読書体験

「岩波少年文庫で読むケストナー」特製アクリルキーホルダー『エーミールと探偵たち』『ふたりのロッテ』

「岩波少年文庫で読むケストナー」特製アクリルキーホルダー『エーミールと探偵たち』『ふたりのロッテ』

岩波少年文庫フェア2024は「岩波少年文庫で読むケストナーとドイツの作家たち」だった。

「特製アクリルキーホルダーを応募者全員プレゼント」という、うれしい企画付きで、『エーミールと探偵たち』や『エーミールと三人のふたご』『点子ちゃんとアントン』『ふたりのロッテ』『飛ぶ教室』などの名作が、キャンペーン対象となっていた。

ケストナーの児童文学

岩波少年文庫の特製アクリルキーホルダー『エーミールと探偵たち』岩波少年文庫の特製アクリルキーホルダー『エーミールと探偵たち』

応募者全員プレゼントの「特製アクリルキーホルダー」は、岩波少年文庫『エーミールと探偵たち』『ふたりのロッテ』の表紙デザイン。

ケストナー好きの読者にとって、これはうれしい企画だった。

エーリッヒ・ケストナーは、ドイツの児童文学作家である。

作家ケストナーについては、自伝『ぼくが子どもだったころ』で、多くのことを知ることができるが、もっと詳しい情報を知りたい人は、高橋健二『ケストナーの生涯』(1981)が参考になる。

ケストナーに児童文学を書くよう勧めたのは、ジークフリート・ヤコプゾーンの未亡人(エディト・ヤコプゾーン)だった。

「子どもの本を書きなさい」と彼女はケストナーに言った。彼はなんでもやる気でいたが、子どもの本を書くことだけは考えていなかったので、その提案に面くらった。(高橋健二『ケストナーの生涯』)

ケストナーが、初めて書いた児童文学が『エーミールと探偵たち』である。

『エーミールと探偵たち』は、1929年(昭和4年)に出版されたことになっているが、作者によると、1928年(昭和3年)には出版されていたらしい。

「エーミールと探偵たち」の書き出しは、ケストナーの少年時代を思わせる。母ひとり子ひとりが細ぼそといたわり合って生きている。親と子のユーモラスなやりとりの中に、しんみりとした情愛が感じられる。(高橋健二『ケストナーの生涯』)

ケストナーの物語に登場する少年は母親思いで、母親は少年をこよなく愛している。

少年たちがみな友情に厚いのは、彼らが、家庭の中で、温かい愛情を受けて成長してきたことを示唆している。

そこに、ケストナー文学の温もりがある。

エーミールが五つのとき、板金の仕事をしていた父さんのティッシュバイン氏が亡くなった。そのときから、母さんは美容師をしている。(エーリヒ・ケストナー「エーミールと探偵たち」池田香代子・訳)

『ふたりのロッテ』は、ケストナーが自由の身となった戦後に執筆された。

第二次大戦中、ドイツ国内でケストナーの本を出版することは、ナチス政府によって禁じられていたのだ。

同年に子どもの小説「ふたりのロッテ」が出て、ケストナーは「エーミールと探偵たち」の名声をあらたにした。十二年間の息苦しい空白にも、彼のエスプリと創作力と着想とユーモアは少しも衰えていないことを示した。(エーリヒ・ケストナー「エーミールと探偵たち」池田香代子・訳)

1949年(昭和24年)に出版された『ふたりのロッテ』は、翌年の1950年(昭和25年)に映画化された(第一回ドイツ連邦映画賞)。

日本でも、1951年(昭和26年)、美空ひばりが一人二役で演じた『ひばりの子守唄』という題名で映画化されている。

「お母さんも、お父さんは生きてるって、あなたにおしえなかったのよね」ルイーゼは、両手を腰にあてる。「ごりっぱな親たちだわ。ちがう? まあ、いまに見てなさい、とっちめてやるから」(エーリヒ・ケストナー「ふたりのロッテ」池田香代子・訳)

1971年(昭和46年)には、劇団四季が『ふたりのロッテ』を上演、児童福祉文化賞を受賞するなど、この物語は、日本でもよく知られる作品となった。

ちなみに、ケストナーは、1959年(昭和34年)、「国際ペンクラブ」の副会長に就任しているが、同時に副会長に就任した日本人作家が川端康成だった。

岩波少年文庫のケストナー

岩波少年文庫の特製アクリルキーホルダー『ふたりのロッテ』岩波少年文庫の特製アクリルキーホルダー『ふたりのロッテ』

『ふたりのロッテ』は、1950年(昭和25年)12月25日(つまり、クリスマス)に、岩波少年文庫から刊行されている。

『宝島』『クリスマス・キャロル』『あしながおじさん』『小さい牛追い』と並んで、岩波少年文庫創刊ラインナップの一冊だった。

ドイツでの出版が1949年(昭和24年)だったから、当時の『ふたりのロッテ』は、まだ最新作だったと言える。

最初の訳は高橋健二で、池田香代子の新訳は、2006年(平成18年)に岩波少年文庫に入った。

ケストナーは、私の青春時代の憧れの人でした。(略)私が読んだケストナーは、すべて高橋健二先生の訳。私たちの文通の際の結びは、いつも「合いことば、ケストナー」です。(黒柳徹子『ケストナーの生涯』推薦文)

「合いことばは、ケストナー」は、もちろん、「合言葉エーミール!」からの引用である(『エーミールと探偵たち』)。

『エーミールと探偵たち』は、1953年(昭和28年)に岩波少年文庫入りしていて、訳は小松太郎だった。

岩波少年文庫の表紙となっているイラストは、ドイツの画家(ワルター・トリヤー)のもので、ケストナーの児童文学の挿絵は、すべて、このワルター・トリヤーが担当している。

2024年(令和6年)の岩波少年文庫フェアでは、ワルター・トリヤーによる表紙イラストが、そのまま、ミニチュアのキーホルダーとなった。

ケストナー生誕125年・没後50年を迎える今年のフェアは、時を経ても変わらず私たちの胸に迫るその名作を中心に、岩波少年文庫で読めるドイツの作家による作品を選びました。(岩波書店「岩波少年文庫フェア2024」)

岩波書店からは『ケストナー少年文学全集(全9冊セット)』も出ているが、版元品切れで、現在は入手困難。

『動物会議』『サーカスの子びと』など、少年文庫では読むことのできない作品が入っているので、復活が望まれる。

とりわけ研究者としての私の形成にとって大きな意味をもったのは、少年文庫でケストナーの『ふたりのロッテ』に初めて出会ったことである。なにしろ私は昭和九年に出版された菊池重三郎訳の『少年探偵エミール』を宝物にしていて、戦争中の疎開先までかくし持っていき、また戦後に持ってかえってきたほどだったから、そのケストナーの新作とあれば、期待するなという方が無理というものだった。(猪熊葉子「ケストナーと二人三脚」/『なつかしい本の記憶』所収)

岩波少年文庫のケストナーは、戦後を生きた子どもたちに、大きな影響を与えた。

そして、ケストナーは今も、多くの子どもたちに楽しい夢を届け続けているのだ。

ABOUT ME
MAS@ZIN
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。