駅横にある三角市場の「真ほっけ定食」小樽駅横にある三角市場の「真ほっけ定食」

小樽駅の横にある三角市場で食べた「真ほっけ定食」の特大ホッケが、小樽散策のエネルギーになってくれたのかもしれない。

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MAS@ZIN
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。